• ベストアンサー

《左の頬をも向ける》とき 抵抗を排除していますか

 その一節全体を掲げます。  マタイ 5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。  5:39  しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。  5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。  5:41 だれかが、一ミリオン(* あるいは 千歩)行くように強いるなら、一緒に二ミリオン(* 二千歩)行きなさい。  5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」  5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。  5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。  5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。  5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。  5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。  5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」  * ここは 例の山上の垂訓が 《〔貧しい人 あるいは 心の貧しい人 もしくは〕 ただ神により頼む人は 幸いだ》から始まって 説教のごとく 述べられるところです。《腹を立ててはならない / 誓ってはならない》などとともに 《復讐してはならない / 敵を愛しなさい》と同じく要約される段落に当たります。  * さて このとき 抵抗してはいけないでしょうか。  * 読み方としての場合と そしてそれとは別に考える場合とがあると思いますが いづれのご回答でも 結構ですので ご見解をおしえてください。  * わたしは 抵抗派ですが どうも必ずしも 決まっていると限らないようで 当惑しています。わたしの立ち場から ご回答の内容について さらに細かく 分からないところをお尋ねすることがあるかと思いますが よろしくお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mijinco
  • ベストアンサー率25% (87/346)
回答No.7

抵抗して良いと私は考えますし、反射的にも抵抗すると思います。 そして、のちに自分の抵抗を振り返ったときに、brageloneさんの引用されている節が、ものごとや自分をさらに深く考える一つのきっかけになる場合もあるのだと思います。 抵抗する自分の内的側面を抵抗する前から否定したり抑圧すること(brageloneがそうされているという意味ではありません)は良くないことだし、間違っていると私は考えます。

noname#80116
質問者

お礼

 mijincoさん ご回答をありがとうございます。  たぶん――と頼りない言い方ですが―― おっしゃっていただいたことを わたしは 言おうとしていたのだと思います。  単純に言っても  ★ 反射的にも抵抗すると思います。  ☆ と わたしも 考えます。これは じゅうぶん 大事な点ではないかと思います。つまりは 両頬を差し出すために あたかも準備をしておくとするなら それは  ★ 自分の内的側面を抵抗する前から否定したり抑圧すること  ☆ に通じると わたしも思いますし 何だか いったい なぜ そんなことをしなければならないのかと 不思議です。あたかも 大袈裟に言えば 《迫害》を受けることを 前もって 予定していて そういう心構えを作っていたなどということになりかねません。  ですから 事に当たっては 抵抗感を まづ 持ちつつ しかも その相手の仕打ちに対して それは 間違った行動ではないのかと 暗に 指摘するかたちで さらに 左の頬をも向けるようになるのではないかと 推測します。  あらためて  ★ 反射的にも抵抗する  ☆ という事態 これに 注目しておきます。  あとは おそらく では 《左の頬をも向ける》あるいは《さらに もう千歩 一緒に歩いて行く》 このことは いったい どういう意味を持つのか が焦点になるかと思います。  これは ひとつの推測です。たとえば  ・ その人が 自分に還ることを促す(自己還帰) これを 狙ったものかと考えます。というのは 人は まちがいを指摘されて そのまま 間違いを直すというよりは 一たん 自分を取り戻して その新たな目と能力とで 行ないを見直すと思われるからです。  そうとう 進んでまいりました。ありがとうございます。  あとで この聖書の一節を読んで 事件を見直し あたかも整除しておくというところも おもしろいと思いました。かみしめて まいります。

その他の回答 (7)

回答No.8

時間がうまく取れないので、これに詰めて書きました。 なんでもないような御回答とかにも 裏に人生が広がってるのが見えてくるまで論議が進むと学ぶことはほんとに多きところです。   でも それらをじっくり検討しての回答とは今はなりがたきところです。 それなりの精一杯さのみは 尽くしてみますが…。 ∞∞∞* 私はアカデミックな哲学はおろか 知識ならばほんとに貧しい者ですが、新約聖書は 学生時代に何度も読んでいます。 後から おかげで まあいろいろ悩みの海へ入ることにもなった者の一人です(笑)。 こんなに福音がいろいろ迷いの素になるとは思ってもいませんでしたけどね。  けれど 今ではやっぱり福音は福音ということになってしまいましたけど(笑)。 しかし、この質問には私の方からの回答は簡単です。 山上の垂訓の中の この設問タイトルの極端なまでの無抵抗主義とも言える部分については、 けれども、一番最初に頭に浮んだ答えがシンプルでしたので あまり悩みませんでした(笑)。 その答え自体は、こんな感じです。 その頃はとくに、自分自身はかなり品行正しい青年だったのですが、何故か不良組み(笑)と気があってしまったのは、 理由はおそらく子供の頃の地獄のようないじめとかの体験によるものと思います。 悪の行為の原因は複雑なのかもしれませんが 悪い事をしたい心とか憎しみとか冷たい心とかの原因は単純に感じていました。 苦しいことが深く何もかもゆとりを失う時、人は人の心を赦す心や えこひいき無いこころや、 人の気もちを思いやる心が 脳の脳内反応の中から消えてしまいます。 詳しい現在の私のそのへんの考えはともかく、 そのような感じを私は若い頃から持っていました。 つまり、 なんらかのゆとりの無さ、あるいは長い苦しみを伴うそれ、これが悪という存在の因だというふうに これは思い込んでいた状態だったのです。 そこから見たら その山上に垂訓のその部分の解釈は 悪人とは、ことさらその幸せへの道を考えてあげる必要がある人達(友)だ。という解釈となります。 その頃は考えとか、思索とかではなかったですけどね。 でも、つまり、キリストのお話は何もかもがすべてたとえ話で出来ていて、その部分もたとえ話なんだということです。 そして、ではそれは何を例えているのかというと、  それだけ 関心を持って友達になってあげる必要がある人達ということだけであり、  ほんとうにその悪い人のために、歯が必要な時にはもちろん歯をむけること、つまり抵抗することもそれはこの例えの内なのだという受け取りかたです。 今「歯をむく」とあえて表現しましたが、 それは野獣の争いを意味します。 ゆとりの無い心の世界です。 そういう争いや喧嘩の復讐の心はそのまま過去のこととせよ、反省し見つめのりこえよ。 と言いつつ、  それが相手(悪人)のためなら、殴る必要があるならなぐれ と言ってるように感じたということです。 最初から こんな風に解釈してしまえば、疑問の持ちようが無いですよね。 でも、暴力を受けている時に無抵抗であったりすることには、実は 大変な精神力がいりますし、 そのへんがまず問題です。 それから そんな渦中にもそういう人を同じに いつしかこの大地の存在していた「友」として感じていられるか? という問題もたしかにあります。 これは、 私にとっては程度の問題ではありましたが、 この後者については私の場合は こうして悪者(不良)あるいはそのレッテルを貼られた人達とはいろいろ気持ちがわかるようにもなっていたりして、 ストレートに、 この問題は単純の思えていたのです。 ところが ここに、取り上げられてる質問や応答の世界の「抵抗」というのは、 “赦さない心を赦す(自他共に)問題、あるいはそれだけは赦せない”とかいう問題ですよね。 (間違ってたらごめんなさい。) それでしたら、 わたしもけっこういろいろ旅をしてきました。 ああでもないこうでもないという感じで いまでも迷ってる点もあります。 ただし、これは善の心の因は「ではなんなのか?」 苦しい体験が 苦しい体験を理解してあげるあったかい心に通じるとは限らないですよね。 その逆さまの時があり、それこそが今とりあげた悪の因なのですからね。(悪の行為の因はまたいろいろだったりしますが、 その心の因はそこからは差し引きゼロという答えしかででこないです。 簡単に算数にしてしまえばということですけど(笑)) ともかく善の「心」の因さへ解れば、これもかなり簡単に解決すると思います。 私の場合の思索の旅にては、そのあたりのことでは、セックスの問題もでてきます。(これは山上の垂訓では、このすぐ次に おなじように「昔は~と言われてきた でも私は言う」となってますから、 若い頃の私はそのままストレートに「せめて、心の中ではセックスの想像を楽しむように」という意味にほんとうにまじめに捉えてしまっています。、このへんもユニークですので、Bragelon様のもう1つ前の質問にて 回答してみます。)でも、何よりも 大自然との触れ合いとか音楽とかとの触れ合いとかが ここにいかに大切かを私はけっこうさまざまに知ることになります。 けっきょく、聖書に関しては キリストが遊んでる素朴な無邪気な子供達を抱きかかえて「天国はこのような人達のものだ」と言われる世界、 新鮮な感受性の世界の教育とかの問題に戻ってきてしまうのですけどね。 これは、その程度に応じて、また暴力の程度に応じて、 自分の理性や想像力の及ばないようなひどい仕打ちをされても、それでも簡単に赦せたり、あるいは無理やりに倫理や信条とかにしたがって赦したりして、自分の本心にゆとりをかえって失っていってしまう場合もあるという問題だけがあとは残るという問題と思います。 本質的には それほど難しい問題ではないかもしれません。 でもbragelon様、私はクリスチャンとかではない(と思って)いますが、そのへんはよく解らなくなってきましたが(笑)、キリストはやっぱり神様みないなものです。 理論的には、そんなのが私の場合からの回答となるのですけど、 私にはこの無抵抗主義には さらに深い意味があると思えてしまう世界です。 まるで神様の言われることは 簡単には解らない、福音にはまだまだまだまだ奥の奥がある、といそんな感じです。 この感覚は、もはや信仰なんでしょうかね? … ここでは、 そんなところです。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  ううーん。(うなってばかりいるように感じます)。一つは ふつうの心 ふつうの心の状態 しいて色をつければ 清浄なこころの世界 こういう境地をおっしゃっているように感じます。  また一つには 自分 相手 情況 そのときの自分の状態 そのときの相手の状態 さらにあるいは 社会的な環境としての性や支配関係(上下・身分関係)などなどの要因が 複雑に絡むから 臨機応変(と言うと 安易な感じを招くかも知れないけれど)の対応も 重要である。  そうして 最終的には 明確なひとつの解釈があるというよりは 一たんは やはり主観真実としての信仰(これは動態)に収斂していく と同時に さらに再び この《右の頬を打たれた》という事態と現場に 確かに立って 相手に合わせてのごとく しかも こちらの境地が 相手に届くようにと 細心のこころを配る。  いや まだ 分かりません。  はじめは 先輩のごとく あるいは親の役を引き受けてのごとく あるいは 兄(姉)のごとく 相手を受け容れることが 肝心だというように そして それが 決め手だというように おっしゃるかたちになるのかなぁと思って読み継いでいきましたが いえいえ そうでもなかったのでした。    けっこう むつかしいです。No.1&2の方のご回答に 次のようにお応えしたのですが そのとき 兄なら兄 先輩なら先輩として こちらの態度ないし立ち場を決めるという解釈が出てくると考えてよいでしょうか。(とっかかりとしての お尋ねです。それを機に また考えようと思いました)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  むしろ、喜んで 「もう片方も打ったらいかがですか?私には頬は2つありますよ」 「下着は要らないのですか。まだ残っていますよ」 と相手に差し出せ、ということだと解釈しています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ は どうでしょう? 上の気風(きっぷ)の良さと呼応しているようなのですが それでも そこで 気になるのは 《これこれというふうに解釈している》というとき その心は ただ 有り難き仰せを受けて――悪い表現をすれば――そのまま鵜呑みにして 抱いているし 実行しているというふうに映るのです。  その精神の胃袋における消化というものがあってしかるべきだとも考えるのです。  というより 要するに 相手に対して また 相手の行動に対して――どういう気持ちなのか その自分の側の気持ちは 純粋((清浄)だとして 分かりましたが―― どういう考えで臨んでいるのか これが 分かりません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり 《(清浄)》というふうに注記したように arayata333さのお立ち場が 同じようであるとしたなら 精神の胃袋での消化した結果は 《兄のごとく 先輩のごとく》ということになるでしょうか。  ちょっと まとまったかたちでないことを お断りします。自分勝手に はじめのほうなど 解釈したかも知れません。よろしかったら 明らかにしてください。

noname#117439
noname#117439
回答No.6

primeapeです。 私の考えうる抵抗とは加害者にその行いの意味を理解させることです。 そのような意思です。 完全なる敗者を演じる事すら時として正しいと言う意味であれば、無抵抗と誤解される装いすらします。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。   No.1のお礼欄に わたしは書きました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つまりは はじめの《一千歩の要求》じたいが 《右の頬を打つ》や《下着を取る》と同じように すでに 理に合わず正当なことでもないわけではないですか。だとすると それでも 《左の頬をも向ける》ということは つまり《さらに一千歩を行く》ということは 相手に向かって その仕打ちも要求も まづは間違っていますよと たとえ口に出さずとも 当然のごとく 伝えているのではないですか? その意味でこそ 《上着をも取らせなさい》というのではありませんか?  心根においては つまりは その志向性においては 不法行為だという指摘とそれをやめなさいという助言との意を込めて 対応しています。これは 抵抗ではないですか? いかがでしょう? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ということですよね?  ★ 完全なる敗者を演じる事すら時として正しいと言う意味であれば、無抵抗と誤解される装いすらします。  ☆ これは なかなか 微妙な事態のことを言っておられると理解するのですが。また たぶん 相手に応じた対処の仕方ではないかと思います。  つまり特には サタンと呼ばれる大将を相手にすると思わせる場合に それも しばしば 事後的に そういう装いをしていたなと分かる時があったように記憶しています。    あとで 変更することさえあるかと思いますが 何らかの志向性 心づもりを その《左の頬をも向ける》とき 抱いていると たしかにわたしは 思っております。おとなしい子羊ではないようです。

noname#80116
質問者

補足

 補遺です。  いま 《赦す》問題を問うていますが 理論としては ああいうかたちになっています。いかがでしょう?  標語としては  《赦さん。赦せん。死刑じゃ》から   《更生せい。せんと承知せんぞ》へ です。この間に あなたの《赦します》が 位置しているでしょうか?

  • taco8ch
  • ベストアンサー率7% (11/146)
回答No.5

「抵抗」? うそだぁ。「攻撃」でしょ?

noname#80116
質問者

お礼

 taco8chさん ご回答をありがとうございます。  ★ 「攻撃」でしょ?  ☆ たたかいだとは思っていますが?  でも それは 《何もしない闘い》ですよ。そのもとに 《抵抗》の意図あるいは それとしての感覚も じっさいその時に 覚えつつあるのも 事実ですけれど?  こういったところでしょうか。  あるいは 《二千歩も 一緒に行ってやれ》という表現が わたしには いちばん ピンとくるのですが そのとき実際には 挑戦する感覚もありますね。相手が 挑戦を仕掛けて来ていると感じたとき そのつてで そういう同じような感覚を こちらも覚えるというわけです。  で そのあとは いかがなんでしょう?

  • lexanblue
  • ベストアンサー率27% (26/94)
回答No.4

聖書の一説の解釈もなかなか難しいですね。 私も抵抗派です。 この文の中には二つのキーがあると思います。 1)>あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 2)>あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい 1)は、多くの人の現在の状態です。多くの人は右の頬を打たれたら相手の右の頬を打つでしょう。 2)は、天の父・・・完全な存在なわけで、その方は、すべての人を愛し許すことができる。それだけでは、よく理解できないので、それを具体例として説明したのが、 >右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 ・・・・異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 とう内容の構成になっていると考えます。 >あなたがたも完全な者となりなさい ということですから、具体例のような行動をとることが「完全な者」に近づく方法だということと解釈します。 1)の状態から2)の状態に近づく心の葛藤が抵抗であるわけです。 抵抗があるというのは「完全な者=天の父」に近づいていないということを表わしいると思います。

noname#80116
質問者

お礼

 lexanblueさん 貴重な――つまりは ほかの方々のご回答が貴重でないことなど ありえないのですが lexanblueさんのこのご見解が 稀有であるぶん 特にこの言葉が出ましたその貴重な――ご回答をありがとうございます。  要するに 《抵抗派》であるけれども わたしのように《相手に対して つまりは相手の不法行為に対して その間違いを指摘しようとしての抵抗》であるよりは そうではなく 《そもそも 具体的に例示されたおこない自体が 完全ではないわたしたちにとっては 実行するにむつかしい ゆえに そこには 〈心の葛藤〉としての抵抗があるはづだ》という意味であると。  《復讐してはならない / 敵を愛しなさい》というこの二つの段落をともにまとめて しっかりとした解釈であり論旨であると思いました。  ううううううん。どうなんでしょうか。  ☆ あえて 反論します。しかも 少々論理に飛躍がある議論です。ですが 飛躍を通過したあとの地点に立って 述べるものです。  ものごとは 誰かが終えたところから始めます。特に信仰にあっては 終わりから始めます。(終わりend は 目的でもあります)。  つまりは いま現在 《完全な者ではない》にもかかわらず 《すでに完全な者として――つまり信仰において 完全な者として / つまりあるいは 精神の高みによってではなく 知性の極みによってでもなく 信じるところとその愛によって 不完全な者であるまま―― 左のほほをも向ける》のだというのが わたしの解釈と魂胆でした。  そこには 相手に対して その思想やおこないの理不尽に対して 抵抗があります。という単純な理論と実態の中に生きているのですが その点で なお引っ掛かりがあったのでした。いかがでしょう?  《心の葛藤》は 信仰というおこないにおいて 超えている。もしくは 完全と不完全とのあいだで葛藤するはづなのだが これをあたかも覚えないまま 事に当たる。という意味で 解釈が いわば lexanblueさんとわたしとで 並んでいるでしょうか。  ★☆ 〔何でもないようでいて〕 聖書の一説の解釈もなかなか難しいですね。  このとき  ★ 抵抗があるというのは「完全な者=天の父」に近づいていないということを表わしていると思います。  ☆ というのは 《抵抗》の中身を別として そのまま 両者にあてはまるのではありますが。

noname#117439
noname#117439
回答No.3

primeapeです。 brageloneさんの引用する聖書の言葉は奇妙なほど判り易いんですよ。 門外漢なのにしゃしゃり出ました。 「左の頬をも向ける」は、いつの間にか信仰心を試す試金石としてしか語られなくなっていますが、元々は悪党を撃退するための処世術ではないかと思います。 他の質問でもしも犯罪被害者になったら犯人を許すとコメントしましたよね。 コレは許しの宣告を受けた犯罪者にとっては悪党呼ばわりされるのよりも強い葛藤に七転八倒しますからよっぽど強力な復讐でもあるんです。 今回の聖書の引用もただ悪党が憂さ晴らし的に嫌がらせをしてきた場合の撃退法ならその通りですが、信仰に対する屈辱を秘めた悪意なら「抵抗」と言うのではなくその矛先にあった別の対応をするのはむしろ本質を見極めた良い考えだと思います。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん ひきつづきお世話になります。ご回答をありがとうございます。  ★ ただ悪党が憂さ晴らし的に嫌がらせをしてきた場合の撃退法ならその通りです。  ☆ 《その通り》というのは 《左の頬をも向ける / 上着をも取らせる / 二千歩も行く》のが その通りに《撃退法》になるということですね? そのときには 《抵抗》という意味と中身が 本人の意図として もしくは 情況から第三者が判断するときの事態の解釈として あるだろうということで いいですか?  ★ ですが 信仰に対する屈辱を秘めた悪意なら「抵抗」と言うのではなくその矛先にあった別の対応をするのはむしろ本質を見極めた良い考えだと思います。  ☆ 《別の対応》というのは たとえばおっしゃるように 《赦す》と言ってやるというようなことですか? あるいは 何かほかの対応でしょうか? あるいは 《抵抗》の意図がなく《左の頬をも向ける》ことですか?  そうしますと 抵抗にかかわった場合として捉えれば 相手の意図に応じて 抵抗でよい場合と 抵抗を捨てる場合とがあることになりますか? 《憂さ晴らし的な嫌がらせ》に対しては 前者であり 後者は 《信仰に対する屈辱を秘めた悪意》を見てとった場合であるとなるでしょうか?  あるいは ほかの場合が考えられるのでしょうか?  ちょっと 分からなくなりましたが どうでしょう? もし《抵抗を持つ場合と捨てる場合》とであるとしますと わたしが考えるに そこまで 事情に応じての区別を予定したかたちで 言っているとは 今まで 捉えて来なかったのですが ううーん どうなりますか。ちょっと にわかには判断がつきかねています。  ううーん。一点として やはり基本としては 単純な言い方で言っているのだとは 思いますが どうでしょう?  中途半端で申し訳ないです。もう少しお答えを補足していただいて 決めさせてください。お願いします。  * ひとつ思っていることがあります。《二千歩を行く》というとき これは 《さらに一千歩を 相手と一緒に 行ってやる》という意味合いに わたしは 採っていたのです。つまり 抵抗の場合です。《相手と一緒に》というところが みそだと思うのですが これは 関係ないとお思いでしょうか?

  • AZKARAM
  • ベストアンサー率17% (16/89)
回答No.2

No.1です。「お礼」での補足、どうもです。 なるほど。おっしゃっている真意のようなものは分かった気がします。 しかし、どうでしょうか。抵抗か、といわれると、これは抵抗ではない でしょう。そのような気持ちさえあってはいけないのです。 むしろ、喜んで 「もう片方も打ったらいかがですか?私には頬は2つありますよ」 「下着は要らないのですか。まだ残っていますよ」 と相手に差し出せ、ということだと解釈しています。

noname#80116
質問者

お礼

 AZKARAMさん ご回答をありがとうございます。  ううーん。なるほどと行きたいところですが もう少し 引っかかりがあるように感じます。  ★ そのような気持ちさえあってはいけないのです。  ☆ というのは なんとなく分かるような気がします。《なんとなく》という・そういう無意味による判断の仕方は わたしは さげすんでいるのですが たぶん 潔(いさぎよ)さの問題なのでしょう。気概の問題 気概をつうじての むしろ コミュニケーションであるのかも知れません。  ですが   ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  むしろ、喜んで 「もう片方も打ったらいかがですか?私には頬は2つありますよ」 「下着は要らないのですか。まだ残っていますよ」 と相手に差し出せ、ということだと解釈しています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ は どうでしょう? 上の気風(きっぷ)の良さと呼応しているようなのですが それでも そこで 気になるのは 《これこれというふうに解釈している》というとき その心は ただ 有り難き仰せを受けて――悪い表現をすれば――そのまま鵜呑みにして 抱いているし 実行しているというふうに映るのです。  その精神の胃袋における消化というものがあってしかるべきだとも考えるのです。  というより 要するに 相手に対して また 相手の行動に対して――どういう気持ちなのか その自分の側の気持ちは 純粋だとして 分かりましたが―― どういう考えで臨んでいるのか これが 分かりません。ただ 社会の中に 互いに居合わせているから よろしくどうぞ!というほどの意図しか 見えて来ません。その心は いったい どうなっているのでしょう?   《敵を愛せ》なら その《愛》のかたち あるいは 愛についての自己の考え これは もうかかわって来ないのでしょうか。別問題になっているのでしょうか? それとも 何も考えないことが 言うとすれば 愛なのでしょうか?  この点 いまひとたび おつきあいいただければ幸いです。    

  • AZKARAM
  • ベストアンサー率17% (16/89)
回答No.1

なぜですか? なぜ抵抗なのですか? そこでは、打たれるために頬を差し出せといって いるのです。それ以外の読み方はないでしょう。

noname#80116
質問者

お礼

 AZKARAMさん ご回答をありがとうございます。  《抵抗》という言葉だけでは 舌足らずでしたね。  心の志向性 というようなことにおいて 抵抗を覚えているし あたかも抵抗するかのように 《左のほほをも向ける》のだと解釈していました。  それは ちょうどそのあとに《千歩行くように強いるなら、一緒に二千歩行きなさい》とあるように そうなのですが まづ相手は この場合 さらに一千歩を余分に行けとは言っていないと思います。そこまでは強制しようとはしていないと思います。そうなのですが それでも 合わせて 二千歩を行け / さらに千歩をも行ってやれという考え方だと思うのです。  つまりは はじめの《一千歩の要求》じたいが 《右の頬を打つ》や《下着を取る》と同じように すでに 理に合わず正当なことでもないわけではないですか。だとすると それでも 《左の頬をも向ける》ということは つまり《さらに一千歩を行く》ということは 相手に向かって その仕打ちも要求も まづは間違っていますよと たとえ口に出さずとも 当然のごとく 伝えているのではないですか? その意味でこそ 《上着をも取らせなさい》というのではありませんか?  心根においては つまりは その志向性においては 不法行為だという指摘とそれをやめなさいという助言との意を込めて 対応しています。これは 抵抗ではないですか? いかがでしょう?  それとも よろこんで 両頬を相手のほうに向けるということでしょうか。そして たとえそうであっても その背後の意図は そんな過ちはやめなさいと 相手に対して 言っていませんか?  ★ 打たれるために頬を差し出〔す〕  ☆ ときの 自分の心づもりは どうであるか?という点を 問題にしたいと思うのですが いかがでしょう?

関連するQ&A