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17世紀 イギリスの質問
Q1チャールズ1世のスチュアート朝には王党派と議会派がいたそうですが、議会派とはなんですか?私のイメージでは王が絶対的な存在な感じがしてそれに対抗するものは処刑されているイメージがあります。 議会派は王になにかと抵抗しているのですがどんな関係だったのですか?(世界史をやりはじめたばかりなのでまったくわかりませんで、すいません・・・) Q2チャールズ1は権利の請願により怒り、議会を解散させましたがスコットランドで反乱が起こりまた戦費調達を目的として議会を召集させたとあります。なぜ議会が集まると戦費が調達できるのですか?また、なぜ、スコットランドで反乱がおきたのか教えてください。 長らくすいませんでした・・・ぜひわかりやすく詳しい回答を期待しています。
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スチュアート朝は、スコットランドの王家で、エリザベス1世に子が無く、チューダー朝が断絶したためにスコットランドから迎え入れられた王朝です。 チューダー朝の時は、王権の力が強く、絶対的な力を王権が持っていましたが、スチュアート朝では、イングランドに基盤が無かったため、必然的に王権の基盤が弱くなっていました。 当時の議会は、有力諸侯と有力都市が集まったものでした。 王権が強いということは、有力貴族や有力都市の力が弱いという事で、有力貴族や都市は、王権を制限して自分達の権限の拡張を望みました。 一方、下級貴族や新興の資本家などは、全国を統一的に運営できる強い王権を望みました。 (有力貴族の力が増す事は、下級貴族の地位の低下となりますし、地方分権となりますので、全国的な商売がしにくくなる) 王権を支持したグループが王党派であり、有力貴族や都市の代表達が議会派となります。 議会派は、その後ピューリタン(会衆派がほとんど)に乗っ取られ、ピューリタン革命へと突き進みます。 中世において議会の役割は、王への税をどうするかの話しが中心でした。 具体的には、臨時徴税に応じるかどうか、応じた場合の見返りはどうするかが、議会での最大の議題でした。 議会がなにかとうるさいので、議会をチャールズ1世は解散してしまうのですが、スコットランドの反乱のためどうしてもお金がほしいため、徴税のために議会をひらくのですが、そこで、王と議会の対立が鮮明となり、ピューリタン革命へと流れていってしまいます。 スコットランドの反乱は、当時のスコットランドではカルビン派の流れをくむスコットランド教会(長老派)が中心でしたが、そこにイギリス国教会を強制した事が、反乱のきっかけとなります。
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- tanuki4u
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議会ってなによ? 当時のイギリスで言えば、地方の領主の集まりです。 日本史で言えば、室町幕府で守護大名の会議、江戸幕府の大名集会みたいなものです。 17世紀的な理解で言えば、豊臣家の中央集権指向の石田三成らの一派と五大老を中心に有力大名の合議制を考えた一派とが関ヶ原の戦いを行ったのですが(1600年、17世紀の初頭)王党派というのが、中央集権派で、議会派というのが合議制派みたいなものです。 議会と言われて、現代の議会を思ってしまうので誤解します。 マグナカルタも封建領主連合が、王に対して封建領主の権利を明確にした文章です。 Q1 議会派というのは上記のような物です。 Q2 議会を構成しているのが、地方の各大名な訳です。江戸幕府が基本的には徳川家の領地からの年貢で運営されていて、八代将軍吉宗が「上米」とかやります、参勤交代しなくてよいから、米をちょうだい(税金をちょうだい)というやつです。これと同じように、通常の国家運営をしている分には、お金は足りるのですが、足りなくなると各大名家から臨時予算をくれとなります。 これが戦費調達のために議会を開いて、王が各議員(大名)にお願いしたと言うことです。 スコットランドの反乱は、イギリス国教会を押しつけたからです。スコットランドは長老派とかでしたので。