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「集中力がある」をよしとする風潮について
よく子どもの頃に言われた覚えのある方も多いかと思います。 「集中力がない」「もっと落ち着いて取り組みなさい」「もっと集中するように」 勉強や仕事、また集中してやることで「成果」を出すようなある種の作業については、「集中力がある」とか「集中して取り組む」方がいいということは分かります。 テスト受験や根を詰める作業は集中力を必要とします。そのことに別段の意義を差し挟もうという意図はありません。 ただ、蓋し「集中力」はTPOであるべきだという気がします。 日常生活で大したことをやっていないのに話しかけても返事をしない(つまり聞こえていない)のは、如上の「集中力がある→よきこと」と「常識のように思い」、「問われたことに応えない→集中していたから仕方ない」すなわち「集中していれば声をかけられて返事をしないでも礼を失しない」という考えに縛られているように感じます。 周りの音が聞こえないで事故にあったりするのは、この「集中力あるをよしとする」風潮の一帰結ではいでしょうか。事故に会うのは「自己責任」としても巻き込まれるのはたまったものではありません。 と上のように時おり思うことがあるのですが皆さんはどう思いますか。
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noname#194289
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noname#63054
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noname#100196
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noname#155097
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お礼
回答していただきありがとうございます。 >集中力というのは命令に忠実であるということ これも新鮮な視点です。ありがとうございます。 >命令を自分で出している場合「われを忘れて」という状態になります これは考えようによっては「スキ」が出来ているのではないですか。「忘我」の状態で冷静な状況判断は難しいのでは。司令塔であれば「忘我」は「戦術」的にはあり得ても「戦略」的にはあり得ないのでは。 >戦場で熾烈な状況で頑強に陣地を守り抜く兵隊などには大変大切なもの 幸せなことに未だ戦場での殺し合いの経験はありません。思うに、戦場では「戦術と戦略」がありますから、冷静な「集中力」が求められますね。例えば旧日本軍の硫黄島での玉砕という「勝つための戦略を放棄した戦い」でない限り、自分の生き死にの問題に直接関わるものであれば人は「集中」するものでしょうね。ただ、集中するあまり「撤退時期」を誤ることもあるでしょう。「集中力」はそれだけでは十分に機能せず、常に周りへの正しい「状況判断」とセットですね。 当初の質問の趣旨からだいぶ離れているようですが、いろいろな見方があると分かりました。