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社会の再魔術化と環境問題
社会学において「社会の再魔術化」なる概念があると知りました。 仮に再魔術化が実践される(されている)として、それは私たちの日常においてどのようなかたちで働いているのでしょうか? 例えば各個人が環境問題へのコミットを呼びかけられること、それと同時に各個人が環境問題に対して主体的に問題意識をもつことを 再魔術化の具体的表出の1つだと解釈するのは無理矢理でしょうか? 今日においての人々の大きな共通意識=環境問題と仮定したとき、 再魔術化と環境問題は相性がよいのではと思いました。 全くの素人です。結構な的外れな気もするのですが、 よろしければ回答お願い致します。
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- noname002
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「魔術化」などと言いますと何やら、いかにも、おどろおどろしい第一印象を受けてしまいました。私は、こうした問題に詳しくございませんもので投稿をたいへん迷いましたが、いわく「魔術化」なるものが、言ってしまえば、要は大なり小なりの社会的集団内における共通認識としての価値観を構築していく仕掛けのようなとでも思えばいいのかな?というていどの拙い推察です。私の推察は間違っていて元々ですが、御質問者様のほうは「的外れ」ということはないのでは。 テーマが「環境問題」ということ、そしてそれへの主体的コミットということでしたら、確かに「実践され」つつあると言ってもいいのではないかという感触は、すでにあります。 とくに小学生くらいの子どもたちに、それを感じます。やはり学校教育なり家庭教育を通じて問題意識を持たされ、しかも将来的には自分たち自身が、重大な事態やリスクとの直面を避けられない世代であるということの自覚を持たざるを得ないという子どもらしい生まじめさや悲壮感すら伝わってくるのを感じることがあります。 教育を施す、或いは「魔術」を施す側と言っしまっていいのでしょうか大人たちのなかには幾分かのタテマエと人ごと的感覚が混ぜ込まれた心持ちを隠蔽しつつ施している向きだってあるかもしれません。その面からも、まさに主体的コミットと問題意識という共通の価値観を構築していくのは、次代を受け継ぐ子どもたちに他ならないのだろうと思います。 錬金術だの呪術というものが近代の化学、医学の基礎となったということだそうですが、この日本社会では、こんにちに至っても尚、あらゆる方面の規則における合理性やエヴィデンスが軽視される傾向が根強く見受けられます。 「魔術」と言いますからには肉迫的とでも言わざるを得ない力強さ、抗いがたい魅力を伴っていなければ、「魔術」たる効き目はなかろうと思うのですが、とは言え、危機意識に裏打ちされた厳格な要請や禁欲的規範を選び取るべき価値観などというものを果たして我々の社会において保持することを積極的であり続けられるだろうか?こう自問したとき、どうも、その方向性で自信がない、要請や禁欲といったような抑圧的方向性ではなく、むしろ積極的に欲し満足することを肯定するような方向性を選び取り保持し続ける、つまり恐怖によって裏打ちされた選択ではなく美意識を満たすメリットを選択すると言いましょうか。そうしたスタイルを共通価値感とするほうが個々人の主体的問題意識とコミットにとって効力的なのではないか。そういうふうに捉えれば >再魔術化の具体的表出の1つだと解釈する ことが可能かな、と思います。 なんでも成り立たせられるようで同時に何でも破壊することができるような、相対、対比の極みに至ったかのごとき自由にして不自由な時代に、ゆるやかに共有する社会の価値観と個々人の利益が合わさっていく、そこを目指すということでしょうか。 互いの需要が噛み合わないままだと対立と破綻を招くのみですね。 意味をよく理解できていないので、多分にズレているのだろうとは思います、ご容赦ください。