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因果関係の錯誤??

因果関係の錯誤のところで以下の説例が出てきました。 「YがBを溺死させるつもりで橋の上から川に突き落としたところ、着水する前に猟師の発砲した流れ弾がBに命中しBは死亡した。Yの罪責?」 この問題では、因果関係に錯誤があるから、因果関係の錯誤の問題になることは何となく分かります。 しかしこの場合、「因果関係の判断で折衷的相当因果関係説に立ち、流れ弾は予見できないから判断の基礎からのぞかれる。するとYの突き落とす行為からBの死が発生することは一般人に予見可能だから因果関係は存在する。よって殺人罪」とするのは間違いですか?? 私は大谷先生の教科書を使っていて、因果関係の認識不要説に立つと、これでいいのではないかと思うのですが。 すると因果関係の認識必要説だと上の考え方とは異なるのでしょうか。 上の説例の時の、「因果関係の錯誤」と「因果関係の有無の判断」の関係というか違いがよく分かりません。分かる方、ご指導よろしくお願いします。

みんなの回答

  • un_chan
  • ベストアンサー率60% (219/365)
回答No.3

 私もこのあたりは,よくゴチャゴチャしました。  基本は,行為や事象を順番に検討してゆくことです。whoooさんへの補足を読むと,投げ落とした行為に関することと,投げ落としたBに猟銃の弾が当たったことに関することが混乱しているように見えます。  故意の話は,whoooさんも「これは実質において既遂犯としての故意であるということは要注意」と書かれていますが,殺人についての故意ではなく,現実の死因となった行為についての故意,という意味です。  つまり,投げ落としは,それ自体死の危険がある行為ですから,殺人の着手は(故意も)認められます。しかし,その行為によっては,死という結果を発生させていないから,殺人未遂になります。whoooさんが書かれている「故意はない」は,B死亡の原因となった,Bを猟師の発砲した弾に命中させて死亡させるということについての故意はない,という意味です。  なので,過失犯の話は出てきません(強いて言うなら,普通の人なら流れ弾にあたる可能性を予見できたというなら,過失致死を認め得るかとは思いますが)。

terebizuki
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 既遂犯の故意を阻却するか否かという問題は何となく分かった気がします(笑)。これってノーマルパターンの「故意」とはちょっと違いますよね??普通は「殺人の故意」を考えますから・・・。 確かに自分で書いといて、「突き落としといて過失致死なんてありえない!」って思っていました。 今だとまた混乱してしまいそうなので、少し時間をおいて改めて復習させていただこうと思います。ありがとうございました。

noname#61929
noname#61929
回答No.2

本件設例において因果関係の認識不要説を採ったところで、客観的因果関係自体が否定されれば殺人未遂罪にしかならないというのは分かりますね? 橋の上から川に突き落としたら「被害者に"流れ弾が当って"死亡する」ということは普通は予想できないでしょう?ならば、折衷的相当因果関係説によれば因果関係自体を否定することも可能です(もちろん、行為者が認識していれば因果関係は肯定できます)。そうすると「殺人既遂罪としての故意があろうがなかろうが」殺人未遂罪になります。因果関係というのは「現に生じたその結果」と行為との関係を言うのであり、「抽象的一般的な結果」との関係ではありません。従って本件設例では、「流れ弾によって死亡した」という結果との関係を論じなければなりません。 典型事例の「川に突き落として溺死させようとしたが、実際には岩に頭をぶつけて死んだ」という例では、「岩に頭をぶつけることも予想できる」だから故意を阻却しないという話になるのですが、「岩に頭をぶつけて死ぬ」という具体的な死の結果を対象にしているのであって「川に落せばその理由が何であれ死ぬ」という抽象的一般的な死の結果を対称にしているのではありません。 #もっとも判例では因果関係を肯定しうる事例だとは思いますが。判例は、見方によっては「一般的定型的な因果関係の判断基準の定立を棚上げして個別事例の因果関係判断のみに限定している」とも言えます。言い換えれば、どの理論も不完全なので一つで説明できる理論を構築することはひとまず保留して個別の事件の妥当な解決に注力し、あとは判例の集積から上手く説明のできる理論が生まれるのを待っている」とも考えられます。 ちなみに、大阪南港事件は「そのまま放っておくだけで死亡するだけの傷害を与えたが」「第三者の行為の介入によりその死期が早まった可能性が否定できない」という話で「加害者の行為から脳出血による死亡という結果が起こること自体は予見できる話」であり、単に死期が早まっただけです。ですから本件設例とは話が違います。更に言えば、大阪南港事件は「相当因果関係では説明が困難」であり、これを相当因果関係説で説明すると客観的因果関係を否定する方が自然だということにも注意する必要があります。 ところで、因果関係の錯誤の学説上の対立は「因果関係の錯誤により故意(これは実質において既遂犯としての故意であるということは要注意)を阻却するかどうか」という話です。因果関係の錯誤が故意を阻却することがあると考える大塚先生によれば簡単に言えばその錯誤が一定の範囲内(相当因果関係の範囲で符合する)なら故意を阻却しないとするわけです。その一定の範囲の判断方法が客観的因果関係の判断基準と同じであるならば、客観的因果関係があれば結局故意を阻却する錯誤ではないことになり故意を阻却せずに既遂になるに決まっているし、逆に客観的因果関係がなければ故意を阻却するにしてもそもそも因果関係自体がないのだから未遂になるに決まっています。すると「因果関係の錯誤を客観的因果関係の有無と別に論じる意味がない」ということになります。その前提で因果関係の錯誤は故意を阻却しない(厳密には、因果関係の錯誤を独立して論じる意味がないと言うべき)というのが大谷、前田先生の系統。これには反論もありますがとりあえずそういうこと。 さて、そこで本件設例を見ると、「流れ弾が当って死ぬ」のは相当因果関係を欠くとして客観的因果関係がないので殺人未遂罪とすることはどちらの説を採っても可能です(繰り返しますが、行為者が認識していれば折衷的相当因果関係説でも因果関係は肯定できます)。

terebizuki
質問者

補足

長文の回答ありがとうございます。 第一段階として、折衷的相当因果関係説の理解が不十分だったようです。過失の予見可能性のところで、「トラックの荷台に人がいるという予見は不要で、『およそ人の死』という認識があれば足りる」という話を勉強している最中だったので、そことごちゃ混ぜになっていたみたいです。およそ「人の死」ではなく、具体的な死因とかまで考慮して因果関係を判断すべきなのですね。 第2段階として、因果関係の認識必要説の話でまだ分からないところがあります。 「因果関係の錯誤が故意を阻却することがあると考える大塚先生によれば簡単に言えばその錯誤が一定の範囲内(相当因果関係の範囲で符合する)なら故意を阻却しないとするわけです。」 とする説によれば、本問では、相当因果関係が否定されるので、故意が阻却されるということになりますよね。 で、「客観的因果関係がなければ故意を阻却するにしてもそもそも因果関係自体がないのだから未遂になるに決まっています。」というところがよく分かりません。 これって、実行行為、結果、因果関係、故意の順で検討すると、因果関係がないから故意を検討するまでもなく未遂ってことですか?殺人未遂なら殺人の故意はあるってことですよね。 故意を阻却するなら過失致死じゃないかと思ってしまうのですが。。。あれ?過失致死の未遂ってないですよね(笑)。 なんだか、因果関係の錯誤を考えてたら、他のところもよく分からなくなってかなり混乱してきました。。。

  • ok2007
  • ベストアンサー率57% (1219/2120)
回答No.1

記憶の彼方ではありますが、大谷さんは前田さんと一緒で、因果関係の錯誤は問題とならず因果関係の存否のみが問題となるかと思います。 そうであれば、行為時に通常予測できない第三者行為が介在したときは、行為時に死因が具体的に形成されていない以上、因果関係の相当性がないとして因果関係が否定されるのではないでしょうか。

terebizuki
質問者

補足

ありがとうございます。 第三者の行為が介在した時は、判断の基礎から除かれ、それ以外の事情を基に行為から結果が発生するのに相当性があるかを考えると理解しているのですが。。。 つまり流れ弾を判断の資料から除いて、突き落とした行為から死の結果は十分ありうるというふうに。。。。(大阪南港事件と似てる気も)。 また、因果関係の認識必要説ではどういうながれになるのでしょうか?

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