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「集中力がある」をよしとする風潮について

よく子どもの頃に言われた覚えのある方も多いかと思います。 「集中力がない」「もっと落ち着いて取り組みなさい」「もっと集中するように」 勉強や仕事、また集中してやることで「成果」を出すようなある種の作業については、「集中力がある」とか「集中して取り組む」方がいいということは分かります。 テスト受験や根を詰める作業は集中力を必要とします。そのことに別段の意義を差し挟もうという意図はありません。 ただ、蓋し「集中力」はTPOであるべきだという気がします。 日常生活で大したことをやっていないのに話しかけても返事をしない(つまり聞こえていない)のは、如上の「集中力がある→よきこと」と「常識のように思い」、「問われたことに応えない→集中していたから仕方ない」すなわち「集中していれば声をかけられて返事をしないでも礼を失しない」という考えに縛られているように感じます。 周りの音が聞こえないで事故にあったりするのは、この「集中力あるをよしとする」風潮の一帰結ではいでしょうか。事故に会うのは「自己責任」としても巻き込まれるのはたまったものではありません。 と上のように時おり思うことがあるのですが皆さんはどう思いますか。

みんなの回答

noname#194289
noname#194289
回答No.6

集中力にもいろいろあると思いますが、つまるところ集中力というのは命令に忠実であるということではないでしょうか。特に命令を自分で出している場合「われを忘れて」という状態になります。一方他人からの命令ではマニュアルに忠実であるような融通が利かないとかリスクに弱いといったような、やはりむしろ悪い意味でも集中力があるといえると思います。しかし戦場で熾烈な状況で頑強に陣地を守り抜く兵隊などには大変大切なものです。

never-ness
質問者

お礼

回答していただきありがとうございます。 >集中力というのは命令に忠実であるということ これも新鮮な視点です。ありがとうございます。 >命令を自分で出している場合「われを忘れて」という状態になります これは考えようによっては「スキ」が出来ているのではないですか。「忘我」の状態で冷静な状況判断は難しいのでは。司令塔であれば「忘我」は「戦術」的にはあり得ても「戦略」的にはあり得ないのでは。 >戦場で熾烈な状況で頑強に陣地を守り抜く兵隊などには大変大切なもの 幸せなことに未だ戦場での殺し合いの経験はありません。思うに、戦場では「戦術と戦略」がありますから、冷静な「集中力」が求められますね。例えば旧日本軍の硫黄島での玉砕という「勝つための戦略を放棄した戦い」でない限り、自分の生き死にの問題に直接関わるものであれば人は「集中」するものでしょうね。ただ、集中するあまり「撤退時期」を誤ることもあるでしょう。「集中力」はそれだけでは十分に機能せず、常に周りへの正しい「状況判断」とセットですね。 当初の質問の趣旨からだいぶ離れているようですが、いろいろな見方があると分かりました。

noname#63054
noname#63054
回答No.5

よくしたもので、集中力がある人はえてして持久力がない。 一年のうち2回くらい大きな出番があってそのうち一ヶ月くらい集中して 仕事をこなして結構、評価は高い。 でも残りは、忘れられている。 本人も適当に息抜きして情報収集などしながらすごしている。 一日のうち3時間くらいはアウトプットを出して、残りは生き抜き。 そういう人が、日中 OK wave 教えてgooの回答者として活躍していたりする。 日本の社会は、持久力があってコンスタントに仕事できる人が支えている。 それはまったくもって正しい。

never-ness
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 >よくしたもので、集中力がある人はえてして持久力がない。 ご経験からですか。ま、よく聞く話しですね。 >本人も適当に息抜きして情報収集などしながらすごしている。 >一日のうち3時間くらいはアウトプットを出して、残りは生き抜き。(※ママ) >そういう人が、日中 OK wave 教えてgooの回答者として活躍していたりする。 ちょっとギクリとしました。(・_・;) >日本の社会は、持久力があってコンスタントに仕事できる人が支えている。 頭の悪い経営者の好きな話を思い出しました。 アリさんの話です。 アリを観察していると、約半分のアリは一所懸命仕事をしているが、約半数のアリは「忙しいフリ」をしている。世の中は一所懸命働く半数のアリで支えられてる。「さて、君たちはどっちのアリなのか」(と経営者は得意げに話し、働かない者はクビだぞと暗示する) この話にはオチのようなものがあって その一所懸命に働いているアリだけを集めてコロニーを作って観察すると、やっぱり約半数のアリが「働いていて」、約半数のアリは「忙しいフリ」をしていた、とのこと。 社会は複雑です。人間の集団は兵士ばかりでも駄目だし、後方支援者だけでも駄目だし、吟遊詩人だけでも駄目でしょう。

回答No.4

 【「自ずと」集中と弛緩を】  これは違います、弛緩してないと集中はありえません。  完璧に弛緩があって、初めて集中です。集中があって弛緩ではない。  用意や備えがあって集中するのではなく、まったくそういうものを放り出して、弛緩となり(油断ではなく)、そして集中です。  

never-ness
質問者

お礼

再びのご回答ありがとうございます。 >弛緩してないと集中はありえません。 ご指摘を尊重します。どうも修行実践の身でないと、集中や弛緩といった「勘どころ」に疎くなっていますね。

回答No.3

 不注意やぼんやりとは違う、という区別は当然つきますね。  そういう区別の上でなお、何かに集中することは、突然としてありうることですね。  したがってそれはやはり、TPOという小賢しい配慮(文殊の処世の知恵)がないといけませんね。  でもやはり、集中できる性格やありようは大事ですね、事故などはありますが。馬鹿と呼ばれても。馬鹿であっても。賢しい(さかしい)知恵はその後の価値だと存じます。  剣やその他の武道では、自然と対処できるように訓練しているのではないですか。  無論剣をどこにおいているか、自分の身はどういう構えを採りうる蚊を常に配慮してはいるのでしょうし、障子の向こうや庭先、天井裏の状況も自然と頭の中にはいっているでしょうが。  集中していることは、油断していることではないし、隙があっては集中はできないでしょう。ぼんやりと油断していては集中もできないでしょうね。

never-ness
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「武道での集中」は想定外でした。新鮮な視点を提供してくださりありがとうございます。武道の達人は「臨機応変」ということですね。つまり集中することを訓練していると「自ずと」集中と弛緩を「場に応じて」切り換えられるわけですね。 ただ、平時にはその「集中」と「弛緩」の区別がつきにくい。外観からは分からないものですね。「動」があって初めて分かるのでしょう。例えば、秋葉原で起こった事件でも「静」の中に「集中」があれば兇刃を避けられたのでしょうね。でも、凡百の愚者には想像できない境地でもありますね。

noname#100196
noname#100196
回答No.2

質問者様の考えはもっともだと思いますよ。 >ただ、蓋し「集中力」はTPOであるべきだという気がします。 つまり「集中力があることが有利に働く、もしくは有利に働かない」 ということですよね。 そういう類のものをトートロジーとか、恒真式とか言います。

never-ness
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >そういう類のものをトートロジーとか、恒真式とか言います。 トートロジー(tautology)は同義反復ですね。「AはAである」 ならば、「集中力はTPOであるべき」という当方の考え自体がトートロジーを内包しているという判断ですね。 また「恒真式」であるなら、当方の「集中力はTPOであるべきだ」は命題になりえず、「無意味」であるというわけですね。 いろいろな受け取り方があると分かりました。

noname#155097
noname#155097
回答No.1

>よく子どもの頃に言われた覚えのある方も多いかと思います。 子供の場合は集中力をつけること自体を目的に勉強したりします。 >日常生活で大したことをやっていないのに話しかけても返事をしない こういうのはぼんやりしている。といって、集中しているとは言わないと思います。

never-ness
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >こういうのはぼんやりしている。といって、集中しているとは言わないと思います。 当方の申し上げたいニュアンスが伝わらなくて残念です。「ぼんやりしている」という状態というのは確かにありますが、この場合「集中している→気を取られている」状態です。それを「ぼんやりしている」と表現する、あるいはひと括りにするのは少し「おおざっぱ」ではないでしょうか。 >子供の場合は集中力をつけること自体を目的に勉強したりします。 初耳です。典拠をお示しください。

never-ness
質問者

補足

ええっと、「典拠」はいいです。 「集中力をつけること自体を目的に」する勉強の例を挙げてくだされば結構です。

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