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逆さまの家紋
先日熊本城に行きました。 数奇屋丸二階御広間という施設だったと思いますが、 襖の引き手に逆さの桔梗の紋がはいっていました。 逆さになっていることを不思議に思い、施設内の係の方に 尋ねましたがよい回答が得られませんでした。 紋が逆さになっている理由をご存知の方教えてください。 また桔梗の家紋は加藤清正が使用していた紋ということで よいのでしょうか。
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桔梗紋は、加藤清正の紋だと思います。 元々は、蛇の目紋を使っていましたが、熊本入国に当たり、秀吉から送られた元尾藤家の武具・調度にあった桔梗紋をそのまま使うようになり、主に慶事に使用していたようです。 詳しくは、下記のサイトの記述をご覧ください。 http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?id=449 家紋が逆さであったのは、建具師の取り付けミスや、襖の引き手部分が使っているうちにクルッと回ってしまったということでなかったとすれば、考えられることは、家によっては偶数代の時に家紋を逆さにするところもあるようですので、加藤家二代目の加藤忠広の代の時に逆さ家紋をつけた可能性もあるかと思います。(しかし、これについてははっきりしたことが分かっていないので、単なる推測に過ぎません。) http://6110.teacup.com/mizukokoro/bbs 「逆さ家紋」で検索して見てください。 家紋の専門家から回答が得られると良いですね。
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- dereku
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考えられるのは、そのまま尾藤家の紋を使わずワザと逆さにした。尾藤家に敬意を表しているのではないでしょうか。松平信康(だったような気がしますが)の紋は三つ葉葵を裏表逆さです。家督を譲ってもらえなかったための「恨み」と「裏見」を掛けていると言われていますね。
お礼
「恨み」と「裏見」はとてもぞくぞくする話ですね。家紋で表すとなると、おおっぴらに披露することになって 親子の溝は深くなり、後には切腹に追い込まれることになる...とか妄想が広がります。信康が亡くなった 年に家康は37歳(?)ですから家督の話が出たとすれば家康はまだ30代前半の壮年ということで、 随分せっかちな気質となりますね。 これとは違いますが、御三家の紋には葵の裏葉を入れるよう 家康からの指示があったみたいですね。実際にそうした紋が 御三家のうちで使われることはなかったようですが。 とても面白い話をありがとうございました。 なんだか気になることが増えました。
お礼
回答ありがとうございます。 「逆さ家紋」参考になりました。 「数奇屋丸二階御広間」という建物は平成元年に復元されたと いうことなので、文献どおり正確に復元されているかなと思います。 そうするとその文献がMr_Hollandさんのおっしゃった二代目が統治 していた頃の文献になるのかもしれませんね。 熊本城の公式ページに問い合わせできるようなので 一度聞いてみたいと思います。ありがとうございました。