※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:物語の登場人物と、倫理)
物語の登場人物と倫理
文学作品に限らず、なにかしらの物語を読むというとき、
「登場人物の道徳意識/倫理基準と、物語そのものの評価は分離して考えるべき」(たとえば、「物語の主人公が悪人→だから、この作品はくだらない」というような評価はアリエナイ)
というのは、現在、何かしらの物語を読み、評価するときのごくスタンダードな立場だ、と認識しています。私自身もまあまず殆どの場合、そのような読み方をする読者でありますし、私が会話する相手にもそのような読者であるということを期待します。
しかし、こういった「読み」の在り方は、特に物語の読者となるための基本的な教養として共有している層と共有していない層がいるよな、ということが最近どうも気にかかるようになってきました。言ってみれば、小説を読む/マンガを読む/映画を観るということの「メディアリテラシー」の在る層と無い層という言い方もできるのかもしれませんが、この問題は意外と複雑な議論を含みうるような気がしています。私自身、それがどういった議論になりうるのか、ということを、まだあまり整理して考えられていないのですが、
そもそもこういった「登場人物の道徳意識/倫理基準と、物語そのものの評価は分離して考えるべき」といった<読み方>の態度の要請は、おそらく極めて近代的な<読み方>の態度なのではないか、という気がするのですが、
(1)こうした<読み方>の態度は一体いつごろから普及したのか
(2)誰が、どういう理屈を掲げて言い始めたのか
(3)この<読み方>に対する論争史のようなものはあるのか
といったことをご存じの方がいらっしゃったら教えていただけませんでしょうか。シャルチエなどの近代読書行為論みたいな領域で扱われてそうな気もするのですが、どうもそちらのほうに詳しい知人がいないので。
宜しくお願い致します。
お礼
ありがとうございます。大変興味深い回答をいただけて素直に嬉しいです。 インドや、フィリピンの例は面白いですね。加えて言えば、シュワルツェネッガーの話なんかも、クリティカルというか、何というか。わたしのような「読み方」っていうのは、ほんとうにごく一部の貴族的なものに過ぎないんだよー、と。 ただ、 >感傷に浸るのは女々しい うーん、それはどうなんでしょう。ちょっとよくわかりません。 (1)『緋文字』1850 なるほど。個別の作品を挙げていただく形になるとは思っていませんでした。 うーん、しかし、緋文字はちゃんと読んでないのですが、アラスジだけの聞きかじりでいうと、そこにはある種、主人公たちの行動への称揚みたいなものも感じます。一般にピューリタン社会で不道徳だ、とされている人々が実はそれなり以上に高潔な人間である、ということを描くことで、ピューリタン的世界観を批判するという道筋だと思うのですが……どうなのでしょうか。 例えば、いまの国語教育の範疇で言えば『蜘蛛の糸』『羅生門』みたいな作品を中学校とかで読ませると思いますが、あそこらへんで、登場人物の個々人の悪人/善人を、切り離しながら作品を読む、ということの訓練になっているのかな、と思うのですが。あれに類する作品を非常に古いところからとってくるとどうなるのかなぁ、とかちょっと思いました。 (2)魔女裁判の話自体はたいへん面白く読ませていただいたのですが、これがこの話とどう関係するのか、が今ひとつ理解できなかったのです。供述の内容と、それをどのように真偽判定するか、ということ??でしょうか。うーん、なんかちょっとディスコミュニケーションっぽいので、お手数ですが、もう少しご解説いただけましたら幸いです。 (3)ロビンソン・クルーソーはキリスト教世界ではそんなに論争的な作品だったのですね。それは知りませんでした。ただ、なんというか、たぶん虚実論争の話と、今回の質問である<読み方>の倫理観の話は若干ちがうのかな、というように思いました。もちろん、近い問題だとは思うのですが。 いずれにせよ、たいへん興味深い回答ではありました。ありがとうございました。