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薄田隼人正

薄田隼人正は何故、化け物退治で有名な岩見(石見)重太郎と同一人物とされたのでしょうか?何か意味があってのことでしょうか。 化け物退治は創作として岩見重太郎と名乗っていた時期が本当にあったのでしょうか?

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  • Pinhole-09
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回答No.1

石見重太郎が資料に登場するのは、慶長15年(12年との説もあり)天橋立で実父と兄の仇討ちを果たした事件です。 仇の広瀬軍蔵には助太刀二人がいましたが、一人で戦いまづ助太刀を倒し、仇を追い詰め仇を討った。  領主の京極家より検分役が立ち会ったとの事。 その前に慶長期に石見国安濃郡の物部神社での剣術試合に、13歳の石見重太が活躍したという伝承があります。 一方慶長16年、薄田隼人正兼相は大坂城籠城時、与力より物頭五千石に抜擢され、その後の活躍はご存知の通りです。 この二人が同一人であるとの確証は見つかっていません。 しかし年齢的にほぼ合っているようで、重太郎の仇討ち以後の消息が不明なところから、同一説が根強いようです。 なお石見重太郎の狒々退治は、彼の怪力から作られたお話のようです。

hirarno36
質問者

お礼

石見重太郎は仇討ちで有名だったのですか。初めて知りました。中々の剣の使い手だったようですね。 石見と薄田の年齢が近かったこと、石見がその後行方知れずなことから同一人物とされるようになったのですか。 橙武者と罵られ道明寺合戦で奮死したのは知っていますが、どちらかというとその薄田の方に箔の付くお話であります。 詳しい回答ありがとうございました。

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  • ashunar
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回答No.2

資料に基づく歴史ではなく、伝承など民俗学的に仮説を立ててみます。 日本には判官贔屓とよばれる言葉がある様に、悲劇的な最後を 遂げた人物を贔屓する事があります。義経しかり、真田幸村等など 幸村が秀頼を守って九州に落ち延びた…と言う伝承がある様に 豊臣方の武将を美化したり、徳川幕府に不満のある人達が英雄願望 として薄田隼人正を直接美化するのではなく、伝説的な英雄に 摩り替えて称えることは有ると思います。 民俗学では見重太郎の狒々退治の様な話は各地にあり、どこが オリジナルとは言い切れません。また、狒々退治の話は婿入り婚と よばれるカテゴリーで、村の外部からやってくる異類の物が村に 富をもたらす代償に、娘を要求すると言うスタイルを取ります。 その上で、まず狒々退治の伝説があり、後付けで薄田隼人正の 話として広まった…表立って語れない人物を民衆が願望をもって 伝説を作った…と言う仮説ですが、どうでしょうか?

hirarno36
質問者

お礼

その後の調べで薄田隼人正は父親が石見某であることだけが分かりましたが、それを重太郎と結びつけるのは早計かもしれません。 仮説を拝見して思い出したのは、鬼が島と桃太郎伝説です。また、判官贔屓という点では尼子十勇士をも思い出しました。 薄田隼人正への橙武者との誹り(悪評)+豊臣方への判官贔屓ではご指摘のように対抗しての美化説が当てはまるかもしれません。(ただし、石見重太郎との同一人物説が豊臣家奉公以前からあったとしたら当てはまらないかも知れませんね) 化け物退治は擬人化の逆であり、前述桃太郎のように何かの英雄伝を付け加えることにより箔を付けるとの私の考えに近いような気がします。 これらの伝承に民衆の願望が含まれていた可能性はあると思います。 別方向からの視点、及び回答興味深く拝見させていただきました。 回答ありがとうございました。

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