• 締切済み

破壊的なエネルギーと創作

これまで、様々な創作活動をしてきましたが最近になって自分の本心をごまかしきれなくなってしまいました。私は 何かをつくるということが心底嫌いだということです。 キャンバスに″絵″を描くことは心底したくないけど、キャンバスにおもいきり絵の具をぶちまけてぐちゃぐちゃして破って投げることなら毎日していたい。何らかの形にしようと彫刻をすることは心底したくないけど、心の叫びのまま、衝動のままにノミをふれるのなら毎日していたい…と、こんな感じなのですが、もちろんこれではただの目も当てられないゴミにしかならず… なにも作りたくないのに、なぜか私はどうしても何かを作らねばならないと思うのです。 創作や、表現することと、破壊的な方向にしか向かないエネルギーを両立させることなどできるのでしょうか? あるいは、破壊的なエネルギーを創作することに向ける方法はありますか? ″なにか″生み出さなければ、形あるものを創らなければ。という強迫観念のようなものにずっと追われ続けています。自分のなかにいるエネルギーの化け物に喰われそうです。 かなり危ない文面なのは自覚してますが(^_^;)、どんなことでも構いませんのでアドバイスを頂けたらと思います。よろしくお願いします。

みんなの回答

noname#201242
noname#201242
回答No.3

岡本太郎さんの著作は読んだことおありですか? (って敏子さんが文章をまとめたものかもしれないけど) 岡本太郎さんに限らず、過去の芸術家たちも創作上、行き詰まったり方向転換したりしたでしょうから、先達の話を読んでみるのもいいのではないでしょうか。 結構理屈を考えたりしていたようですよ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E5%A4%AA%E9%83%8E#.E6.BB.9E.E4.BB.8F.E7.94.9F.E6.B4.BB.E3.81.A8.E3.83.94.E3.82.AB.E3.82.BD.E7.99.BA.E8.A6.8B 宣言しちゃったり。 ダダ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A0 シュルレアリスム http://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80%E3%80%8B 今はこういう「何何派」みたいなグループは流行らないのかもしれませんが、模索する姿ということで。 太郎さんだって別に群れようとしていたわけじゃないんですけどね。 ある時から、選択に迷ったら危険なほうを選ぶことにしたんだそうです。

floe10
質問者

お礼

岡本太郎さんの著書は読みました。実をいうと、その宣言に背中を押されてやっと創作活動を始めることができたという経緯があります。 単純に向いてないだけだと思いますが、破壊的なエネルギーを創作することに転換しきれないんです。キレイじゃなく、不快感のあるものを自分に認めてあげることができないという葛藤なのかもしれませんが… ご回答ありがとうございました!

  • Postizos
  • ベストアンサー率52% (1786/3423)
回答No.2

種々の活動をされたという事なんで、こんなことを書いてもいまさらかもしれませんが 現実にある物を写すとか見えているような光景を描くのではなくて、絵の具をぶつけたり撥ねたりさせて色や形そのものを造る美術もありますからそういう方面を研究されてはいかがでしょうか。 「抽象表現主義」と呼ばれている作品にそういう物が多いように思います。 そもそも抽象表現主義という名称は人間の中にある衝動・表現衝動のような物を直接表現した美術というような意味合いだと思われます。第二次大戦後の美術の大きなテーマのひとつではないでしょうか。 https://www.google.co.jp/search?q=%E6%8A%BD%E8%B1%A1%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E4%B8%BB%E7%BE%A9&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=SbaLU-3rH4-KkgWKsYGIAQ&ved=0CDUQsAQ&biw=1294&bih=595 ただし美術のジャンルに入れるには最終的には作品の形にする事はどうしても避けられないように思います。 その作品は必ずしもキャンバスとか台に載った立体の形でなくても、ビデオの映像とか写真とか公演の形でも構わないと思います。 それを研究するのが美術であるとも言えるのでは。 舞踏やパフォーマンスの身体表現は形としては残りませんが、美術の要素を取り入れたり美術に重なる部分は多いと思います。 衝動が美術や芸術として表現されている限りは危ない作品であっても許されます。が、中にはそのように制度として許認可された芸術の中におさまる事を拒否する作家や作品も出て来るのでそのあたりがおもしろい所ではないでしょうか。 あなたは今現在の美術のとば口に立っているのだと思います。 怒りや否定の気持ちをそのまま表現する方法もあるだろうし、それを呑み込むような究極にシーンとした心のような作品になる事も考えられます。 故郷から連れ去られて元の習俗や言葉を奪われた黒人奴隷やその子孫がどういう音楽に表現衝動を投影したかなども参考になるのではないかと思います。 http://www.youtube.com/watch?v=WgISCN0ulT0 http://www.youtube.com/watch?v=dtiSA2RKDzc 発表も大事ですが自分のための芸術である事も大事ではないでしょうか。

floe10
質問者

お礼

美術や芸術といったものとは無縁の人間です。発表したいという思いもないのです。ただただ、自分自身の破壊的、破滅的な生き方を変えるために何かをつくることが必要だと思いヒントを探しています。 結局は単に自分の力不足なのですが… 動画はとても興味をそそられました。 早速見てみたいと思います。 ご回答ありがとうございました!

  • rokometto
  • ベストアンサー率14% (853/5988)
回答No.1

私は保育を学び、子ども達と触れ合う中で実感したことがあります。 創造は破壊を経験しないと育たないと。 小さい子どもが積み木を楽しそうに崩すことがありますよね。 でもまた積んで、また壊して、こんなことを繰り返すことがあります。 そんな時「はじめの一歩」というボクシング漫画のことを思い出したんですね。 医大生のボクサーが「自分は人体をどこをどういじれば治せるかを知ってるが、どこをどういじれば壊れるかも知っている」と。 ああ、そういえば医療ってそうだなって思ったんです。 薬だっていわば毒を上手に使いこなしてると言われてますし。 歴史の言葉にも古い神殿を壊さなければ新しい神殿を建てられないというものがあります。 そこである試みをしています。 壊すことを怒らないことです。 あえて壊れやすい遊具を優先することもしています。 例えば物を大切にしろと大人はよく言いますが、それって壊してしまった経験がなければ理解できませんよね。 大切にしないと壊れてしまう、壊してしまったからこそ学ぶこと。 そんな試みをしていた時1つ気付きました。 「意図的に物を壊す子ほど何かを作る意欲が強い」傾向があるんですね。 芸術は爆発だ、ではありませんが破壊と創造はどちらかだけでは成立しないんじゃないかなと。 作っては壊して演出する「サンドアート」というものがあります。 よかったら動画で見てみてください。 悩みを解消するきっかけになるかもしれませんよ。

floe10
質問者

お礼

子供を例にするとすごく説得力がある気がしますね!確かに、何でだろう?と思うくらいガシャーンと壊したりしていますよね(^-^; 私の場合は破壊と創造のバランスみたいなものがなってないんですよね… 童心にかえってみたら何か見えてくるのかな、とも思いました。 サンドアートも参考にさせていただきます。ご回答ありがとうございました!

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