• ベストアンサー

創価学会

世界の様々な宗教のことを学びたいと思っているものです。 創価学会に詳しい方、学会員のかたに質問します。 サイトや本などでは学会員の方々は勤行や題目をしておられると書かれています。 そこで伺いたいのですが、忙しくて勤行や題目ができない、また気持ちがのらなくてやる気になれないときはどうしておられるのでしょうか。 また、そのような学会員の方が周囲にいらっしゃったら他の学会の方はどうされるのでしょうか。 他の学会の方のために祈ったりされるのでしょうか。 また、励ますときはどのように励まされるのでしょうか。 なるべく具体的に答えてくださると幸いです。 荒し目的ではなく、真摯に答えてくださる方お願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • hyakkinman
  • ベストアンサー率16% (738/4426)
回答No.1

学会員です。 私たちは、「忙しくて勤行・唱題ができない」ということは、100パーセントありえません。 もし、そういっている人がいれば、「心の弱い方」です。 1日24時間ある中で、必ず食事をする時などの「休憩時間」がありますから、その時にやります。(基本は、朝晩の2回、ご本尊に向かって正座をして行います。) 勤行は、「漢文」で書かれた「勤行要典」を読むだけですから、5分で終わります。 「唱題」も、時間の長さではなく、「心を込めれば」一辺でもかまいません。 場所も、「仏壇前」「本尊前」でなくてもよいのです。壁に向かってでも。 「本尊」は、「各自の心の中にある」とされていますから。 学会には、「やらなければいけない」ことは、ひとつもありません。 すべては「やりたい」からやることなのです。 でも、「忙しさ」などの「やりたい心」を邪魔する要因が重なると・・ 「後でやろう」などという「弱い心」が芽生えたりします。 ですから、「気持ちがのらない」というのは、「自分の心の中にある、怠け心に負けている姿」なのです。 それを、「魔に負ける」と言います。 学会員は、日々「心の中の弱い部分【魔】」と戦い、「強い部分【仏】」を引き出すために、「勤行・唱題」をしているのです。 ですが・・・やはり、人間ですから・・・負ける日もあります。 そんな日は、まず「南無妙法蓮華経」と題目をあげてみます。 「勝てなければ」・・・その日はムリせず、「休養」し充電に努めますね。私の場合は。 祈りの基本は、「世界の平和と、全ての人の幸福」ですから、「出来ずに、負けている方がいれば」・・・「弱い心に、勝てますように」と祈ります。 「一緒にやろう」・・・これが、励ましの基本ですね。 本当に、一緒に「勤行・唱題」やりますよ。 もちろん、相手の「意思を尊重して、やりたくないと言われれば、やりません。」 このくらいで、おわかりいただけますでしょうか?

noname#66432
質問者

お礼

回答有難うございました。 一日5分でいいから祈ることが自分の中の仏を引き出すことにつながるのですね。

その他の回答 (1)

noname#64557
noname#64557
回答No.2

日蓮大聖人の仏法を研究していました。 朝夕の「勤行や題目」も基本的には、「自由」です。 近年になってから、儀式化された現在のスタイルが生まれているようです。時代の変遷と共に、資本経済の基盤の上に「組織運営」を含め、鎌倉時代の様式や仏法の精神を忠実に再現することは、不可能であると考えています。 公明党の存在自体がそれを象徴しています。「経済」「政界」は、パワーゲームの領域であり、「生命尊厳の法を唱える宗教」との共存は不可能であると確信しています。共存を正当化するが故にカルトと呼ばれ る由縁があるとおもいます。 「他の学会員に対して祈り/励ます」・・それは、傾聴と受容と共感にあると考えます。あくまでも、その人の「個性」を見出し尊重することに尽きます。それは、宗派に限らず「人間尊重の」の問題であると考えます。 かなり組織が拡大されましたが。「肥大化」したという表現が適切であると思います。多くの学会員の方は、相次ぐ組織拡大戦の下に「建前(学会の方針)」と「本音(個人の意志)」を隔てる「壁」(理性)が欠落しており、マインドコントロール状態に陥っているといえます。 その背景には、「教義」が「運営論」を正当化するために「歪曲」されコマーシャリズムを彷彿とさせているのが事実す。 例えば、利権の戦いの象徴ともいえる「イラク攻撃」に関しては、「生物兵器」等の根拠無き所持を教義上の「悪」として位置付けて「戦争」を正当化した事実に如実に現れています。「戦い」を否定した学会員が多く処分の対象となったのが事実です。 キリスト教の流通の歴史における「十字軍の遠征」に見られる史実が、今まさに政権を手中に収めた学会で再現されているのが事実です。 肥大化した宗教組織の歴史は、繰り返されます。 「宗教を通じて知恵を得た者の声は揉み消され、随従するものが称えられる」現状を御理解下さい。 私は、この惨状に嘆き「組織から離れる事を余儀なくされる結果」となった学会員の意志を尊重することに日蓮大聖人の仏法の実践者としてではなく、一人間として取り組んでいます。 私自身は、「日蓮正宗」との「戦い」に関しても無関心です。 何故なら、「平和」は「戦い」の対極に位置するからです。 何故、学会に残るのかと質問されます。 悲惨な現状に嘆くが故に残っております。

関連するQ&A