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人が 人のあやまちを赦すことができますか

 赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。  赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。  あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。  このところ このような主題が 出ており 考えてきたのですが 上の結論に至りました。さらに検証し検討していきますが みなさんからも おしえていただきたいと思いました。  哲学の質問は こういう議論のような性格を帯び そのような経過をたどることは 避けられないことだと思います。つまり 自己の意見も ある場合には 提出するものと考えます。そういう出で立ちですが よろしくご回答をお寄せください。

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回答No.21

そろそろ、ハエ取りツボから脱出する道を示す機が熟しました。 >赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。  赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。  あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。 能力・権利・資格を問う必要はないのです。 「赦す」「赦さない」という表出は、「社会的制裁を免除する、免除しない」という主旨で、そもそも個々人の能力・権利・資格を問う必要はなかったのです。個人的な発言のように見ていたことによる勘違いです。西洋の個人主義的な発想を感じます。遺族が「赦さない」というのは、独り言ではありません。「社会的に制裁を下してほしい」という対社会向けの表出発言です。 能力とか資格とかを手がかりに、袋小路(ハエ取りツボ)に入っていたのです。現代日本において、制裁や更正は、社会的に決めるのです。個々人の能力・権利・資格で決めません。ここは、質問者様と共通認識でしょう。だとすると、能力・権利・資格は関係ないと発言し、「赦す」も「赦さない」も、有効な言語使用方法だと認めるべきです。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  質疑応答として表わされた文章だけを読むと 存外しっかりした歩みをたどってきたと思いますが たしかに 全体観としての安定性がなかったことも実際です。  今回のご指摘は いったい どうなりましょうか。  まづ分かっていることは   ★ 能力・権利・資格を問う必要はないのです。  ☆ になります。そして このあと  ★ 「赦す」「赦さない」という表出は、「社会的制裁を免除する、免除しない」という主旨で〔ある〕。  ☆ という思想は 筋として 共感したのですが 少し次のように修正を加えて 賛同しました。     (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。   (2) 《赦す・赦さない》は それを 自由において 口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まる。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。   (3) この(1)(2)は 加害行為に関して その処理を 社会的な制裁と更生処置にすべて ゆだねる前に 定まっている。   (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから ないと見なされている。   (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関して あてはめると 分かりやすい。   (4-b) ということは 結論から言って 社会は すでに 初めから その成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁・その更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。  では    ★  「赦す」「赦さない」という表出は、〔それぞれその順序で〕「社会的制裁を免除する、免除しない」〔に対応する〕。  ☆ と捉えると どうして いけないと考えるのか。  これは まづ 直接の対応がないという意味であって 間接的に といいますか そもそも 社会を構成する人間としては 基礎における形での間接的には つながっているとも言わなければならないと思います。  けれども 直接につながった形で対応するとなると 被害者が そもそも あたかもその制裁の権利を持って そのあと わづかに それを社会の制度にゆだねるという解釈になってしまうと思われるからです。  そうだと どうして いけないと考えるのか。そうだと 別様の道をとおって 結局 私刑という選択もありうるということになりはしないでしょうか。つまり このほうの選択があるとなれば やはり 復讐の連鎖が 起きて それが あとを断たないことになってしまう。・・・  ううーん。少し時間がかかってしまいました。まとまりが悪いかも知れませんが ここで 一たん お応えとしたいと思います。いかがでしょうか。

その他の回答 (50)

回答No.31

はじめまして。brageloreさんの疑問は、理性と感情の狭間の感覚を、いみじくも現しているように思います。哲学は理性が活躍する分野。感情は無視されるきらいがあります。 理性が働きだすその前提に、あるいはその根底に、感情があるはずです。許せる、許している。また許せない、許すわけにはいかない、といった感情がまず先にあって、その理由を、理性が考え出すのではないでしょうか。理性はこれまで培ってきた知識や体験などを踏まえて判断し結論を導き出そうとするので、さまざまな意見が出てくるのです。 すべての人に、自分にとって不都合な人を許すという能力は、持っていると思います。それは人の好ましいほうの心(優しさとか)です。 どうしても許せない、という気持ちは好ましくないほうの心(仏教的には煩悩)なのです。 好ましい心が、好ましくない心より勝っていれば、人を許せるし、逆ならば許せないのです。 そして、理性が許せない理由を詮索します。この場合、自分の行為を肯定しようという姿勢のあることに気づきませんか。 ちなみに好ましい行為に対しては、あまり言い訳という心は発生しないように思います。 もし自分にとって不都合な相手を、許せるような心を持とうとするならば、良心(思いやりの心とか)を育てなければなりません。 心は使うほどに育ちます。悪いほうの心も。

noname#80116
質問者

お礼

 yy8yy8azさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  極論によって 話を進めるというかたちを採るならばです。そうするならば たとえば こういう議論は いかがでしょう。  煩悩は いとしい。  煩悩は とうとい。  無明こそが 人間のいのちである。  そこから ひかりが現われる。 という説を説いたら どうなりますか?     煩悩を持っていない者は 罪人である。  煩悩の多さで 人の貴さが さらに増す。  煩悩を持たない者に対しては わたしたちは 憐れんであげなければいけない。  こういう議論です。いかがでしょう。

回答No.30

私は 肉体労働を主として生きてきた人間ですし、アカデミックな哲学の知識は無いに等しいと思ってますが、生死の堺とかの体験がけっこう豊富だったりして、 物事は深く考え、また答えは必要な模索と思えば、たぶん簡単には想像もつかないぐらい苦しんでも見つけようとしてきました。 ですので、頭の悪いところとかもけっこうあるようで、 そのへんでみなさんとの論議がかみ合わないところもあるかと思いますが、私の結論の世界も書いてみます。 まず、brangelon様に質問なのですが、 一番最初のそちらの質問で、 >あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。 というところが、 いきなり何を言ってるのか解らなくなります。 ですが、もしかしたらbragelonさんという方は、頭が良すぎるのかもしれません(笑)(私の知ってる若い人に天才肌の人がいます。彼は正月の箱根駅伝のもう少しで選ばれそうなほど陸上に打ち込んだ人ですが、同時にほとんど勉強しなくても全科目学年トップの人だった人なのですが、 彼は自分は人に者を教えるのが苦手だと言います。 なぜこんな簡単なことが解らないのかが解らないのだそうです(笑)。  しかしスノーボードだけは教えるのがうまいそうです。なぜならば唯一苦手だったので 苦手な人の気持ちが理解できるからだ(笑)との事、  ふとその青年のことを思い出してしまいました。) ☆ >もしこういう言葉を用いるとすれば~    の>「言葉」< というのが それ以前のどこの文のどの言葉にかかってるものなのかがよく解らなかったのですが、 >人が 人の過ちを赦すことができますか というタイトルの部分、 最初からbragelon様は、罪など存在しないという前提が なんとなくであも頭の中で理解できていたのではないですか? あるいは すべての因果を解っている存在である神様にとっては、赦すも何も罪自体なんて存在しない。 という理解がです。 贖罪の十字架という概念は そういえばキリスト自体がどこかで語った言葉じゃないですよね。 (間違ってたらそのへん教えてください。) あとから教会が人間の想像力でかってに想像した教義ですよね。 でないとしたら それはおかしいです。 すべての善悪の因果が解って存在にとって罪と罰なんていう考えが何かあるということは考えられません。  ですから赦すということ自体 その必要が無いのです。 7度の70倍赦しなさいとかキリストが言ったのは私達にわかりやすいたとえ話の1つです。   赦すも何もすべてを解ってるのですからそういう理性の存在なのですから 贖罪自体がありえないということです。 それに対して 私達人間の脳の相対的な姿やその想像力の限界性を考えたりすれば 人が 人のあやまちを赦すことが出来ない時があるのも当然ですが、 本質的には罪という存在を認めること自体がおかしく、“ 赦すということ自体が、そのことの理解の無さを意味してるのだし、また上の立場に立った不遜な考えに過ぎない”→>赦す権利も資格もないのでは< という前提のようなものの理解が最初からあっての質問なのではないか    というふうに考えてみたということです。 でも もしそうならば そんなことをさらさらと書いてしまったり 意味を簡単に理解しあえて論議しあえる頭の人達ってすごいなと思います。 結論は 皆さんの論議についてゆけなかったところも多々あるにもかかわらず私の結論と、ここでの論議の結論は同じような感じではないかと感じるのですが、  わたしのこのタイトルへの回答は 結論を書くとこうなります。 あってはならないようなことをしてしまう因果の過程にいる いわゆる罪人と社会的に規定される存在が この人間の道の過程、あるいは歴史の過程に存在しています。 全て相対的ですから、処罰もやむをえない時もあるかと思います。  でも、出来る限りは 同じにいつしか存在していた「自他を見つめる能力」を宿した存在どおしとして、その根源を深く尊敬できるならば、またその因果の想像力への俳優のような謙虚さがあるのならば、それ自体が善の方向性のひとつであり、 私達は、そこに悪のレッテルの貼るのではなくて、むしろそういう人にこそ、すぎたことをトラウマにしないで、できるだけ忘れて前にすすんでいけと、友としてはげますことが出来れば やっぱり一番いいということです。 非難して非難して非難してその人をおいこんで、たちなおることが出来なくしてしまう社会体制はなにも法制度のみのことではなくて、むしろ法制度のほうがそのへんゆとりと常識にあふれてるとわたしにも思えます。 悪人正機説でしたか そのへんはよく解りませんが、 そこまでにいたった苦しみの体験者でもあり、またそういう人達の心も理解できるという意味でも そういう人達が必ずしも生産的能力を持っていないわけでもなくその素質だったら人数から考えてもメチャクチャありえる(クリアーな目からみたらです)のですから、 そういう人達を花開かせることができないというのは社会的にみても惜しいことです。  あくまでその辺は相対的に こまかく考えてゆく課題ではありつづけるところでしょうが、…。   全体的には 私の場合の、頭のなかでは、赦すも何も罪自体は トラウマになるからできるだけ忘れること、 そして善の未来に、どんな人も それなら権利と義務をもってること、 これが結論のようなものとなってます。 その謙虚な理性の上に この問題には厳しさも必要という考えです。 悲しみや 被害を受けた苦しみのなかでのうらみの感情とかの問題は そちらの質問からは別の問題であるような気がしますが。 そのことでしたら、 まずは、当事者の計り知れない心情を 想像するのみです。  戦争のさなかのぎりぎりの恐怖の中の神経と 似ている時が双方ともにあります。 平和の神経を持ち合わせている人が その間にすこしでも 少しでも善の方向の進むことを祈るのみです。 先に 理性が深ければ 戦争があっても別な神経と思索で なんらかの行動が生まれたりもするでしょう。そういう時も凡人の我々にもありえるとは思います。 ただし、私のとある体験にてはそれはむずかしいことだとしか言えませんね。 そんな感じに私の方からの回答はなってしまいますが、 やはりピントとかが何かずれていますでしょうか?  

noname#80116
質問者

お礼

 (だからこそ もし信頼関係がゆるせば 何事でも 自由に 批判し合えるようになるとも 夢見ます)。  ★ その謙虚な理性の上に この問題には厳しさも必要という考えです。  ☆ ということなわけですけれど。けっきょくは そういうことなわけですけれど。  さらに 体験の具体例として そうとう厳しい情況とそこでの身の処し方について触れておられますが これは 割愛しましょう。  以上 例によって わたしの言いたい放題になりました。  心配はしていませんが わたしに対してなら 遠慮なさらずに どうぞ 何でも 言ってきてくださいませ。  つつしんで申し述べました。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答を寄せていただきありがとうございます。  おおむね おっしゃっているところは わたしたちのこれまでの思考の趨勢に即してあると理解しました。  その推論の過程について 細かく見てみて 照らし合わせつつ いま現在の結論を吟味してまいります。  その前に こうして さらに新しいご回答を受け取って 思うことは これまでと ここからとが 次のように局面を新たにしたと捉えられるようです。  第一部 理論編――思いっきり飛躍しよう――  第二部 実証編――足を地につけて歩もう――  さて 個別にお応えをつづってまいります。  (1)★☆ >あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。  ☆ 《こういう言葉》というのは 《権利や資格》のことです。それらは要らないという考えでいますから。この質疑応答にしても 《権利や資格》で 応答しているわけではないからです。  (2)★ 罪など存在しないという前提(?)  ☆ これについては きちんとした議論が必要だと感じます。  迷惑や加害行為 これは 現象として起きており 実際のことです。おおざっぱに言ってそれらを《罪》と呼んできたことも 事実です。ただし あるのは 被害を受けたというその現象であって しかも これにわたしたちは抵抗し さらに それらが起こらないようにと願うし そのことを実現させたいとも努力する ということだと考えたわけです。そして このことが 《赦す・赦さない》の問題にもつながっているというわけです。  寛容の気持ちで 聞いて欲しいのですが 《前提》ではないのです。むしろ《本題》にしているというわけです。もしそうだとすれば あとの施策としての更生制度の確立は 必然的に実現していくことでしょう。  (3)十字架が いけにえとして贖罪となるというのが 想像の産物だというのは わたしも賛成です。そして しかもと言うべきでしょうか それにもかかわらずと言うべきでしょうか  ★ すべての因果を解っている存在である神様にとっては、赦すも何も罪自体なんて存在しない。 という理解  ☆ については――この質疑応答の過程で わたしも ちらっと その言葉を出してしまいましたが―― もうそれを 前面に出して議論するのは 控えようという考えでいます。《神》という言葉を 出さずに言論をつくるよう努めたいと思っています。  (4)★・・・「自他を見つめる能力」を宿した存在どおしとして、その根源を深く尊敬できるならば、またその因果の想像力への俳優のような謙虚さがあるのならば・・・  ☆ この文学的・倫理的な表明 あるいはまた 学としての思惟とその判断形式 これを わたしは あえて旧いものと見たいと思います。その意味は  (5)★・・・できるだけ忘れて前にすすんでいけ・・・ / トラウマになるからできるだけ忘れること  ☆ という見方に反をとなえることです。間違っているという意味で 反を唱えるのではなく 旧いのではないかと思ってですが 要は 被害者も加害者も とことん その事件や背景の事態・事情を 見つめ 見つめ続け 見つめ直して 乗り越えていくという道もあるのではないか こう思ったからです。  (4)の文学的・倫理的な想像力による相手の心の受け留めや読み解きは その倫理学的な人間論に立つよりは(むろん 悪いのではなくと繰り返しますが) 実際に起こったこと自体の認識と分析をとおして 人を互いに知るという営み これのほうを いまは 頭に思い描いています。いかがでしょう?  もっとも それというのも わたしが考えるに 人間論や倫理学は その核心に到れば到るほど しんどいですし なかなか 互いの共通感覚としては 成り立って来難いように 思われるのです。高尚であることに間違いはないですが。  それよりは どろどろになってもよいとさえ覚悟を決めて 正面から トラウマと格闘し分析を入れていくという手法のほうです。向き不向きがあるかも知れません。  (6) この際 arayata333さんに悪者になっていただき わたしも 重箱の隅をつっつくいぢわる者になります。  ★ そういう人達(* 加害者)が必ずしも生産的能力を持っていないわけでもなくその素質だったら人数から考えてもメチャクチャありえる(クリアーな目からみたらです)のですから、 そういう人達を花開かせることができないというのは社会的にみても惜しいことです。  ☆ ではなく――そうではなくです―― 《ただの存在じたい》 これが 貴いとならなければ うそです。人間存在 これだけで 貴い。ただそこにいるだけで 何ものにも替え難い。この大前提がなければ 《赦す》を死語とすることは できないと存じます。いかがでしょう?

  • rongo-dog
  • ベストアンサー率4% (13/295)
回答No.29

許すことと、許さないことはあります。 また、加害者が、被害者の前で、誤ったことありますか? 裁判を見ても、加害者は被害を少なくなることしか考えません。 本当に、誤ってることはありません。 心から、謝ってることは見ても、ある程度??は分かります。 でも、大方、被害がすくなるなることしか考えません。 だから、その姿を見て、許せなくなるのです。 また、大方、加害者は、根底は変わりません。 変わる人は、変わりますが、変わらない人もいます。 炎天の人も、以前、同じ方法でつかまってます。 本当に、加害者が誤るなら、本当に、誤るべきです。 また、加害者は、保身しか考えませんと、思うようになりました。

noname#80116
質問者

お礼

 rongo-dogさん ご回答をありがとうございます。  現実の実態からの またその分析からの ご発言だと受け留めました。  こういうことを考えました。思い浮かべました。  その昔 やまとの国では 市長(もしくは国王)の身辺でも 勢力争い 権力闘争が繰り広げられていました。  次代の首長候補の市辺忍歯(イチノへノオシハ)のミコは 対抗勢力の雄略ワカタケによって 暗殺されました。その野原にともにいたオシハの双子の息子兄弟は 命からがら逃げて 権力を握った雄略ワカタケから隠れて 身を長らえることにしました。  ところが オシハの筋の飯豊青(イヒトヨノアヲ=女性)は これら兄弟を 播磨の地で探し出したと言います。迎え入れられ ともに 続いて 首長の務めに就いたのですが そのとき 父の敵(かたき)を取らなければいけないという話が出ました。  雄略ワカタケは もう死んでいました。弟のほう(顕宗ヲケ)でしたかが 強硬派で 位を譲っていた兄(仁賢オホケ)に命じて ワカタケの陵墓を壊せと指示しました。仁賢オホケは 行って その端っこを少し 破壊して 戻ると その旨を 伝えました。弟も これを了承しました。 という話です。  この質問でのやり取りは 哲学だと思っていますが わたしの空想です。妄想です。夢です。でも そのように 実現したいと思っています。こういうお応えになりますが いかがでしょうか。

回答No.28

被害者が赦したければ赦せばいい。 でも、被害者が赦せば加害者が赦されたことになるとは限らない。 加害者側に赦される権利と赦される資格があるのであって、 被害者には赦す義務があるだけ。介在するのが罰。 赦さなければならないような事柄があるなら、二度とその事柄が 起こってはいけないということ。 心情的に被害者が赦すとか、加害者が反省する態度をみせるなんて儀式にすぎない。 重要なのはその事柄が二度と起こらない仕組みが完成しているかどうかに尽きる。

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  なるほど 結果として これまで追究してきた内容と同じことであるようですね。つまり  ★ 重要なのはその事柄が二度と起こらない仕組みが完成しているかどうかに尽きる。  ☆ ということであって これまででは 《加害者の更生・社会復帰》ということでした。その社会的な《仕組みが備わっていなければならない》 でした。  その筋道としては 微妙にちがっているとも言えるのでしょうか。違っていても 同じ結論に到るというべきでしょうか。  ★ 加害者側に赦される権利と赦される資格があるのであって、 / 被害者には赦す義務があるだけ。介在するのが罰。  ☆ (1)まづ 加害者が その不法行為をつぐなうために 拘束され 制裁を受ける制度として 《介在するのが罰》です。  (2) 《加害者側に赦される権利と赦される資格があるのであって》というところは 《人間として 誰かを〈永遠に加害行為を加え続ける人〉と規定することは ありえない》という内容で受け取ります。  そのとき 実際には 何年か かかって やっと 社会復帰に到るという場合もあるでしょうし 一生かかっても その状態に みづからを回復させるに到らなかったという場合もあるでしょう。しかし 《更生》は 社会全体としての悲願であると想定する。  (3) 《被害者には赦す義務があるだけ。》――たぶん そういうことだろうと思います。そして それと同時に いちおう この質問では 《そもそも 人が 人のあやまちを赦すという能力があるのか》という設定での探究でした。   細かいですが これにも触れておくとするなら こうなるでしょうか。  ( a ) 人には ふつうの人として生きることが 備わっている。《これは ふつうではないぞ》というような加害行為をしないで 生きる道がそなわっている。  ( b ) この道は ふつうではない加害行為を犯したあとでも 変わらない。変わったと見えたら 変化の部分を 元に戻す作業が 社会全体に備わっていると見なしていく。個人も これに沿って 社会的なおこない(特には 加害者の更生のための相互扶助)に参加して 生きる。  ( c ) この基本原則のもとに共生する。そのもとにであれば 《わたしは赦します》とか《わたしは赦さない》とかと 自由に表現しても かまわない。  ( d ) 標語としては 《赦さん。赦せん。死刑じゃ!》から 《更生せい。せんと承知せんぞ》へです。  さらに bananasandさん そしてみなさんからも 補遺など ありましたなら お寄せください。  更生のための施策ですとか そこまでの事柄からは ここでは 禁欲したいと思いますが。

noname#117439
noname#117439
回答No.27

primeapeです。 >あたかも 互いに支え合ってのように 何らかの意思疎通を しているのではないでしょうか。  (ひょっとすると 勘違いであるかも分かりません)。 このあたりが部外者ゆえです。 >広い意味で心が《白紙》の人は 《観念の運河を航くやり取りや支え合い》には 関与していないとは思いますが。 ここまで大げさではありません。 (まだ)秘密にしておく必要があるようなんですよ。 私たちが少しだけ聞きかじれてのは、少なくても新興宗教の教祖様に収まる心配だけは無い。と言った程度の信用だけです。

noname#80116
質問者

お礼

 分かりました。と同時に いまひとつ 事情がうまく飲み込めずに 模索をしています。    今の現状についても 分かりました。進行中か何かなのですね。

noname#117439
noname#117439
回答No.26

primeapeです。 brageloneさんの今回のご質問に至る思索の過程はしごくごもっともで、神様を持ち出すどころかESPを持ち出した私の意見の負けです。 現在の私は唯識を経ていますので無意識同士が個体の垣根を越えて生命全体で支えあっていることを信奉しています。 ESPの内訳は犯罪者の心の容態を気遣う無意識同士の支えあいの様子を部外者たる主観に教えてあげた行為です。

noname#80116
質問者

お礼

 そうですね。あくまで これが 理論であると わたしは 思っているのです。直前のお礼欄にも書いたように 生活態度のことですが やはり 理論なのです。  あとは わたしの場合 いつものように むしろ無防備のような全くの受け身の姿勢です。  ただし  ★ 現在の私は唯識を経ていますので無意識同士が個体の垣根を越えて生命全体で支えあっていることを信奉しています。  ☆ この事態というのは ある程度 分かったかと思います。関係性としての網の目だという理解です。あるいは 人びとのあいだに いわば観念の運河が 掘られていて もちろん 意識などの水を流し 通し あたかも 互いに支え合ってのように 何らかの意思疎通を しているのではないでしょうか。  (ひょっとすると 勘違いであるかも分かりません)。  ★ ESPの内訳は犯罪者の心の容態を気遣う無意識同士の支えあいの様子を部外者たる主観に教えてあげた行為です。  ☆ これは まだ理解が行き届きません。《部外者》がいるとは 知らなかったです。もっとも 広い意味で心が《白紙》の人は 《観念の運河を航くやり取りや支え合い》には 関与していないとは思いますが。  まだまだ 流儀(?)の違いを飲み込めません。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.25

こんばんわ、 >まづは この設問の考えが どのように得られたか それを明らかにせよ さすれば 答えてやるぞという意味でしょうか 私は答えではなく答えの出し方を書いたつもりです。 つまり、この質問は人に聞くまでも無い、自分の人生を振り返れば分かることじゃないですか、という意味です。 >この意味が分かりません。 私にはbrageloneさんが事実を見ずに、理論や定義ばかりを追いかけているように思えます。 特に人の心理的な部分をあえて切り捨てているように思えます。

noname#80116
質問者

お礼

 shift-2007さん こんばんは。    故意による舌足らずで わたしや みなさんを 試しているということになりますよ。  判じ物ですな!?  ★ この質問は人に聞くまでも無い、自分の人生を振り返れば分かることじゃないですか、という意味です  ☆ (1) 《赦す》という言葉によって 自分の対処の仕方を 形容することが むつかしいという経験現実があります。まして そう規定しようとは 思えなかったという体験です。  (2) よって 理論です。現実経験の分析から ほんのちょっと高い次元を望むときの 志向性をもった生活態度のことです。それは まさに この質問であり 質疑応答での思惟の跡(成果)です。  ★ 特に人の心理的な部分をあえて切り捨てているように思えます。  ☆ これは おそらく 当たっているでしょう。なぜなら 《心理》とは 外から来て 影響を与えようとする意図や欲望や 時に 悪意 です。むしろ まぼろしであり やがては 消えていく現象だと考えます。  ですから もともと 初めから 《切り捨てて》います。  と言っても 相手の心が分かるというのは むしろ このまぼろしとしての心理現象をきっかけとすることによってである場合が 多いようです。その意味は 実際に表現された言葉や文章のほうより そのような・言語表現の周りについて来て 飛びまわっているような断片から分かることが多いというわけです。  分かれば 消えていきますし 切り捨てて いいのです。  という内実を わたしから 引き出したということは よほど 秘義・奥義の用意がおありなのですね? ご披露ねがうことにしましょう。どうぞ みなさんに向けても 説明してくださるよう お願いいたします。

noname#117439
noname#117439
回答No.24

primeapeです。 犯罪被害者および凶行にまゆを潜める世論の声には「許さない」「憎い」のほかにこんなものもあります。 「とても人間の行いとは思えない」「信じられない」などです。 心理学カテや哲学カテに時折ある質問に「このような悪いニュースばかり聞くと人間不信になってしまいそう。」てのもあります。 コレは自らが悪意の種子をはらんでいる場合その悪意の種子が犯罪者に共振する現象(共感とは言いたくない)です。 犯罪を我が事と受け止め客観性をなくしてしまうのです。 悪意と言う凶悪な想像上の魔物が実在するかのような錯覚の元、犯罪者にも当然人間性(最低でも良心と言えば納得できますか)が備わっていることないがしろにしてしまうのです。 犯罪者の悪意を通り越してその人間性に正しく共感できれば(現状ではコレはESPに近いし、罪の代償がある)許す方向のみを模索できます。 brageloneさんのご意見は「悪」を自らはらみうるかどうかについて私と認識の違いがあるため意見も分かれているのだと思います。 「悪意」「欲望」「罪」この三つが存在不確定のため思索中です。 現状の作業仮説ですが、 「悪意」。想像上のみに存在し悪人とは本来いない。 ただし主観が悪意に汚染されると本人が悪を信じてしまいます。 犯罪者の人間性のみに共感する能力とは「心の断片」の陽性の活用です。唯識的手法によります。 「欲望」。本来の運命とは逸れている望み。(歪み) 欲には人格および自由意志が無い。 野望はこの眷属。 野心は陽性で承認可能。 「罪」。コレが私にとっては今最もうるさくて、そして痛いです。 実は今日になって解明する糸口を見つけました。 これから少しずつ判っていくと思います。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  思索の結果を 待ちたいと思います。  《悪意の種子が共振》――これに 共感します。  《悪》は 存在しない。という理論上の言い方を わたしも します。《善の欠如》として起こっている現象であって その悪じたいは 存在していないという見方です。初めには 善のみがあって この善が 意志の偏りや違約などによって 損傷を受ける。そこから 善が 少しづつ 欠如していく。その部分が 悪であるという規定です。  欲望も 意志のあり方・用い方によって 悪用されうるというふうに。  《罪》は もう 死語にしようと 企んでいます。  さらに 探究してまいりましょう。

回答No.23

>《ゲームの理論》が苦手です。 ゲームの理論ではありません。 >《言語ゲーム / 劇》というのが いったい何を言っているのか。 そういう捉え方もあるのだなくらいで理解してください。千差万別の言語観の一種です。多様性の中の一つです。私は気に入っていますが、ここで語ることは、質問から反れますので、自粛します。興味があるようでしたら、後期ウィトゲンシュタイの関係書物や解説書にあたられるといいと思います。

noname#80116
質問者

お礼

 ああ そうなんですか。特別の意味を有するものでなければ 気にすることもないようですね。《ゲーム》という言葉です。  でしたら 一件落着 でしょうか?  たしかに ヰトゲンシュタインも 苦手のうちの一人です。残念ながら 読み進めませんでした。これは 暗号で書いてあるのではないかと思いました。まぁ 毛嫌いせずに ぼちぼち まいりましょうか。  もうしばらく置いておいて まとめをしてから閉じます。  重ねて お礼申し上げます。みなさんともども ありがとうございました。謝謝。  * 足かけ二日で 落着。スピード記録ではないですか。

回答No.22

>(1)《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。 違います。対社会向けの発言なのです。赦す・赦さないという言葉の表面的な個人性に囚われず、その社会的な役割に着目するのです。「社会的制裁を免除してあげてほしい、免除しないでほしい」と表出していると解釈します。 >(4)個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから ないと見なされている そのとおりです。だから、被害者又は遺族は、表出する必要があるのです。独り言ではなく、社会的なメッセージとしてです。私刑は関係ありません。個人観からまだ抜けていないのですね。社会性の中で理解してください。それが、《赦す・赦さない》という言語ゲーム/劇の背景と脈絡と思っています。

noname#80116
質問者

お礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  えぇっと (4)ですね (4)が守られていれば いいのではないですか。  ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >(4)個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから ないと見なされている そのとおりです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そのあと  ★ だから、被害者又は遺族は、表出する必要があるのです。独り言ではなく、社会的なメッセージとしてです。私刑は関係ありません。個人観からまだ抜けていないのですね。社会性の中で理解してください。それが、《赦す・赦さない》という言語ゲーム/劇の背景と脈絡と思っています。  ☆ ということなのですが。なにやら むつかしいですね。ですが もし(4)が大前提になっているのなら   ★ 《赦す・赦さない》という言語ゲーム/劇の背景と脈絡・・・  ☆ というような《言語ゲーム / 劇》といった規定は 何を語るのかと 考えているのですが? 正直に言うと わたしは 《ゲームの理論》が苦手です。《言語ゲーム / 劇》というのが いったい何を言っているのか。  この点 補足要求しても いいですか? 分かりません。    相当に 絞り込まれて来ていると思うのですが。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん こんにちは。6月20日記です。  《言語ゲーム》についての或る解説を読み それだけに基づくものですが 考えてみました。    ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  すべてが言語ゲームであるなら たとえば《神》をめぐって 《神秘》をめぐって言語ゲームが可能であることだろう。  《新しい生とともに ひとは新たな言語ゲームを学ぶ》。・・・  (熊野純彦:西洋哲学史 近代から現代へ 2006 p.254) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そのとおりですね。それゆえに 《神》の語を用いずに述べることを目指したのですから。ヰトゲンシュタインも  ● 哲学は語りうるものを明晰に描写することにより 語りえないものを指示しようとするだろう。(『論理哲学論考』4・115 熊野著よりの孫引き)  ☆ という如くにです。  ● 語りえないものが存在することはたしかである。それは示される。それは神秘なのだ。(同上6・44)  ☆ これについては 《語りえないものは 存在するか否か 分からない。人間には 分かるか分からないかが 分からない》と わたしの場合 言って来ました。《神秘》は 《なぞ》と言いました。《無根拠》という言い方も 言っているようですね。  arayata333 さんの言説は まさに この理論を言っていることでしょう。  神秘からいちばん遠いと見える nabayosh さんにしても 《無私》を持ち出して来ました。あたかもこの《語りえないもの》のことを 自分は 言っているのだということを知られてはいけないと言うかのように かれは きわめて厳密に あらゆる論理的な可能性を 議論の前提領域において 言い尽くそうとしています。  結論が いったい どこへ行きつくのか 見えないというほど これこれのように固定的に考えてはいけない / あれそれの如く決めつけては 思考が そこで 止まってしまう / つまり この《語り得る》経験世界のことがらが ただの思い込みになってしまうと延々と 但し書きを述べ続けているかに思われる。しかも それは 何を隠そう 《〈語りえぬもの〉を指し示そうとして 論陣を張っている》と映ります。  随想で すみません。《劇》は まだ 分かりません。

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