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偽善は何故「悪である」のか?そうなら一体どうしろと言うの?

しない善よりする偽善という発言もありますが、大体偽善って悪く言われる気がします。 何故でしょうか。 自分の心が綺麗だと思い込んでいる? 自分の名誉のために人を利用している? 綺麗なことは綺麗な心でしなければならない? それとも、全ての人は綺麗な心を持たなければならない? ?? でもここでまた一つ疑問。 心は個人の力ではどうにかするのはかなり難しいと思うけど、じゃあ「偽善者」は一体どうしたら良いのでしょうか。 そういう意見はあまり見かけません。 頭で分かっていても何もするな? やり方が売名的で、そのやり方を変えろ?(チャリティーイベントについてなら、こういう発言は見たことあります) 以上、些細なヒントでも下さるとうれしいです。

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  • ecoshopQ
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回答No.2

偽善は確かに悪ですが、なぜ悪かといわれたら、 それは裏切りがあるからでしょうね。 全に見せかけた裏切りは最大級の悪といっても いいでしょう。

noname#68602
質問者

お礼

お答えありがとうございます。 人への偽りという事ですね。 想いが込められていると思った、心のキレイな人だと思った、でも違う・・・と。 うーん。ならば偽善ですよ、買い被らないでねと言って行動するしかないかな。

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noname#67536
noname#67536
回答No.29

はじめまして、偽善者です。 突然ですが、私は世の中のためになる偽善者と有害な偽善者がいると思います。 いい偽善者は、いい事をすることである種の欲を満たしたり、日ごろの罪悪感を消したりして、それを誰かにアピールしたりすることなく結果沢山の恩を売ってる人。心の中では性格悪くても親切で周りに明るさを振りまいているような人。 有害な偽善者は、いい事をしてそれでヒーロー面していてそれが周りの不快感になってる人。偽善者的で嫌だといって、自分の悪い部分をさらけ出して迷惑かける人。これは私も嫌いです。 あと偽善者っぽい性格の人とかもいますよね。谷原章介さんとか偽善者キャラっぽくていつもニカニカしてるようなところが面白くて好きです。 多分嫌われるのは2番目だと思います。1番目はそもそも偽善者だとばれない。っていうか偽善者とかきれいごと嫌いって小学生じゃないんだから。そんな事言ったら本当にいい事って偶然以外無いじゃないですか。いい偽善者になるのが一番だと思います。で、ずっと続けてるうちに芯から綺麗な心で偽善行為ができるようになりますよ。

noname#68602
質問者

お礼

始めまして偽善者さん、回答ありがとうございます。 (他のところでこんな言い方したらまずいだろうなあ) 良いことをしているからってデカイ顔するなってことですね。 1番目は傍から見て分かりませんね。それは裏切りだという説も出ているのが難しいところです。

noname#84124
noname#84124
回答No.28

>「(いかなる形においても)利益、報酬を強要」しない って言ったのはね、「偽善」をやってるのかどうか、自分ですら気づかないこと多いんだ。 いかにも「やり方が売名的」なんて、分かりやすいのは、まだいいんです。 たとえ純然たる善意でやったつもりでも、いっそ悪意でやった自覚があろうとも、結果どう出るかなんて、最後の最後が来るまで分かんない。 善意だろうが悪意だろうが偽善だろうが、いろんな意味で、やらざるを得なかったらやっちまうでしょ、どうせ。 そいでもって、その結果がどう出るかの保証はない。 だから、どう転んだって、「利益、報酬を強要」するわけにはいかないんです。 責任を負うという覚悟があったところで本当に責任とれる保証もない。死んでしまったあとなんか責任とれませんからw 要するに、そもそも善意だろうが偽善だろうがデカい口たたくなということ。 現実的、実際的に考えたら、こういうことです。

noname#68602
質問者

お礼

ありがとうございます。 人間である以上、利益・報酬を強要なんて無責任、つまり口に上せてしまった時点でアウトってことですね。 結果の誤りは“誤善”とでも呼ぶべきでしょうか。 しかし再度来てくれる方が多いなあ。私の理解力・想像力が足りないのかな。

noname#80116
noname#80116
回答No.27

 No.18&25です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あ。「仏性と言うのなら われらが一人ひとりの心に 善は しっかり坐っていることでしょう。」  だから、善だの悪だの言うのが世迷いごとって事ですね。  失礼しました。  しかし人はそれを傷つけ悪を作り出すんですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 〔細かくは   ★☆ 《仏性》  ☆ を出したのは 方便ですが そしてまた  ★ しかし人はそれを傷つけ悪を作り出すんですね。  ☆ に関しては 但し書きを行ないます。つまり 《善なる自然本性を傷つける》ことが 悪であり その善の欠如した部分を持つ精神(あるいは 要するに みづからがゆがめた知性)から それでも思考力に頼り 想像力を余計にまた過剰に働かさざるを得ないかたちに みづからを追い込んで そうして 為す行ないは たしかに《悪事》であり したがって 《悪を作り出す》と言えるのですが そうなのですが〕   そうなら一体 どう答えろと言うの?

noname#68602
質問者

お礼

ありがとうございます。 そうなんですか。この但し書きは私の感覚から考えると意外です。

回答No.26

 知識や判断の場所であることはご存じの通りであります。  議論や思想の蒐集でもないはずです。  一定の時期にはおしゃべりや雑談は終了するのでしょうね。  何のための質問だったのか、疑問が生じてきます。  逡巡と迷いよりも、自己を何に対面ささせているか、対面させようとしているか。そして果敢に突破する段階を自覚するべきではないだろうか、それが論理や演繹、理屈の全てを解決してくれるでしょう。  つまりいい加減に締め切らないと、単なるお茶の間、サロンのBGMかテレビの音声化、話し声でしかなくなろう。ということです。  それは似非なるまじめさ、探求であり、これこそが偽善です。いい加減にしたらどうでしょう。ここが偽善にならないために。  brageloneさんの深甚なる思索を無にしないためにも。  決断がされる時期でしょう。 

noname#68602
質問者

お礼

せっかくアドバイスいただいたのですが。。 思想や論の蒐集をせずに、判断せよと言うのでしょうか。

noname#80116
noname#80116
回答No.25

 No.18です。  ★ 善悪なんて決められない灰色って事ですね。  ☆ ちがいます。善が 根として生えているという意味です。  人によっては――さいわいなるかな―― この善が 木の全体を蔽っています。こういう場合も 時として 起こります。  こういう場合も 歳を重ねた目ざといアクマとかいう者には 一目瞭然なようで かれは それを見てとって 偽善と見なし 声を挙げて そのことを皆に触れ回ります。  自尊心が人一倍あって しかもそのプライドが 正当にも――正当にも です(そうされて当然なのにです)―― 傷つけられると どうやら そのアクマくんの研ぎ澄まされた触覚が乗り移ってのように 敏感になり そのような偽善者探しに精を出す始末です。見つけたら もちろん 触れまわります。  でも そのときには 咎めたり告発したりするのではなく あくまで――飽くまで―― 自分は 光の天使をよそおうのです。あいつは いいやつなんだが ただ一つ 玉に傷があって これこれなんだとでも言うでしょう。(もっと 込み入った言い方も むろん あります)。  けれども と言いますか そのようなかたちであっても あるいはまた 別のかたちであったとしても じつに 善も悪も 決められます。はっきりしていますよ。  悪は 善の――つまり 存在のことです われわれの存在の――部分的な欠如かつ損傷です。うそをつけば その分が 存在の自然本性に傷をつけます。そのようにして シロアリのごとく 悪が 善を 蝕んでいきます。  しかし 大抵の人は やむを得ず 悪をおこないます。少数の人間は プライドが高く 面子だけで 生きていますので 平気で 善の欠落を みづから つくります。世の中を あくまで自分の思うように生きたい その自分の思うかたちの限りで 胸を張って 歩いて行きたいと強く 欲するからです。  善も悪も 決められます。主観の内面で決まれば それでよいと言えるくらいなのです。  この悪が 指摘を受けて 傷つけられると感じる人がいます。善についた傷が傷つけられるこのことを 心外だと息巻きます。その相手に対しては アクマだとののしります。ところが この口に苦い薬は 傷を傷つけるのです。欠如を欠如させるのです。  悪魔が死であり 死の制作者だとすると ひとことの嘘は 死への切符を手に入れたことになります。みづからが そうしたのです。この死への切符としての悪 つまり 善の損傷 これが さらに傷つけられるということは 死の国行きの列車が 方向転換させられることです。  死が死ぬのです。死が死なしめられます。否定の否定です。ベンショウホウってやつです。  偽善もへちまも ありません。悪は悪です。大地に張った根としての善があれば だいじょうぶです。死が死なしめられる人に さいわいあれ。

noname#68602
質問者

お礼

ありがとうございます。 あ。「仏性と言うのなら われらが一人ひとりの心に 善は しっかり坐っていることでしょう。」 だから、善だの悪だの言うのが世迷いごとって事ですね。 失礼しました。 しかし人はそれを傷つけ悪を作り出すんですね。

回答No.24

ANo.20  ☆意識しなければ自分を求めることは出来ない気がするのですが。  私:意識の仕方の練習、訓練。何事もほどほど。です。    片足だけで歩くのではない、何かに捉まって、泳いでいるといえません。    考えるのも、自分でやるのも重要です、と存じております。

noname#68602
質問者

お礼

ありがとうございます。 過ぎたるは、って事ですね。 私としてはあまり頭に偏っているつもりもないのですが。誤りでしょうか。

回答No.23

ANo.12のyy8yy8です。私の回答への感想ありがとうございます。 私の回答は、善行をしたい人が、偽善的行為ではないかと、自分の行為に疑問を持ってしまう人に対しての考えを述べたものです。 子どもを虐待して殺してしまった人間は、好ましくない方の心を使っていたのでいつの間にかその心が育って、虐待行為がエスカレートし、そのような結果をまねいてしまったのではないでしょうか。 心は使うほどに育ちます。好ましい心も。好ましくない心も。

noname#68602
質問者

お礼

ありがとうございます。 責めたり迷ったりしても、いつか好ましいほうの心が育つからがんばれってことですね。 個人的には、好ましくない方の心を使ってしまわないかという心配もあります。

noname#155689
noname#155689
回答No.22

ANo.21さんのご回答にキモチが近いかも知れません。 偽善を糾弾する人たちに 悪気がなければイイのかよ?と反駁したくなるときが多々あります。 善行は、結果で判断すべきだと 私は最近つくづくそう思います。 だだし、結果は、誰が、どの時点で、判断すべきかは まだまだ私も悩んでいる最中です。 誰が判断すべきか?は 行為を受けた相手が最優先だと思いますが 周囲の方々にも影響を及ぼしますからねぇ。 > 大体偽善って悪く言われる気がします。何故でしょうか。 偽善がよくない結果をもたらすことが多いから、といった 経験知に基づいているのではないか、という仮説と 偽善という言葉そのものが、そもそも悪い意味だから、という仮説を 提示させて頂きます。 ただ、あまり重要な問題ではないと思います。 > じゃあ「偽善者」は一体どうしたら良いのでしょうか。 悪気があろうが、なかろうか、自分の行為に責任をもつこと 自分の行為がもし悪い結果を生んだ場合、責任を取ること ではないでしょうか。 翻って、結果に責任を負うという覚悟のない行為は 全部「偽善」だと考えています。 これでも自分がOKWaveに回答する際は その内容に責任を負えるか?と、最近は結構苦しんでいたりします。

noname#68602
質問者

お礼

ありがとうございます。 自分に責任を持てですか。そこまで考えているか、覚悟はあるか、自信はあるか。 チャリティイベントなどは多くの人が関わりますが。その場合誰が判断するか。 偽善の良くない結果。前にも出てた、独善やアメリカなどの場合ですね。ああいう話を教訓としているのか。 偽善という言葉が悪い意味だからという発想はありませんでした。 それが正しいとすると、その人は雰囲気で偽善を批判している人ってことかな。前にも出ていた、消去法で悪に分類されるというのも。

回答No.21

No.15です。 説明の仕方が悪くて申し訳なかったです。 >行い的には良い、それ以上それ以下でもないと言うことですね。と言うお答を頂きましたが、全く逆の意味です。 行いその物は、物の見方によっては良いとも見え、悪いとも見えると言う事です。 No.16の方の所で答えが出たようなので、それに対する意見を。 言いたい事は分りますが、それでは、そう言っている人達とあまり変わりがないですよ、見方によっては。 貴方には無いのですか?悪気なくやてくれた親切に文句付けたこと。ちなみに私はよくある親に対して。 そゆう風に言う人達(一部例外)の殆どが悪意がないとおもいますよ。 まあ、(悪意の無い悪行)と言う見方も出来ますね。見方によっては。

noname#68602
質問者

お礼

お先に失礼します。補足&アドバイスありがとうございます。 行いは良く見えたり悪く見えたりする、偽善云々よりそっちに頭を使えって事ですね。 実は答えはまだ出ていません。 そう言っている人達とあまり変わりがないというのは。 偽善非難に対し、相手の行動や善意を汲み取ることなく「無茶だ」と考え、理想主義じゃないかと勝手に想像することですね。 確かにこれは不毛と考えられますね。すいません。

回答No.20

 ANo.16  哲学のカテでいうことではありませんが、考えることで解決しようとはしないほうがいいと存じます。  ここに居る。世界がある。そしてそれは理由があるから居るのであり、あるのである。  考えている思考作業は、道具でしかない。  そうしているある存在がある。意識しようとすると、向こうに言ってしまう、自分という存在が。  意識という作業、そしてそういう現実、そしてその内容や結果は自分ではないのでしょう。本当の自分としてやるのは、思考では無理です。限界があります。先の泥棒が聖なる師の僧にまでなったとき、なくしていた自分を取り返した。金の仏像とは自分のことを言っているのです。私はそう解釈しておりましたが、何もかも盗んでしまい、聖なる師の僧になった話で、そこまで理解してくださると、先の回答者様も多分、そしてわたしも期待していたのです。  一番大事なのは盗まれてしまった自分を盗み返した、そういう修行を自分にしておられた、ということでしょう?  こういうのが生まれながらの釈尊や聖者ではない、私たちなのです。  そしてそれが可能だということを言っているのです。思索は絶対に必要です。しかし思索が全てではありません。ジャニュナという叡智がないものは動物さんです。人間にはそれがあるから、それがゆえに、叡智を駆使して、生きるのです。叡智だけではだめです。生きるだけではだめです。

noname#68602
質問者

お礼

ありがとうございます。 余計なことは考えないについての補足ですね。 金の仏像とは自分だったのですか。つまり自分自身を再び得ようとした、そしてその自分になることが出来た。 前の話にあった、善に奉仕の心を求める事は不可能では無いという話ですね。 考えることだけでは良い心を得ることが出来ないとは。私には難しい話です。 意識しなければ自分を求めることは出来ない気がするのですが。

noname#68602
質問者

補足

だとすると 「俺が泥棒である事を、ほんの少しでも疑われてはいけない」 という事は、「泥棒」は自分を失ったことは恥ずべきことだと考えていたと言うことですね。 心が無いのは恥ずべきことかどうか、意見が分かれそうです。 「仏像を盗む計画は」の部分は「意識」しないようになっていったと考えるべきかな。 しかしこの手の解釈は他の事にも可能な気が。

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