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直観的認識
目に見えるものの認識というのは必ず以前の認識に規定されているので瞬間的なものではなく連続的なものであると思います。しかし直観的認識というのは以前の認識に規定されることのないという意味で感覚与件と同義であると思います。 つまり認識には既成の概念が必ず含まれているので直観的認識というものは在り得ないということになると思いますがどうなんでしょうか。
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まず、基本的な前提の確認なんですが、 > 直観的認識というものは在り得ない というのは、実体論的な意味ではお使いではありませんよね? つまり、「直観」という言葉で呼ばれる「なにものか」がどこかにある、それに基づく認識が「直観的認識」である、そういうものが、あるかないか、という意味ではなく、わたしたちの認識のありようを考えていくとき、「直観的認識」という言葉ではうまく説明できない、という意味でお使いですよね? この前提が共有できていないと、どこまでいっても話はかみ合わない。 なんというか、「直観」を実体的にとらえている人が多いので、アヤシイ気分になってきてしまいました。 ともかく「直観」という言葉は、そもそも神を認識するための方法として近世まではあった。そこから、デカルト、スピノザを経て、カントは「知的直観」を否定することで、直観を人間の認識のありように限ります。もちろんそこからいろいろな紆余曲折があるんですが、哲学のタームとして使われるのは、ベルクソン、西田あたりまでで、ベルクソンの身体論を引き継いだメルロ=ポンティとなると『知覚の現象学』では「直観」という言葉を使いません(後期の『見えるものと見えないもの』では出てきますが、そこでの「直観」は意識の内にあるものではなく、身体を媒介にするもの、「間身体性」としてとらえられます)。 意識をとりだして、わたしたちの認識のありようを厳密に記述することから、世界の内にある身体としての意識、というふうに、もんだいの立て方が変わってきているわけです。 そういう意味で、わたしはあまりこれまで考えてきたことはなかったのですが、質問者さんのおっしゃるように、わたしたちの認識の中で、「直観的認識」というのはうまく位置づけられないものなのかもしれません。 いや、最初にご質問を拝見したときは、これはフレーム問題のことを聞かれているのだとばかり思ったんですが、わたしなりに整理して、ご質問に対する回答としてみました。 その上で、補足部分に関してなんとか答えらしきものをひねりだしてみましょう。 >感覚与件というのは普通知覚にあらわれて来ないものだと思いますが 知覚をどう定義するかによるかと思います。 市川浩を引用してらっしゃるので(ただ、 > メルロ・ポンティによる原子論的な純粋感覚批判 というのは、わたしが持っている四冊の本にはありませんでした。どうか引用されるときは典拠明示をお願いします)ここではその基礎ともいえるメルロ=ポンティに依拠しつつ考えてみたいと思います。 メルロ=ポンティは『知覚の現象学』のなかで身体と世界のありかたを 「自己の身体が世界のなかにある在り方は、ちょうど心臓が生体のなかにある在り方と同様である。すなわち、身体は目に見える光景をたえまなく生かしつづけており、それを生気づけ、それに内部から栄養をあたえ、それと一体になってひとつの系を形づくっている」(『知覚の現象学2』p.3)と言っています。その上で「人が自分の身体でもって知覚する場合、身体は自然的自我であり、いわば知覚の主体でもあるからである」(p.8) これがメルロ=ポンティの拠って立つ基本的な観点です。 「知覚がまず与えられるのは、たとえば因果性の範疇が適用できるような世界のなかでのひとつの出来事としてではなく、それぞれの瞬間における世界の再=創造ないし再=構成としてである」(p.9) この部分が批判しているのは、デカルトやカントの知覚理論です。 たとえばカントの認識論だと、主体は「内容となるべきもの」は、外部から感覚を通して受け取る。この状態がいわゆる「感覚与件」ですね。この状態のままでは秩序のない混沌としたものですから、主体はこの意識内容に形式を与えて統一を作りだそうとする。これがいわゆる「認識」といわれるものです。 ここで両者の関係は、「感覚刺激→知覚」という、一方的で因果的な関係です。 ところが、メルロ=ポンティは、主体が対象を知覚するのではなく、対象の側から主体に作用するものがあるという。「波が浜辺の漂流物をとりまくように、世界が絶えまなく主観性をおそい、そして包囲しにくる」という状態にあるとき、「知覚それ自体を世界のなかで生起する諸事実のひとつとして記述することは問題になりえない。」(p.9-10) これはどういうことか。 「感覚する者と感覚されるものとは二つの外的な項のようにたがいに面と向かい合っているのではないし、また感覚は感覚されるものが感覚する者のなかへ侵入していくことでもない。色をささえるのは私のまなざしであり、対象の形をささえるのは私の手の運動なのである。あるいはむしろ、私のまなざしが色と、私の手が固いものや軟らかいものと対になるのであり、感覚の主体と感覚されるものとのあいだのこうした交換においては、一方が作用して他方が受けるとか、一方が他方に感覚をあたえるとか言うことはできないのだ。私のまなざしや私の手の探索がなければ、また私のまなざしや私の手の探索がなければ、また私の身体がそれと共時化する前には、感覚の対象は漠然とした促し以外のなにものでもない。」(p.19) たとえば「青い色」を見せられる。「まず第一に、どんな知覚も一般性の雰囲気のなかで生じ、無記名のものとしてわれわれにあたえられる。」(p.21) 見せられた人は「みずからを限定して青になることを私の身体になんとか可能にしてくれそうな態度を見いだす必要があるし、うまく言い表せない問題に答えを見つける必要もある。にもかかわらず、私はその促しに応じてしかそれをなしえないし、私の態度だけでは、私にほんとうに青を見させたり」(p.19)することはできない。 つまり、このように「感覚する者と感覚されるもの」の身体を媒介とした相互作用として知覚をとらえるならば、感覚に与えられた段階で、すでに身体は知覚し、その身構えをとっている、ということになります。 さて、市川が批判しているのは、おそらくメルロ=ポンティのこの部分であるように思います(読まずに推測しているのでいい加減です)。 「視覚は或る特定の領野に従属したひとつの思考であり、またそこにこそ感官〔意味〕と呼ばれるものもあるのだ。私が感官〔意味〕をもち、それが私を世界に到達させるのだというとき、私は錯乱の犠牲になっているのでもなければ、〔経験論的〕因果的思考と〔主知主義的〕反省とを混淆しているのでもなく、私はただ包括的〔現象学的〕反省に課せられるあの真理を表現しているにすぎない。すなわち〔私が世界と共有する〕共自然性(…)によって私は存在のいくつかの局面に意味を見いだすことができるのであって、私自身が或る構成的操作によってそれらの局面に意味を与えたわけではないのだ。」(p.23)と『知覚の現象学』で言っているのに対し、『精神としての身体』ではこのように知覚をとらえている。 「知覚するとき、われわれは「何か」を知覚する。その何かは意識の焦点にあって明瞭に把握されている〈図〉であるが、そのまわりには、不分明にしか把握されず、あるいはほとんど意識されていない前意識的な〈地〉がひろがっている。すなわち意識野は、一様の無差別な場ではなく、図と地という文節をふくんでいる。図と地の境界は、(…)かならずしも明瞭ではない。」(『精神としての身体』p.141) ここから、質問者さんが引用された「いかに初歩的な知覚でもすでに一つの意味を担っているということを無視している」という部分がすんなりつながっていくと思うんですが。 上記の文章はつぎのように続いていきます。 「またこの分節化は、意識の対象ではなく、対象を志向する志向性の内的構造にほかならないから、ふつうは意識にのぼらない。しかし分節が存在し、前意識的にしろ、分節化作用としての〈図化〉が暗黙のうちに把握されているかぎり、それを意識化することは可能である。」 メルロ=ポンティが「身体」とおおまかに言っているものを、ここでは「志向性の内的構造」と言っているわけですが、「志向性の内的構造」が「意味」として知覚しているか、それとも「身体」が「意味を見いだすことができる」のかというちがいはありますが、「知覚」のとらえかたの根本の部分では(「感覚刺激→知覚」という、一方的で因果的な関係としてとらえないという意味で)同じだと思います。 あれやこれや書きましたが、整理の助けになれば幸いです。 お願いですから、あまりむずかしいことは聞かないでください。
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- harepanda
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直観は存在すると思いますが、誰もが理解できるように説明する能力が低いという点で、概念より劣る認識方法だと思います。 人間の感覚器は目だけではありません。例えば、医学的知識のない人が、右脇腹に痛みを感じた場合、これは概念把握ではなく直観であり、しかも過去の体験がないだけに以前の認識に規定されることはありません。この事象は、十分に「認識」の範疇に入るため、直観は存在するということになります。
追記、 思い込みとか誤謬ってそういう観点で考えると極めて創造的ですよね。 たとえば、普通は思わないことを真剣にそうに違いないと深く思い込むと 現実そのものがそういう状況に流れていく経験ってありませんか? 例えば、まったく些細なきっかけで、恋人の行動に不審な影を感じ なんとはなしに、後をつけたり・・なんて行為そのものがもはや 自分が寝取られ男の筋書きを自作自演しちゃってますよね。 いや直感的認識で、これはヤバイと思った・・・ってのはあとから つけた言い訳で、完璧にマイナーなシナリオを自分が選択しちゃっている。 ネガティブな思念って本当にすぐに現実にかわりやすい。 直感的に当たると感じて買った宝くじはおろか馬券だってあたりゃしない。 今が買い時と買った株が2倍になるのは、ビギナーズラックか 百戦錬磨の経験の賜物かどちらか。 過去を参照しない、経験則にたよらないから現実が素直に現出する という見方も正しいのかも。 たとえば、ある日出口なおとかいうおばちゃんが、自動筆記をはじめるとか モハメッドさんが,神の啓示で教祖になるとかいうのも、それが思いつきや 誤謬から起ったことであっても、何かの連鎖と深い思い込みでどんどん 実現していくとしたら、そりゃ極めて創造的な生き方であります。 文学作品のいくつかは、本人が書いたというより、ユングの言うところの 集合無意識によって書かされたと作家自らが言うものが少なくないですね。 浅田次郎 蒼穹の昴 荒俣宏 帝都物語 ちばてつや あしたのジョー 外界の現象が自分の意識の創造物というのは唯識論の世界観で これは仏教の根底にも流れている考え方でもありますが、 直感的認識とは、実は二種類あって、自分が創造した自分の意識の結果 としての現実からの刺激によってスパイラル的に想起される認識と まったく別のところから汲み取ってくる概念としてのそれと二種類わけて 考えるべきかもしれません。
知覚、感情、意思という概念で私は考えています。 知覚(感覚与件)で得たデータは、不安、喜びなどの感情を想起させ 意思という行動につながる段階に至ると思います。 その過程を総合的に認識と呼ぶのだと思います。 カラコロと餌箱のなる音 先に条件反射として摂食中枢が刺激・・・しっぽを振って喜ぶ 急いで台所に駆け寄る犬。 犬には経験則で得た反応以外、天啓のようなひらめきはあまり なさそうです。 見えるものの認識は過去の知覚から意思にいたる過程で一定の カテゴリが与えられています。 みたことのないものにも実は憶測類推が働いて、何らかの反応・感情の 想起につながる。 しかし、人には記憶が蘇って嫌な気分になったり、思い出し笑いをしたり ということがある。全く過去の経験則とは無関係に、一つの刺激、あるいは 思考の発展から急に不安になったり恐怖心に襲われたり、逆に楽観的に 気分がよくなったりします。 世間一般でいう直感的認識は、たとえば人とすれ違った2秒間でその人が かって会った事のある人であるということを識別して思わず立ち止まるという ようなケースをさす言葉で、単なる思い付きや天啓というようなレアケースの 話ではないように思います。 一流シェフの料理の火加減、ソムリエの味覚と嗅覚による瞬間的識別 ベテラン刑事の被疑者を見る目。どれも過去の研鑽のたまものだったりします。 経験にうらうちされない直感的認識はありえないでしょう。 ですから直感的認識は過去の経験知の総和の生み出すもので、経験なしに 直感的認識はありえないという表現が正しいと思います。 逆にいうと認識というのは生ぬるいうだうだした思考の結果行き着くものでなく 常に、瞬間的に想起されるものと言うべきかもしれません。 実際、人にとって、思考を2分以上集中させることは難しく、常にあらぬことを 思い浮かべながら考えたふりをしているのだと思います。
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補足
ghostbusterさん、たいへんわかりやすい解説ありがとうございます。 NO13でつい口を滑らして直観がとらえるといった表現をしてしまいました。 私が直観的認識というのは(瞬間的というとまた語弊があるので)無媒介的な認識という意味です。 >お願いですから、あまりむずかしいことは聞かないでください。 またぼちぼち補足いたしますの、これに懲りないで宜しくお願いいたします(笑)。