彼らは「本物の仏教だ」と思っているようですが、そうではありません。
「学会は絶対正しい」「他の信仰は間違い」などと「正邪」を作りそれに拘るような指導により、排他的で寛容さを失くし、一生懸命勧誘に励む熱狂的な信者を作ります。
学会員の多くは、集団の中にいる安心感や同じ目標、同じ敵(敵対する宗派や批判者)を持つ「仲間」という存在に励まされ、「強い自分に変わった」「信心の力だ」などと思い込みます。
そして、学会活動に生き甲斐を感じ、生きるために信仰を活かすのではなく、信仰のために生きているような(信仰に依存)状態になります。
指導者に「学会は正しい!」「勝つか負けるかだ!」「強くなれ!」「自信を持て!」などの言葉や、他の宗教の批判などの言葉で煽られてばかりいれば、どうしたって、自信過剰になってしまたり、傲慢になったり、自己愛が強くなったり、感情的になり易くなったりなどの悪影響を受ける信者が生まれてしまうでしょうし、他者に強引に押し付け、争いを生んだりと過激な信者が生まれてしまうのは避けられないわけです。
もちろん、それで適度に前向きになる程度の人もいます。そういう人にとっては「この信仰はすばらしい」となります。
狂信的な信仰は家庭や人間関係を壊したり、自分や他人を精神的に追い込んでしまいます。
狂信者となり、どのように感じ、行動し、勧誘等でどのように他人と接するかは、実にさまざまで、個々の人間性によって違うのでしょう。ですから、学会員にも実にいろいろな人がいるようです。ただ、共通しているのは「自分達は絶対正しくて、良いことをしている」と思っていることです。だから、自分が学び変わることよりも、外界や他者の考え方を変えようとする傾向が強いのでしょう。
中には、熱心すぎるために 勧誘のために嘘をついたり、優位な立場、断りにくい関係を利用してでも、他者に勧めようとしてしまう人もいます。
現実の出来事を「信じる気持ちの度合い」にこじつけて解釈し、良い出来事があると「信心のおかげだ」、良くない出来事を「信心が足りない」などと解釈するような人も結構多いのでは?と思います。
そういう熱狂的な信者が親になれば、自分の子供にもそういう教育をしてしまいます。例えば、テストの点が良ければ「信心のおかげ」と言い、悪ければ「信心が足りない!」と叱ってしまい、努力を認めることをしません。そんな親に苦しめられる子供の心は抑圧され、それが、精神疾患、自傷、自殺、犯罪などの形で現れることもあります。
もちろん、親子関係のもつれは宗教に限ったことではありませんが、人のためになるはずの宗教がなぜ人を苦しめなければならないのか?と思うところです。これは信教の自由で済まされることではありません。
私の家の近所に、娘さんが学会の信仰に夢中になり過ぎ、家庭不和となり悩んだ父親が自殺した家庭があります。それでも本人は学会を辞めません。なぜ、在家信者が家族や人間関係を壊すほど、信仰に夢中になる必要があるのでしょう。
いい加減な解釈での「功徳」という言葉と、辞めたら罰が当たるなどという「恐怖」で縛られているようで、他人にもそういう言葉で脅し、簡単には脱会を許しません。
ですから、仲間の学会員に対しても、相手の精神状態を考えず、「信心が足りないよ」「頑張りなさい」「信心で乗り切りなさい」などと言ってしまったり、辛い状態の自分にさえ「もっと信じなきゃ」と、自他共に精神的に追い込んでしまう危険のある信仰です。
また、精神疾患のある人が題目を唱え、願望を増幅するような行為が専門的な見地から見てどうなのか、などは誰も考えません。実にいい加減な指導をしているわけです。
「学会(員)のみが正しい」と強く信じる人が、社会で法を作る立場、人を裁く立場、人を雇用する立場などに就くことにも問題があるでしょう。冷静で公平な判断が下せるのか、甚だ疑問です。
もちろん、これらは活発に活動している学会員の話で、全ての学会員さんが「危険な信者」と言えるわけではありませんが、危険で人の道を踏み外し易い信仰であるということは間違いありません。