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日本人は 人間ではないでしょうか
《コミュニケーションする意図を持たない人は 人間以前である》と岩井克人が述べています。この見解について 感ずるところ・思うところを述べて ご意見をおしえてください。 柄谷行人との討論形式による共著『終りなき世界―90年代の論理』で 岩井克人が 次のように発言しているところです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (岩井) 日本人が《偽善》を嫌うという話ですが それは日本人の世界宗教性のなさということの裏返しなわけですが 同時に 日本人が世界的な意味でコミュニケーションを拒否していることの裏返しでもあるわけですね。 いま柄谷さんが 人間は偽善者であるほかはないと言われたんですが その場合の人間とは 世界と言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ人間という意味なんですね。そういう意図をもたない人間は ある意味で人間以前の存在なわけですね。もちろん 日本人であったり イラク人であったり アメリカ人であったりはするんだけれど 人間ではない。 (柄谷行人・岩井克人:『終りなき世界―90年代の論理』1990 p.131 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ わたしとしては この――もしそうだとすれば――コミュニケーションが成立し得ないような人間関係において とうぜん 広い意味での社会的な身分の上下関係から来る下の者のこうむるストレス これが 問題になると考えます。そのことを取り上げたいという意図が あります。要するに 権限のある人は 普段は 立派に振る舞うのですが どこかでは その意識をただただ排泄するという部分もみられるようで これを受け止める側のストレスという問題です。 母源病ということばがありますが 基本的には 人間関係を源とする疾患つまり《社会源病》と捉え 特定しようと思えば 《上司源病》――そしてさらに広くむしろ抽象的に《アマテラス病》――と名づけたいのですが もし よろしければ そのあたりまでも ご見解を伸ばして おしえてください。
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誤解でしたら申し訳ない。 思うに、『日本人』は『日本人』という仮構の(内向きのベクトルしか持たない)集団に帰属することが暗黙の目的として群れ集っている集団であるからこそ、『人間』という普遍へと向かう意思としての『善』がおざなりにされ、帰属への意思のみが唯一の教条として、たまさかその集団に帰属してしまった人々に対しても帰属を強要(タチの悪いことに半ば無意識に)してしまうという性質があり、同時に帰属への意思というものは個を個たらしめる『他者』とのコミニュケーションに対して抑圧的に機能し、『露悪』という強力なツールがムラ的な『恥の共有』によって総ての『人間』から『個』としての理想や理念を奪いとり、他者性に属する『論』を成立させなくしてしまっている(…なんだか某掲示板に対する論評みたいになっちゃったな)。 というのがわたしなりの理解ですが、こうした、『日本人』に帰属することのみが日本人の至上の勤めというなんだか気色の悪い病理は、人間関係を源としたものと考えるよりも、自己の他者性すらないことにした反・人間的な──他者は自己に都合のいい幻想と同様にふるまわなくてならないという甘ったれた──幻想に基づいた、他者に対する過剰な自己の投影を源としているように思われます。 で──強いて名づけるなら、他者喪失症、といったところでしょうか。他者のないところに『善』があろう訳もなく(そこに存在しうるのは快/不快という感覚のみです)、そこで『偽善』は『他者』の存在を『日本人』という肥大した『わたくし』に認識させるが故に忌まれるのではないでしょうか(ああ、これまた某掲示板の幼稚なサヨク嫌悪を想起させますね)。
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5.6.7です。 先輩面した言い方で失礼かもしれませんが、かなりいい線を言った理解力です。 特定の相手との以心伝心状態についても的をえた自覚をなさっています。 以心伝心状態で対面している先方の思念は煩悩です。 悪魔が腹をすかせていけにえを求めているのです。 この攻撃には実際の攻撃力が無く、完全に理解してしまえばただのひょうきんお笑い種攻撃です。 先方の全人格否定につながらないように礼節を重んじた物言いを心がけてください。 私はこう書きました。 >ほぼ無欲なので欲望に駆られて話す人がまるで幽霊に話しかけているような錯覚すら覚えます。 このほぼ無欲とはいかなることかと言うと、あえて他人の欲望に感染することで逆に返り討ちにしているからです。 個人的な話ですが、私の場合この捉えた欲望をクラシックカメラ収集の無駄遣い癖に還元しています。 欲望に関しては上手に受け流さないと運命の軌道をそらす危険があります。 それから幽霊といったのはたとえ話です。 上手に返り討ちにしないとその位の軋轢がありますのでご注意ください。 それからテレパシー能力に関しては、私はSF小説に出てくるエスパー並みの実証をしていますが、これは軋轢が生んだ事故のようなものでした。 平均的な以心伝心能力。 または少し感受性が豊か。 といった以上に克明な能力は無意識野担当で主観に及んでは病理同然ですのでご注意ください。
お礼
ご回答をありがとうございます。 わたくしの場合は 信仰にもとづいています。超能力の関係のものなどは いっさい 分かりません。また 心理学・精神分析とも つなげてはいません。(ただ 本を読むだけですし)。ですから 《無意識》の問題とも 直接 かかわらせてはおりません。 信仰にかかわっていると述べたのは 次に掲げる文章ですが それは ★ このほぼ無欲とはいかなることかと言うと、あえて他人の欲望に感染することで逆に返り討ちにしているからです。 ☆ とおっしゃる内容に きわめて近いように思います。おそらく 《返り討ち》というのは 比喩だと思うのですが 次の文章の中の《その人を得る》というのに反して 相手が遠ざかり去っていくときには いわば《燃える炭火を相手の頭に積む》というような現象ではないかと考えます。 では パウロの文章です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。 (コリント前書9:19-23) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 以心伝心状態で対面している先方の思念は煩悩です。 悪魔が腹をすかせていけにえを求めているのです。 ☆ という場合には やはり《生け捕り》がいいのだと思っています。信仰の話は 実際その言葉とともに 生きていますので 無理にでも 出させてもらいました。
5.6です。 いい忘れました。 技術的問題についてです。 上司との軋轢はどちらか、または双方の人格に関する勘違いや行き違いと定義すれば理性で押さえつけることが出来ます。人によってはそれで楽になれます。 ただしこれはうそであり、方便です。 このようなうそをつくことが現実を肯定することです。 それが出来ないでアマテラスさんまで持ち出して人間性に関して格闘したのが質問者様です。 これは無意識的に以心伝心のテレパシー現象を確実な物として自覚している証明です。
補足
ご回答をありがとうございます。 ANo.5・6・7について あらためて まとめて お礼を述べます。 ★ ほぼ無欲なので欲望に駆られて話す人がまるで幽霊に話しかけているような錯覚すら覚えます。 ほぼこれと同じ軋轢でお悩みでないかと思いいたりました。 ☆ No.5で 見逃してしまったようです。すみません。 《欲望に駆られた相手が こちらを 幽霊と見なして話しかける》ということでしょうか。 《幽霊と見なしているらしいが その相手は こちらを 一定の意志をもった人間像として 捉えているはづだ。しかし それは 勘違いというものだ》と 全体を捉えるとよいでしょうか。 つまり――あらかじめですが ただ 相手が こちらをどう扱うかというときに その内面において どういうふうに思っていようと それは 問題にならないと思うのですが とりあえず―― 次のご指摘ですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 人格に関する勘違いや行き違いと定義すれば理性で押さえつけることが出来ます。人によってはそれで楽になれます。 ただしこれはうそであり、方便です。 このようなうそをつくことが現実を肯定することです。 それが出来ないでアマテラスさんまで持ち出して人間性に関して格闘したのが質問者様です。 これは無意識的に以心伝心のテレパシー現象を確実な物として自覚している証明です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このとき 《楽になれ》ることが 全体として 自分は 何を志向して 相手ともども どこへ向かおうとしているのか これを まだ つかみかねています。 ご説明に従い 《人間性を蹂躙する行為》に対する《技術的問題》であると 捉えましたが でも 結論としては ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・そのような上司の人間性の成長を助けてあげることになります。 でも、どうやって。とは考えないで下さい。これは無意識野の自覚の問題なので自然に行いに反映されます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とも述べておられますので そのままでいいのかなとは 思いましたが 果たして 理解が行き届いていないでしょうか。 もう少し 込み入った話が出来ます。 《以心伝心のテレパシー現象を確実な物として自覚している》というのは そのとおりの事実ですが ただしこれは 《無意識的に》ではなく 意識においても 認識します。そして その現象は すべて 相手の側の振る舞いであるとも 知っています。その意味では 《人間性に関して格闘》するその仕方が 違っているのかも分かりません。 つまりその意味としては 《格闘》は 相手とするのではなく また相手とこちらとの関係の問題であるよりは 一つには 上に触れたように 相手自身の人格の問題であるでしょうし もう一つには むしろすべての人間にとっての社会生活の問題であると思われます。 要するに わたしの理解するところでは これは すでに解決済みであると同時に その解決が まだ実現していない。という意味は その解決が わたしたち一人ひとりに ゆだねられている。そうして しかも その解決としては 基本的に 理論(あるいは観想)として 言葉にして表現するとよいと捉えているものです。 つまりは このようにいま質問して この事態を できるかぎり 分析し言葉での表現において明らかにし その内容を 公表するということ 差し当たって このように考えていますが お応えできましたでしょうか。
NO5です。 >ほぼ無欲なので欲望に駆られて話す人がまるで幽霊に話しかけているような錯覚すら覚えます。 ほぼこれと同じ軋轢でお悩みでないかと思いいたりました。 ソクラテスでしたかイデア論というのが有ります。 だれそれについて話したり考えたりする時自らの心にその原型があるという考え方です。 原型が普遍的存在なら問題はないのですが誤解に基づいた偶像なら軋轢が生じます。 私は家業を手伝っているので業務上の絶対的な命令というのは経験がありませんが、欲望を肯定して悪意の存在を認めた人間性のイデアの偶像に基づいて業務命令が下され、じかも「判っているだろ、当然だ」という態度をとられたら、かなりの抵抗が有ると思います。 これは部下の人間性を蹂躙する行為です。 私の経験からして、うかつに従うと自らの魂の原型(人間性)を損ねます。 その場の空気を読む。という口ぶりが有りますが無意識は明白にテレパシー能力があり(以心伝心)イデアの偶像に直接汚染されます。 現実を肯定することはイコールで欲望を肯定して悪意の存在を認めることとも受止められます。そのような行いの出来る方は人生の荒波を乗り切る達人でありますが、本心から諦めきった人は一人もいません。 対処法としてバランス感覚を大切にしながらそのような上司の人間性の成長を助けてあげることになります。 でも、どうやって。とは考えないで下さい。これは無意識野の自覚の問題なので自然に行いに反映されます。
私は何も考えないで頭を真っ白にする特技があります。 ほぼ無欲なので欲望に駆られて話す人がまるで幽霊に話しかけているような錯覚すら覚えます。 そんな錯覚があると普通の社会人生活に支障が出まして、いろいろな心の軋轢があります。 特に耐えかねたとき、確かな神のご加護がありました。 アマテラスさんです。 天満宮の菅原さんにも、おてつだいをお願いした事があります。 ちなみに日本の神々はお賽銭がお嫌いのようです。 いびつな教義が無いと信仰出来ない一神教よりも教義が無くても信仰される日本の神々のほうがよほど霊格が高いです。 日本は聖徳太子様が建国のために掲げた十七条の憲法以来脈々と調和を尊ぶ和の精神を受けついでいまして、言葉にしなくても同じ日本人として分かり合える心を沢山秘めています。 これは人間らしいからこそ出来ることでだと思います。 調和を尊ぶ日本人の感性が生む軋轢は私にはピンときませんが、欲望に基づいた思考が生む軋轢はほとほと困り果てています。 それから「日本人らしさ」を理解したいのなら小泉八雲の書いた本をお読みになるとわかりやすいです。
お礼
primeapeさん ご回答をありがとうございます。 そうですね。全体として 何か集団としてのまとまりが 単に島国であるからとか 顔や体つきが似たり寄ったりであるからとか そういうことだけではなく もっと強い――いい意味でもわるい意味でも――つながりがあるように わたしも思います。 ただ ★ 言葉にしなくても同じ日本人として分かり合える心を沢山秘めています。 ☆ とおっしゃるとき 言葉にしなくては分かり合えない場合もあり(つまり これは 当然でしょうが) それだけではなく 言葉にしても もう分かり合えないと言いますか 分かり合おうとしない場合もあるように感じます。 つまりは この質問のつてでは 上司が《おまえたちよ もう 分かれ》と暗黙のうちに言っており 部下たちも けっこう物分かりがよく 暗に《察しましたよ》と返答しているとさえ考えられる場合もあるように思います。これで コミュニケーションが取れていればよいのですが。 小泉八雲ですか。《神国》という漢字が大書された本だったかを読んだ記憶があるのですが そして割と馴染みやすく理解できたというふうにも記憶しているのですが 上のような《日本社会への帰属》というそのあり方については また そういう視点で 読み返す必要があるかも知れません。 和の精神は アマテラスの光の以前に スサノヲの自由とそれにもとづく共同自治があって そのムラ(村)イスムが 土台になっているのではないかと考えたことがあるのですが・・・。 ありがとうございました。さらに 考えてまいります。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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bragelone様 《日本人十二歳説》 私自身は伝えられるマッカーサーの太平洋戦争観に同意しておりますし、公平かどうかはわかりませんが、文化的に少数派である、日本人は国際社会では、上手なお付き合いができないでいることは確かだと存じます。それは無論その文化観と歴史観、民族性から出てきていると存じますが、お誘いに応じて、何かを陳述するまでには想いが到っておりませんので、どうかお許し下さい。 《でも欧米の人のような成長は好ましくない、のですが。》 単に、でもなく、とてもあの欧米文化は、年齢を重ねてくると、肌に馴染まないというだけです。 精神的ありようにどうも馴染めない、ということなのです。 このことでも、今概括してコメントを陳述させてもらうほど、私の勉強は進展しておりませんのでどうかお許し下さい。 私の単なる口の端をもとに、折角場を設けてくださり、お誘いですが、申しわけありません。 何かの契機や切り口でもあれば、またことばを挟ませていただければと、存じます。
お礼
わかりました。 どうぞ 自由に振る舞ってくださいませ。 なお コミュニケーションにかんしては たとえば 求婚申し込みに対して――妥当かどうか分かりませんが―― 《四十年その答を待って欲しい》という答が 意思表示の一環として 提出されれば そのとき 成立すると思います。妥当だとは とても思えませんが ともかく 話し合いは成立すると考えます。といったことなどだと思います。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
brageloneさん、訪問した印に参加させていただきます。これってコミュニケーションになりますかね。 それは措いておいて、コミュニケーションくらい難しく、理想的とはいはなくても、ある程度行える人や場合は僅少といっていいでしょうか。そして民俗は勿論、民族的にも、世代でも、いろんなことで特徴や方式が異なりますよね。 日本人にはそして、属してきた時代文化により、なかなか一様にはその優劣は論じられませんよね。 人生って、これをどう発達させるか、工夫していくかを大きな課題としていますよね。日本人としての特徴もありますが、それは西欧やその他の外国、比較的開いている民族性を下敷きにしたり、それに照合してみると、考えざるを得ませんね。 これが日本人を12歳だということの原因だったのでしょうか? マッカーサーですか、その通りかも知れませんが、文化の違いではないでしょうか。通用する成長はしなければなりませんね。 でも欧米の人のような成長は好ましくない、のですが。
お礼
krya1998さん ご投稿をありがとうございます。 そうおっしゃるのではないかと思いました。 一方で 同じ民族=言語の内で通じるコミュニケーションのあり方について ふつうに自省し その自己認識をしておくこと 他方で 他の国々・文明の中でのそれについても やはりしっかりと認識しておくこと したがって 両者・多者を共に認識しておくこと・できれば 共通の物指しをも探し出せればよいとすること 大雑把ですが このように おっしゃっているものと存じます。 なかで 《日本人十二歳説》を出されていますね。この説に 公平な判断をなすことができるといいですね。それに 互いに 批判というものも 考えてみれば 自由なのですし。 《でも欧米の人のような成長は好ましくない、のですが。》――この問題点についても おしえを乞いたい気持ちですが この質問では 岩井克人や柄谷行人の発言にからめて もしよろしければ ご回答を寄せていただけるかも分かりません。
- at9_am
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この文章を読む限りにおいては、生物学的な人間と違った意味で人間という語を使っているようです。以下では、分かりやすいように生物学的な意味での人間を人類と書きます。 準備として、コミュニケーションというものを定義しておきましょう。さしあたって、双方向的に意思や情報が伝達されているものをコミュニケーションと呼ぶことにします。たとえばラジオも電話も音声だけで情報や意思が伝達されていますが、ラジオのような一方通行的なものをコミュニケーションとは呼びませんが、双方向的に伝達されている電話などはコミュニケーションと呼ばないですから、理解しにくい話ではないと思います。 人間=ある人とコミュニケーションをとることのできる人類、と定義すると、人類でありながら人間ではない相手というものが存在することになります。たとえば、近代の奴隷を考えれば、奴隷の主にしてみれば奴隷は人間ではなくて単なる道具か家畜も同然の地位であり、コミュニケーションをとる相手ではなく命令する相手です。つまり、この意味では奴隷はその主にとっては人間ではないわけです。 この定義を使うと、人類の集合が世界(多分、社会という方がわかりやすいと思いますが)であると考えれば、世界とコミュニケーションをとることを拒絶している人は、世界から見て人間ではないわけです。 こう定義したところで、面白い見解がこの後出てくるのかもしれませんが、ここまでで引用は終わっていて、この本を読んでいないので面白い見解につながるかどうかは私にはわかりません。ただ、たとえば白人が白人だけを人間とみなしていた、というときの「人間」という語は、この意味で用いられていたという解釈ができ、同じ人間でなければ動物か超人のいずれかに分類される、という一般的な現象を正しく認識するためには有用だと思います。 > コミュニケーションが成立し得ないような人間関係において とうぜん 広い意味での社会的な身分の上下関係から来る下の者のこうむるストレス これが 問題になる ならないんじゃないかな、と思います。もちろん、人間関係でのストレスの中には含まれると思いますが。 たとえば新興宗教の熱心な信者にとって、教祖はコミュニケーションをとる相手ではありませんし、明らかに教祖のほうが「広い意味での社会的な身分の上下関係」は上ですが、その信者は教祖の意見に従うことに対してストレスを感じているとは思いません。 会社のように上司からのストレスというものがあるということをいう人がいると思いますが、その上司もやはりストレスを感じていることから考えると、これは身分の上下云々よりも単純な人間関係、もっといえばコミュニケーションをとるためのベースが共有できていないことに起因するストレスと考えるほうが実態に近いものだと思います。
補足
at9_amさん はじめまして。ご回答をありがとうございます。 引用文の脈絡がはっきりしないうらみがあったかと思います。ただ そこでは 《偽善》の問題を前面に出すかたちですので 端折ってしまいました。もっとも 参考にするべきかも分かりませんので あらためて掲げることとします。 柄谷行人の発言がおもなのですが かれは 次の岩井克人の発言を承けて その次の引用のように――長いですが――語っています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (岩井) ぼくは日本人は百パーセント レイシストだと思いますよ。〔・・・〕上に媚びて 下に威張るというね。明治以来 日本は常にそうだったと思うんですね。そして それと同時に 白人もふくめた意味での外人排斥的なレイシズムもある。 (pp.129-130) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (柄谷) 暗黙にではなく 露骨にそうですね。 ぼくがいやなのは こういうときにはアメリカ人は〔そのような日本人のことを〕偽善的だと批判することですね。 たしか漱石が 現代日本人は偽善をいやがるあまりに 《露悪主義》になっているということを言っています。これは近代文明批判であったのでしょうが 特に日本人に当てはまるのではないかと思う。 以前に 中曽根が黒人のIQが低いという発言をして問題になったときに テレビで景山民夫という男が中曽根さんはほんとうのことを正直に言っただけだと言って それが受けていました。 ぼくはものすごく腹が立った。こういう《正直》なんかより 《偽善》のほうがいいのだと。なぜなら 日本語では 《偽善》は善のように偽ることですが 偽善者は少なくとも《善》を意識し《善》であろうとしているわけですから。 ところが 日本人は《偽善》のほうを嫌う。自民党の議員が同じことをすれば 許さない。それは 自民党の方が《正直》だからです。これも じつは宣長の言う《やまとごころ》と結びついているんですよ。それは《漢意(からごころ)》=《偽善》の批判だったから。 もちろん 人間は偽善者であるほかないと思うんです。しかし 人を残らず偽善者たらしめてしまうような《善》とは 結局 神 絶対的な他者としての神ですね。言いかえれば 世界宗教ですね。ぼくは 儒教もそのなかにいれています。もちろん親族形態や先祖崇拝のイデオロギーとなった儒教ではないです。儒教は《天》をたえず意識するのです。日本人に比べれば 韓国人にはそういう意識が強くある。政治家もきちんとしゃべる。どうも 日本人だけが あの正直さ=やまとごころに帰着してしまったようですね。日本のポスト・モダニズムは そういうものです。 (『終りなき世界―90年代の論理』 pp.130-131) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ご回答については 岩井の言う《人間以前の存在》という表現が 案外 意味を持つように思うのですが どうでしょう。つまり 《主人から見た奴隷》 あるいは 《白人のみが人間だと言うその白人から見たその他の生物としての人類に属する存在》を例に出されていますが 微妙に違うようにも感じました。どこがどうかと言えば どうでしょう? 人間であると認め合っている情況がはじめにあって しかも その人間の状態に達していないと見なさざるを得ないというようなところでしょうか。 もう一点。上司病の問題は おっしゃるところによれば 上司も 広く大きく上司病をこうむっていると受け取ったのですが それで よろしいでしょうか。
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お礼
うぅーーむ。共感!!! そして もう一味なにか欲しい!!!――こんな感想になるのでしょうか。 Vwiyoonnさん ご回答をありがとうございます。えらそうに言えば なかなか 読ませますね。もう少し時間をかけて考えてみたいとも思っております。 たぶん ご自分でも書いておられるように こうして分析してしまうと 昔の左翼がらみの論戦の――それは しばしば不毛に映った――ようなものを感じさせるからなのでしょうか。でも この分析はとおると思いました。ということは 逆に こういう論理を押し出すと この社会の心理共同的な情感の流れの中では 浮いてしまうのか それとも すぐに 周りに淀みが出来て 滞ってしまうのか そういった然るべからざる抵抗に遭って そのときの感覚が 《もう一味なにか欲しい》と思わせるのでしょうか。もしくは 腹八分として 言わずもがなの二分の部分を残して 余韻として 人びとに味わわせると 少しは 受け容れやすくなるのかなとも・・・。 ふぅーっ。補足欄もありますので もっと咀嚼して 考えてみます。その結果をお伝えできるかも分かりません。 それにしても 描いていただき 浮かび上がらせた絵図のような《現実》は おそらく 人びとは とうてい意識していないはづです。そういうことが 五千万人や一億人の規模で どうして 出来るのか 不思議でもあります。 ★ ・・・『偽善』は『他者』の存在を『日本人』という肥大した『わたくし』に認識させるが故に忌まれるのではないでしょうか。 ☆ 偽善は 単純にいえば タテマエとホンネとの使い分けですよね。だけれども その使い分けを ともかく《善(つまり自己が存在し他者と共存することより 前提されてくる)》として こなしてみせると もうとっくに喪失していて意識したくない《他者》のことが こころに蘇えってくるから 嫌う――ということでしょうか。 《仮構の『日本人』という集団をつくり その中にあって 内向きのベクトルしか持たず そこでは 人は みな〈日本人〉であって 〈おれはおまえ おまえはおれ〉という観念が どうしようもなく現実に 運河のように掘られており 水としても流れている》とき このとき もし自己を認識して《わたし》と言うとすれば それは 《日本人という肥大したわたし》だという読みでよろしいでしょうか。
補足
お礼を きわめて えらそうに書いて申し訳なく思っております。 もう 感じたそのままを そして 一度振り返ったときにも やはり感じたそのままを 独語のごとくつづろうと思って 書いてしまいました。すみません。お詫びします。 ★ ・・・『日本人』に帰属することのみが日本人の至上の勤めというなんだか気色の悪い病理は、人間関係を源としたものと考えるよりも、自己の他者性すらないことにした反・人間的な──他者は自己に都合のいい幻想と同様にふるまわなくてならないという甘ったれた──幻想に基づいた、他者に対する過剰な自己の投影を源としているように思われます。 ☆ そうですね。ちょっぴり思ったことは 《お互い日本人じゃないか》主義は いわゆる同じ穴のむじなとして やはり一種のいわゆる共犯関係にもなるかも知れないということです。それなら 上司源病にはならず ストレスの伝播も もしあるとするなら この共犯の輪に連ならない一部分の人たちに しわ寄せされるであろうということです。 他者性の喪失とは 今まで思いつかなかったことでした。 ★ 、『日本人』は『日本人』という仮構の(内向きのベクトルしか持たない)集団に帰属することが暗黙の目的として群れ集っている集団であるからこそ、『人間』という普遍へと向かう意思としての『善』がおざなりにされ、帰属への意思のみが唯一の教条として、たまさかその集団に帰属してしまった人々に対しても帰属を強要(タチの悪いことに半ば無意識に)してしまうという性質があり、同時に帰属への意思というものは個を個たらしめる『他者』とのコミニュケーションに対して抑圧的に機能し、『露悪』という強力なツールがムラ的な『恥の共有』によって総ての『人間』から『個』としての理想や理念を奪いとり、他者性に属する『論』を成立させなくしてしまっている。 ☆ 《露悪》ということについて 前々から ピンと来なかったのですが まだよくつかみ切れていません。《恥の共有》と言いますか 《恥の認識》は 自己還帰を促し 理想や理念をも気づかせることもあるように思ったりするのですが。 それにしても この《帰属》ということ つまりそれを実際に人びとに促すあるいは強要するということ これが 何とも 絶妙におこなわれるというべきでしょうか。たしかに 《タチの悪いことに半ば無意識に》おこなわれているように わたしも 感じます。 小学生のときから この集団の締めつけというような動きはありました。誰か生徒が その集団のあり方とは違った方向へ考えが向かって行っていると 教師が気づいたときには その教師は とうぜん その気づきからの帰属強要行為は 意識しておこなっているのですが なぜ そうするのか これについては 意識していないようですし 訊ねても答えられないようでもあります。生まれついたときから 刷り込まれているかのごとくだと感じます。 生徒の考えが 何であるかについては 省みること少なく 自分のとは違うという感覚だけによって 引き止めよう・繋ぎ止めよう・輪の中に引き入れようとするように思われます。 ★ ・・・、『人間』という普遍へと向かう意思としての『善』がおざなりにされ・・・ ☆ というときの《善》――あるいは 《『人間』という普遍へと向かう意思》―― これを さらに具体的に表わせるといいだろうなと感じました。この時点では 丸投げになってしまいますが。 とにかく ★ 『日本人』という仮構の(内向きのベクトルしか持たない)集団に帰属することが暗黙の目的として群れ集っている集団 ☆ というごとく この《暗黙の目的》が まるで《無目的に あたかも絶対的に そこへ向かう》という動きとして 大部分の人たちには 身体で覚えられているように思います。いったい 何なんでしょう??? と感じています。