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旧ソビエト連邦崩壊:独立と抵抗の勝敗について
- 1991年の旧ソビエト連邦の崩壊により、周辺のいくつかの共和国は独立を果たしたが、一部地域は独立を達成できなかった。
- 独立を果たした国と達成できなかった国の違いには、政治的・経済的な要素が関与している。
- パイプラインや地下資源などの利益は独立を阻む要素となりうるが、民族や宗教の違いも影響している可能性がある。
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1991年12月にソビエト連邦が崩壊したのですが、建前上、ソビエト連邦は「15」の共和国の連邦だったのです。この15共和国は、全て独立しました。これは、もともソ連の憲法で独立の権利が明記されていたのです。それを実行する機会が本当に来るとは、その1年位前までは誰も思わなかったでしょうが。 ↓ソビエト連邦内、15共和国(右は、現在の国名) ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 - ロシア エストニア・ソビエト社会主義共和国 - エストニア ラトビア・ソビエト社会主義共和国 - ラトビア リトアニア・ソビエト社会主義共和国 - リトアニア 白ロシア・ソビエト社会主義共和国(または、ベロルシア・ソビエト社会主義共和国) - ベラルーシ ウクライナ・ソビエト社会主義共和国(はじめウクライナ社会主義ソビエト共和国) - ウクライナ モルダビア・ソビエト社会主義共和国 - モルドバ グルジア・ソビエト社会主義共和国 - グルジア アルメニア・ソビエト社会主義共和国 - アルメニア アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国 - アゼルバイジャン カザフ・ソビエト社会主義共和国 - カザフスタン ウズベク・ソビエト社会主義共和国 - ウズベキスタン トルクメン・ソビエト社会主義共和国 - トルクメニスタン タジク・ソビエト社会主義共和国 - タジキスタン キルギス・ソビエト社会主義共和国 - キルギス イメージしにくいと思いますが、「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」も「ソビエト社会主義共和国連邦」から独立したのです。ゴルバチョフとエリツィンは、全く別の役職でした。1991年8月から12月、ゴルバチョフは落日の店じまい担当。エリツィンは日の出の勢いでした。 上記の中の「ロシア・ソビエト連邦共和国」の中に、更に16の自治共和国が有りました。これが、なかなか独立できない国です。事実上はロシア連邦でなくソビエト連邦との調印での自治共和国でしたが、実際は新しいロシア連邦の傘下に入ったので、独立できないのです。 ↓ロシア・ソビエト連邦内、16自治共和国 カレリア自治共和国 コミ自治共和国 モルドバ自治共和国 チュバシ自治共和国 マリ自治共和国 ウドムルト自治共和国 タタール自治共和国 バシキール自治共和国 カバルディノ・バルカル自治共和国 北オセチア自治共和国 カルムイク自治共和国 チェチェノ・イングーシ自治共和国 ダゲスタン自治共和国 トゥヴァ自治共和国 ブリヤート自治共和国 ヤクート自治共和国 チェチェン共和国は、ロシア連邦共和国の中の共和国なのです。 参照 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E9%80%A3%E9%82%A6%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD 自治共和国: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%B2%BB%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
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- Tacosan
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既に回答のあるように「ソ連を構成する『共和国』だったかどうか」というところでしょうね. 自治共和国はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の中にあるとされていたんでしょう. ここだけは「連邦」の名前が付いてますし. ちなみにバルト三国は国際連盟の加盟国でしたし, ソ連・ウクライナ・ベラルーシの 3国は国際連合の原加盟国です. ウクライナやベラルーシについてはアメリカとのやりとりがおもしろいところですが, その当時から既に「ソ連 = 15共和国からなる連邦」という認識があったものと思われます.
お礼
ご回答ありがとうございます。 つくづく、自治区と名前が付けられるすべての地域に 同情を禁じ得ません。 宗主国に蹂躙される運命と向き合わなければならないという事でしょうか。
- tanuki4u
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線引きが明確かどうか? この一点 旧ソ連は、ソビエト社会主義共和国連邦であり、15の共和国の連合体を建前にしていました。 その15の挙和国の中にバルト三国やカザフスタンとかウクライナ、そしてロシアも含まれました。チェチェンはロシアの中の一つの地方であります。 旧ソ連が崩壊した段階で、崩壊をどこで止めるんか?という問題が生じました。15の共和国でとめとこや!というのが、バルト三国+CIS12カ国の暗黙の合意事項。 民族というのは、それぞれの人間の「主観的な」定義ですので、分裂しようと思えば、どこまでも分裂できます。極論としては人口の数だけ分裂可能です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 NO.2と同意見のようですね。 自分の無知を恥じますわ(笑) 勉強をします ロシアはもっと分割するべきですよねぇ?
- wiz0621
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バルトもチェチェンも帝政ロシア時代に併呑された地域なのですが 唯一の違いは「独立の機運が高かった」ことだと思われます。 誰の?もちろん、チェチェン人の。 チェチェン人は帝政ロシア時代から、ロシア支配には激しく反発しました。 その経緯からソビエト時代にスターリンから危険視されることとなります。 結果、恒常的に「人狩り」が行われるようになりました。 (あるルポライターが近年、この人狩りが未だに続いていることを暴露してしまいましたが) その後もチェチェン弾圧は国策のように続き、ロシア人の中に チェチェン人を一段低く見る精神性が確立されていったように思えます。 結果として、自分たちより立場の低い(と思っている)チェチェン人の 独立を認めることは難しくなってしまったのではないでしょうか。 ソビエト混乱期に北方領土返還の約束を取り付けることは可能だったか? ということであれば、可能でした。 正確に言えば、事務レベルでの約束は取り付けたんです。 ご記憶の方も多いと思われますが、日本は国を挙げての活動を行ったのです。 ところが、その後のロシアの驚異的経済復興により、 この約束は曖昧な表現へと変化していきます。 加えて、返還運動を積極推進していた日本人の議員は 社民党・共産党、加えてマスコミの批判で失脚。 日本は自らその機会を逸することとなります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど、感情的な部分がかなりあったんですね。メンツが許さないという事でしょうかね。 それぐらい許してやれよと他人事ながら思ってしまうのですがね。 >正確に言えば、事務レベルでの約束は取り付けたんです。 >ご記憶の方も多いと思われますが、日本は国を挙げての活動を行ったのです。 しりませんでした…まだわかったとはいえ勉強が不足しておりました。 このタイミングで取り返せないのなら正直言ってもう難しいんじゃないかと 絶望視してしまいますね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 謎がすべて氷解しました。 その天と地の境界線はそんな理由だったんですね。 すべての共和国が独立した方が世界の平和に寄与するかと思うんですがねぇ… たいへんすばらしい回答です。