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宗教になじめない
キリスト教系の幼稚園に行っていたときに、なんかなじめませんでした。折りあるごとに、そのキリスト教系の行事とか集会とか言ってみたことがありますが、子供心に違和感を覚えました。 大人になって近所の教会のミサに出てみて、やっぱりなじめないものがある。 それは一言で言うと「暗さ」です。 なぜ、キリスト教系(あるいは仏教系はそれほどでもないが、その要素は一般からはあると感じる)は「暗い」のでしょうか?どうしてもっと「笑い」を大事にしないで「死」とか「道徳」とかそんなことばかり考えているのでしょうか? それに、何でこんな暗い雰囲気の現代社会で支持を得ているのでしょうか?暗い人が多いのでしょうか?
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>>なぜ、キリスト教系(あるいは仏教系はそれほどでもないが、その要素は一般からはあると感じる)は「暗い」のでしょうか? いくつか原因があると思います。 1)人間、罪の子、原罪あるものっていう価値観。つまりは、性悪説が根底にある。 イブがリンゴの実を食べたことをベースに、もう人間存在が「悪」って発想があると思います。 2)教祖が殺されたこと。 やっぱり、弟子は師の生き方に学ぶものです。で、殺されていくのが良いことで、それで聖人なら、やっぱり暗くなりますね。まあ殺された本人は、「やった!これで俺も聖人だぜ」って明るかったかもしれませんが・・。 3)貧しさを貴ぶこと。 地中海を豪華クルーズ船で島めぐりなぞすると、当然、大金が必要ですよね。大いに楽しむってなると、やはりお金が必要ですが、キリスト教って、「お金は悪」って思想があると思います。でも、普通の人間は、「お金欲しい!」ですよね?なので、常に教えに背いているような背徳感があって、明るくなれない。まあ、だからこそ、金持ちは慈善事業にいそしむわけですが。 4)人間性あるいは「性」を否定すること 人間だれでも、思春期を迎えれば異性の恋人(最近は同性もあり?)が欲しくなるし、セックスもしたくなる。でも、キリスト教には、それらを否定する雰囲気がある。3)と同様に、そういう自分の自然な欲求があることが、教えに背く気がして暗くなる。 はやい話が、「人間性の否定」ってことだと思います。もちろん、イエスはそんなことなかったはずで、弟子の前でも、マクダラのマリアと濃厚なキッスをしていたようです。(正典には書かれてないですが)後世の支配者が、自分たちの支配権力のために、教えを暗い方法にねじ曲げた部分も大きいように思います。その結果、キリスト教は「暗黒の中世」といわれる原因の1つにもなったと思います。 仏教は、釈迦が王族の出で、若いころは、酒、女など十分経験(楽しんだかどうかは?ですが)していたわけですし、他国の王様までも弟子になるし、大きな精舎も建ったし、最後は食中毒で死んだとしても、大往生っていえる年まで生きていました。そして支配階層と結びついていたわけで、堂々と道を歩けました。 やっぱり、キリスト教と比較すれば、明るい雰囲気になるのが当然ですね。 >>何でこんな暗い雰囲気の現代社会で支持を得ているのでしょうか? いろいろと暗い面はあるとしても、イエスが、愛の教えを説き、ナイチンゲール、マザーテレサの前に現れて指導したりと、奇跡はいくつもあるし、慈善活動はやっているし、聖書にいいことが書かれているのも事実だからでは?
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- katyan1234
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そんな教会もありますが、すべてがそのような教会ばかりでもありませんよ。
お礼
そうですか?
- keepfaith
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Garcon2000さん、こんにちは。今まで行ったところが暗いところで、お気の毒です。 わたしの行っているキリスト教会はちっとも暗くありません。聖餐会のお話や日曜学校でも、品の良い冗談が出て、教会に行って笑わない日はないくらいです。信仰を同じくする他の人の経験や証を聞いて、とても鼓舞され、励まされます。神様がわたしたちの天のお父様であり、イエス・キリスト様がわたしたちの救い主であることを知っていることは、大きな喜びです。お2人が私たち一人ひとりを心から愛してくださっていることを知ることは、大きな力になります。 また、とても明るく前向きな人が多いです。内側から光で輝いている人もたくさんいます。天から助けを受ける方法を知っていますから。困難があっても、自分の努力と天の助けにより、乗り越えられると知っていますから。また死をも恐れませんから。明るいだけでなく、思いやりがあり、高潔で、優秀な人が多いです。災害時の支援も熱心に行っています。カトリーナが発生したときは、アメリカ政府よりもわたしたちの教会のほうが早く救援物資を送ったり、人も行ったりしました。FBIやCIAからスカウトされる人も多いです。犯罪者率も非常に低いです。 中高生のためには平日にもいろいろな活動があります。独身成人も平日や土曜などに定期的に集まって、いろいろな活動をしています。 本来、宗教を持っている人は希望と信仰があるのですから、明るく前向きになれるはずだと思います。厳粛さが暗さにつながってしまっているということもあるのかもしれませんが。 暗さには国民性も多少関係していると思います。わたしの教会はほぼ世界中にありますが、ここアメリカの会員のほうが日本の会員より、一言でいうと「明るい」人が多いような気がします。 宗教で死や道徳についての話が多いのは当然です。わたしたちはいつか皆死にます。死は誕生と同じように永遠の中の大切な1つの過程です。 わたしたちの存在は、この地上への誕生を持って始まったではなく、死を持って終わるのでもないということが理解できないと、この地上にいる間の人生もよく理解できないと思います。この人生はいわば学校のようなものです。 また道徳についてですが、不道徳なことをしていては自分も幸せになれないし、回りの人を幸せにすることもできないからです。たとえば、今日本で疫病のように不倫が蔓延していますが、これはりっぱな不道徳で、こんなことをすると自分では気づかなくても自尊心が傷つき、本人が意識していないとしても罪悪感により、人間性、生活の質とも落ちてしまいます。そして、そんなことをしている当時者もその家族も不幸せになります。不道徳なことをしていては心に安らぎが持てませんし。 そして、どういう人間になるかによって後の世で行くところも違ってきます。
お礼
「品のよい」というところが実は問題だと思っています。 いわば、エリート意識のようなものが図らずもあるのです。そう思っていないのでしょうが。本当の明るさは「下種」も「粗野」も取り込んで笑えるのかどうかかと。そういうところに宗教の限界を感じました。また、信者にもまじめさはありませんでした。 大きく言って、道徳を遵守することは(時にははずしますが)、人生に得と徳を生むものだと思います。それは賛同します。
大人になって近所の教会のミサに出てみて、やっぱりなじめないものがある。 暗くてなじめないと言いつつ、ミサに出たりするのは、こころの片隅に何か宗教を求めているのでは? なにか腹の底から笑えないし常に満足感がない人にありがちな行動ですね。人のために祈る心境になればいいだけです
お礼
そうですね。なにか「規範」のようなものが、自分にあると言いと思ったのですが、信者が遅刻ぞろぞろなのと、あまりに死の話ばかりしかしないのでもう、散々ですね。
- kanoko123
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無理に馴染もうとする理由ってなんでしょうか? 私は全く興味ありませんでしたが、中学でキリスト教の学校に入学し、毎日お祈りしてました。毎日が新鮮でした。特にクリスマスの時は聖歌やら演奏やらで、「暗い」というよりは「派手」な印象をもちました。 今では宗教というと、「暗さ」よりも「おごそかさ」に近い印象です。 >「笑い」を大事にしないで「死」とか「道徳」とかそんなことばかり考えているのでしょうか 死などは答えがないテーマなので、心によりどころのない方達が頼り易い場所なのだと思います。集団化しやすいのだと思います。 「笑い」で不安感を吹き飛ばしてしまったら、お布施など継続的に期待できませんので。本当はそういう宗教がいいのでしょうけどね。個人的意見です。
お礼
なにか、いいとこぶっているというか、粗野さがなさ過ぎるのではないか。なぜ、もっと粗野とか野蛮とか下種とかそういうものを宗教に取り込まないのかというのが、子供心からの疑問だった気がします。
- tono-todo
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馴染めなければ馴染む必要はありません。 道徳は別にして、生労病死は人類永遠の悩みであり課題です。 それらをどう平安に受容するか、自力で受容できる人には宗教は不要です。 それらを得るのに宗教が役に立つこともある。 私も宗教には否定的ですが、強制されない限り敢えて異を唱える必要はないでしょう。 又、宗教が長生きするには時代と整合した倫理感は不可欠です。 道徳と言えば道徳ですが、ある厳しい倫理感・論を徹底して来たが故にキリスト教、イスラム教は千年の命を得ているものと理解します。
お礼
受容できる人か否か、でしょうかね。 私はどうも受容できかねます。正論の王道といった感が宗教にはあり、それが存続している理由なのかと感じます。 皆様に後でお礼を書きます
お礼
キリスト教は、なにか「弱みに付け込んで」ひとをしばるようなきがします。それこそ、仏教的な自然な流れ、座禅や無の境地とは、性質が違う、非常に攻勢的な感じがしてしまうのです。それでいて、何かいやに品がいいというか。そこが内心の激しい拒否感情につながっている気がします。確かにいい面もあってそれで残っているのでしょう。