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日本人は 人間ではないでしょうか
《コミュニケーションする意図を持たない人は 人間以前である》と岩井克人が述べています。この見解について 感ずるところ・思うところを述べて ご意見をおしえてください。 柄谷行人との討論形式による共著『終りなき世界―90年代の論理』で 岩井克人が 次のように発言しているところです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (岩井) 日本人が《偽善》を嫌うという話ですが それは日本人の世界宗教性のなさということの裏返しなわけですが 同時に 日本人が世界的な意味でコミュニケーションを拒否していることの裏返しでもあるわけですね。 いま柄谷さんが 人間は偽善者であるほかはないと言われたんですが その場合の人間とは 世界と言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ人間という意味なんですね。そういう意図をもたない人間は ある意味で人間以前の存在なわけですね。もちろん 日本人であったり イラク人であったり アメリカ人であったりはするんだけれど 人間ではない。 (柄谷行人・岩井克人:『終りなき世界―90年代の論理』1990 p.131 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ わたしとしては この――もしそうだとすれば――コミュニケーションが成立し得ないような人間関係において とうぜん 広い意味での社会的な身分の上下関係から来る下の者のこうむるストレス これが 問題になると考えます。そのことを取り上げたいという意図が あります。要するに 権限のある人は 普段は 立派に振る舞うのですが どこかでは その意識をただただ排泄するという部分もみられるようで これを受け止める側のストレスという問題です。 母源病ということばがありますが 基本的には 人間関係を源とする疾患つまり《社会源病》と捉え 特定しようと思えば 《上司源病》――そしてさらに広くむしろ抽象的に《アマテラス病》――と名づけたいのですが もし よろしければ そのあたりまでも ご見解を伸ばして おしえてください。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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お礼
うぅーーむ。共感!!! そして もう一味なにか欲しい!!!――こんな感想になるのでしょうか。 Vwiyoonnさん ご回答をありがとうございます。えらそうに言えば なかなか 読ませますね。もう少し時間をかけて考えてみたいとも思っております。 たぶん ご自分でも書いておられるように こうして分析してしまうと 昔の左翼がらみの論戦の――それは しばしば不毛に映った――ようなものを感じさせるからなのでしょうか。でも この分析はとおると思いました。ということは 逆に こういう論理を押し出すと この社会の心理共同的な情感の流れの中では 浮いてしまうのか それとも すぐに 周りに淀みが出来て 滞ってしまうのか そういった然るべからざる抵抗に遭って そのときの感覚が 《もう一味なにか欲しい》と思わせるのでしょうか。もしくは 腹八分として 言わずもがなの二分の部分を残して 余韻として 人びとに味わわせると 少しは 受け容れやすくなるのかなとも・・・。 ふぅーっ。補足欄もありますので もっと咀嚼して 考えてみます。その結果をお伝えできるかも分かりません。 それにしても 描いていただき 浮かび上がらせた絵図のような《現実》は おそらく 人びとは とうてい意識していないはづです。そういうことが 五千万人や一億人の規模で どうして 出来るのか 不思議でもあります。 ★ ・・・『偽善』は『他者』の存在を『日本人』という肥大した『わたくし』に認識させるが故に忌まれるのではないでしょうか。 ☆ 偽善は 単純にいえば タテマエとホンネとの使い分けですよね。だけれども その使い分けを ともかく《善(つまり自己が存在し他者と共存することより 前提されてくる)》として こなしてみせると もうとっくに喪失していて意識したくない《他者》のことが こころに蘇えってくるから 嫌う――ということでしょうか。 《仮構の『日本人』という集団をつくり その中にあって 内向きのベクトルしか持たず そこでは 人は みな〈日本人〉であって 〈おれはおまえ おまえはおれ〉という観念が どうしようもなく現実に 運河のように掘られており 水としても流れている》とき このとき もし自己を認識して《わたし》と言うとすれば それは 《日本人という肥大したわたし》だという読みでよろしいでしょうか。
補足
お礼を きわめて えらそうに書いて申し訳なく思っております。 もう 感じたそのままを そして 一度振り返ったときにも やはり感じたそのままを 独語のごとくつづろうと思って 書いてしまいました。すみません。お詫びします。 ★ ・・・『日本人』に帰属することのみが日本人の至上の勤めというなんだか気色の悪い病理は、人間関係を源としたものと考えるよりも、自己の他者性すらないことにした反・人間的な──他者は自己に都合のいい幻想と同様にふるまわなくてならないという甘ったれた──幻想に基づいた、他者に対する過剰な自己の投影を源としているように思われます。 ☆ そうですね。ちょっぴり思ったことは 《お互い日本人じゃないか》主義は いわゆる同じ穴のむじなとして やはり一種のいわゆる共犯関係にもなるかも知れないということです。それなら 上司源病にはならず ストレスの伝播も もしあるとするなら この共犯の輪に連ならない一部分の人たちに しわ寄せされるであろうということです。 他者性の喪失とは 今まで思いつかなかったことでした。 ★ 、『日本人』は『日本人』という仮構の(内向きのベクトルしか持たない)集団に帰属することが暗黙の目的として群れ集っている集団であるからこそ、『人間』という普遍へと向かう意思としての『善』がおざなりにされ、帰属への意思のみが唯一の教条として、たまさかその集団に帰属してしまった人々に対しても帰属を強要(タチの悪いことに半ば無意識に)してしまうという性質があり、同時に帰属への意思というものは個を個たらしめる『他者』とのコミニュケーションに対して抑圧的に機能し、『露悪』という強力なツールがムラ的な『恥の共有』によって総ての『人間』から『個』としての理想や理念を奪いとり、他者性に属する『論』を成立させなくしてしまっている。 ☆ 《露悪》ということについて 前々から ピンと来なかったのですが まだよくつかみ切れていません。《恥の共有》と言いますか 《恥の認識》は 自己還帰を促し 理想や理念をも気づかせることもあるように思ったりするのですが。 それにしても この《帰属》ということ つまりそれを実際に人びとに促すあるいは強要するということ これが 何とも 絶妙におこなわれるというべきでしょうか。たしかに 《タチの悪いことに半ば無意識に》おこなわれているように わたしも 感じます。 小学生のときから この集団の締めつけというような動きはありました。誰か生徒が その集団のあり方とは違った方向へ考えが向かって行っていると 教師が気づいたときには その教師は とうぜん その気づきからの帰属強要行為は 意識しておこなっているのですが なぜ そうするのか これについては 意識していないようですし 訊ねても答えられないようでもあります。生まれついたときから 刷り込まれているかのごとくだと感じます。 生徒の考えが 何であるかについては 省みること少なく 自分のとは違うという感覚だけによって 引き止めよう・繋ぎ止めよう・輪の中に引き入れようとするように思われます。 ★ ・・・、『人間』という普遍へと向かう意思としての『善』がおざなりにされ・・・ ☆ というときの《善》――あるいは 《『人間』という普遍へと向かう意思》―― これを さらに具体的に表わせるといいだろうなと感じました。この時点では 丸投げになってしまいますが。 とにかく ★ 『日本人』という仮構の(内向きのベクトルしか持たない)集団に帰属することが暗黙の目的として群れ集っている集団 ☆ というごとく この《暗黙の目的》が まるで《無目的に あたかも絶対的に そこへ向かう》という動きとして 大部分の人たちには 身体で覚えられているように思います。いったい 何なんでしょう??? と感じています。