- ベストアンサー
漢文の読み方について 教えてください
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。 般若心経の最初の一文ですが、「観自在菩薩」が主語となるのか、それとも「観自在菩薩よ」と呼びかけているのか。 呼びかけているのなら、「行深、照見、度」をしたのは他者(釈迦?)となりますね。 漢文の慣習的な読み方としては、どのように読むのでしょうか。 よろしくご教示ください。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
漢文も英語も基本構造はS+V+Oです。最初に主語が来て、次に動詞、次に目的語が来ます。般若心経冒頭の部分の場合、「観自在菩薩」が主語、「行」が動詞、「深般若波羅蜜多」が目的語で、普通、「観自在菩薩、深(じん)般若波羅蜜多を行ぜし時」と訓読します。次のサイトに心經の訓読の全文が載っています。参考にしてください。 http://www.ukasodo.com/syakyo.html なお、「観自在菩薩」とはいわゆる観音様のこと、一般に観音経として知られる法華経観世音菩薩普門品では無尽意菩薩が観音様に向かって「仁者」と呼びかけています。「観音菩薩」などと言って呼びかけるのは失礼なことです。 「深」は「非常に深い」という意味の形容詞で「般若波羅蜜多」を修飾します。漢文法は得意なので、わかりにくい部分があれば何でも聞いてください。ここのところの意味は「観音様がまことに奥深い仏教の智恵である般若波羅蜜多を行じられた時」というわけです。
その他の回答 (3)
- Big-Baby
- ベストアンサー率58% (277/475)
#3です。「すべてを知り、覚った方」というのは仏ですね。普通の仏典であればよく「~白仏言」『~仏に白(もう)して言(もう)さく』と出てきます。ですが、こうした定型句は般若心経には見られません。よく知られているように般若心経は大般若経のエッセンスなので省略されているのでしょう。大般若経は600巻もあるたいへん長いお経でとても読めるものではないですが、ちょっとネットでのぞいてみると、始まりは普通のお経のように「如是我聞。一時薄伽梵。住王舍城鷲峰山頂」となっています。仏様の描写から始まるわけですね。新井満「自由訳般若心経」という本がありますが、これもやはり仏様の描写から始まっています。『ある時、仏はおたずねになった「おおいなる智恵とは何だろうね」・・・』ついで観自在菩薩が話し始めるという体裁を取っています。なかなか、わかりやすいですね。ただし、これは般若心経だけを訳したものではありません。般若心経のもとになった大般若経その他のお経も参照して訳しているのでしょう。柳澤桂子さんの「心訳般若心経」もこれと同じでしょう。般若心経だけを訳せば、あのような訳は出てきません。他のお経も参照して補っているものと思われます。
お礼
再度のご回答有難うございます。 若い頃から己を頼む性癖がつよく、母親からも注意され、年配の方からも「人生を弄ぶ癖がある」などと言われたこともあります。 自分でやってみないと気に入らず、失敗も成功もありましたが、そのおかげで自分の尺度はもてました。 私の人生も手仕舞いの時期となり、自分の尺度が「宇宙の意思」と合致しているのかが目下の命題です。 「空」を「宇宙の意思(原理、方程式)」と断定し、それを「神」と呼ぶのなら呼べばいいと言うような事を考えています。 ただ「宇宙の意思」とは何ぞやと問われると、相当心もとないところです。 「現在の仏教はもはや仏教ではない、少なくとも釈迦教ではない」などと放言し、その方向で彼岸に到達できれば最高なのですが。 再度にわたるご教示を感謝します。
- ocean-ban
- ベストアンサー率30% (122/394)
「観自在菩薩」が主語のようです。 下記サイトに解説がありますのでご参考に・・・ http://enlighten.fc2web.com/hannyashingyo.html http://www.e-sogi.com/arekore/kyo1.html
補足
早速のご教示有難うございます。 じっくり、読んでみるつもりです。 今後ともよろしくお願い申し上げます。
- okormazd
- ベストアンサー率50% (1224/2412)
主語は「自在菩薩」でしょう。
補足
最初は私もそう思っていたのですが、Big-Babyさんのご回答の補足に書いたような疑問を持ったからです。 どこかで、中国語の読み方は日本の裁判のように、前例に従う(古典など)と言う事を聞いた事があるものですから、質問させていただきました。 どうも、有難うございました。
補足
早速、ご回答を頂き、有難うございます。 実は最近、柳澤桂子さんのCDを手に入れ、その中に「すべてを知り、覚った方に、謹んで申し上げます」と言う一文が、彼女の「般若心経心訳」の最初に出てきます。 それ以前にも、他の方の和訳に同様のものが有りました。 般若心経の中には、「観自在菩薩」と「シャーリープトラ」の二者しか名前は出てきません。 もちろん、この語り手として「お釈迦様」がいらっしゃるのは大前提ですから、三者がいらっしゃる事になります。 そうすると先のお釈迦様が「謹んで申し上げた」→「すべてを知り、覚った方」は般若心経の何処に出てくるのか疑問に思ったからです。 柳澤さんのものは「心訳」と有りますので、文句を言うつもりはありません。 「すべてを知り、覚った方(第四者)」の存在を推測させる文言があるのかどうかが知りたかったのです。 「後出し」になってしまい申し訳ございません。 ご不快でなければ、もう一度ご教示いただければ幸いです。