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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:物語の登場人物と、倫理)

物語の登場人物と倫理

このQ&Aのポイント
  • 物語の登場人物の道徳意識と、物語そのものの評価は分けて考えるべき
  • この考え方は近代的な読みの態度と言える
  • 登場人物の倫理基準と物語の評価についての論争史はあるか

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.10

補足欄及びお礼欄、拝見しました。 お礼欄に記入があった旨のメールが届いたのは3/3だったんですが、何を書いて良いものやら……、と、一週間悩んでいました。 若干これまでの経緯を整理したいと思います。 まず質問者さんの最初の問題意識というのが 「登場人物の行為を道徳規範に照らし合わせて読むことは、文学作品を読む上で好ましくない読み方である。」という考え方は、近代になって、「文学理論」の成立とともに、誕生したのではないか。 この命題が登場した起源・背景を問いつつ、この命題の正当性を再度検討してみたい。 というものだったように思います。 それに対して、そもそも「道徳規範」抜きには「読む」という行為は成立しない、というのが、わたしの一貫した考え方でした。読み手は、それぞれの身体に刻み込まれた「ハビトゥス」を元手に、象徴体系としてある「文学の森」に分け入っていくのです。それぞれの「道徳規範」に照らし合わせないでは、テクストを理解するどころか、先を読み進むことさえできない。 問題は、読み手自身が作品を「鏡」として、自らの身体に刻み込まれた「ハビトゥス」としての「道徳規範」にいかに気がつくか、それが一地方的な、一時代的なもので、「自分の(あるいは人間の)本質」でもなんでもない、ということに気がつくか、ということです。 ところが、このような読み方というのは、ある程度の訓練が必要になってきます。そうでなければ、読み手がすでに持っている「道徳規範」に照らし合わせて読むだけに終わってしまい、そうなれば読書は「道徳規範」を強化・補強する以上の意味を持たなくなってしまうからです。そしてまた、それ以上の読みに耐えられない作品も、山のようにあります。 あくまでも「文学(批評)理論」というのは、多様な「読み」の可能性を開くものでなければならない。そのためにあるのです。 ですから、 > 作品論をやりすぎることで、受容の実体的な状況論がないものにされてしまうのではないか? というのは、まあ「実体的な状況論」なんて言葉が出てきちゃう時点で、正直、わたしは頭を抱えちゃって、語るべき言葉を失います。だって、「状況」なんて、いかなる意味でも「実体」なんかじゃないですか。 それを「読む」視点を離れて、いったいどんな「実体的状況」があるんですか? サバルタンのことも書いておられますが、現にそこにいるのに誰も気がつかないのが、サバルタンなんです。そうして、問題は「語り得ない」、さらに耳にも入ってこないサバルタンの声を、どうやって聴き取るか、ということなんです。 > むしろ、「悪者」というよりも、スピヴァクがサヴァルタンの「語り得なさ」を指摘するような意味で、文学は「語り得ない」ものの位置に置かれてしまうのだと思います。 意味がわかりません。 > 極めてドイツ教養主義的なものにかぶれた一高生徒が自殺したとしても、それが不幸であったのか、幸福であったのか。我々はおそらく「語ることができない」。 なんで他人が「幸福であったか、不幸であったか」なんてことが言えるんですか? そもそも、そういうことを「語る」必要があるんですか? これを問題にしようと思えば ・「幸福」をどのように定義するのか。 ・「ドイツ教養主義」とは、そもそも何であるのか。 ・一高生の当時の日本における社会的・歴史的な地位。 ・一高生における「ドイツ教養主義」の受容のなされ方。 そして何よりも、これがなぜ語り手にとっての「問題」になるのか、ということをまず、問題にしなきゃならないんじゃないか。 > 社会に対する影響論的な問題を「語ってはいけない」ものとしても同時に現れてしまう。 そうなんですか? むしろ、「社会に対する影響論的な問題」というかたちで取り出した時点で、それは文学としての問題ではなくなってしまってるんじゃないんですか? 文学の問題というのはむしろ、「語ってはいけない」ではなく、そこにあることすら気がつかないことを、ほかのやり方では語り得ない方法で物語ることなのでは? そうして、説明するのではなく、示すことによってそれをしようとする文学が示すものを「読み」、そこからさらにそこから理解の及ばない部分を見つけていくのが、文学評論なんじゃないか。 わたしはそんなふうに思っているのですが。 > 作品を読む、という行為は、読者によって自発的に選び取られる行為だということになっています。 わたしはそうは思いません。 「自発性」なんてものは、「自由意思」と同じで、わたしたちが仮に「あることにしている」もののひとつでは? わたしたちはどんな意味においても、自由に作品を読んでいるわけではありません。 > もちろん作品は、単純な「原因」の側に置かれるのではなく、無数に開かれた読みを持つ作品―読者が、相互に自己触媒的に作用して、一つの信念が形成されていく …作用して」までは同感です。 だけど、信念なんてものが形成されるものではないと思いますけれども。 さっきも書いたように「理解の及ばない部分」を新たに見つけていく、ってことじゃないかと。

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その他の回答 (11)

回答No.1

   私論:未熟から完熟へ ~ 見世物から興行へ ~    インドの映画館では、主人公が殺されると、観客が騒ぎだし、口々に 「何とかしろ」と叫ぶそうです。支配人が現われて「これは映画だから、 主人公は死なない。かならず明日また生き返ってくる」と説明します。    一本あたりの予算は少ないのですが、製作本数では世界有数の国です。  おそらく、映画文化のもっとも純粋な感動をとどめているのでしょう。  いつの日か、この国でも、日本とおなじ斜陽産業になるはずです。    フィリピンでは、絶大な人気の映画俳優エストラダ(70)が、十年 前に大統領に当選しましたが、たちまち公金横領罪で終身刑判決を受け、 恩赦で釈放されるや、映画界への復帰を宣言(!)したそうです。    わが国の映画館では、わたしの幼時記憶によれば、終りの字幕が出る 直前に席を立つ観客が多かったのです。筋書を覚えることが最重要で、 感傷に浸るのは女々しいことだ、という風潮に支配されていたのです。    ◇    試論:虚構から歴史へ ~ ストーリーからヒストリーへ ~   (1)こうした<読み方>の態度は一体いつごろから普及したのか    ピューリタン(英国国教会から脱した移住者)の道徳観に始まる。  ホーソン/八木 敏雄・訳《緋文字 1850 America 19921216 岩波文庫》 http://www.m-net.ne.jp/~h-ochi/Critique/Hawthorne/Scarlet_Letter.html   (2)誰が、どういう理屈を掲げて言い始めたのか    1691年冬、チツバはパリスとの娘エリザベス(9歳)と、その従姉 アビゲイル(11歳)に妖術を施し、翌年に魔女裁判が行なわれました。 ♀ブリジェット・ビショップ 居酒屋女将 16920610 ? /処刑 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/yaziuma/essay2.html  セーレムの魔女裁判   (3)この<読み方>に対する論争史のようなものはあるのか    デフォー《ロビンソン漂流記 17190425 Engand》が、実録でなく虚構 であることから、キリスト教徒に対する不誠実な情報として非難されな がら売れつづけ、いまも英国では、聖書をしのぐ人気が伝えられます。    スゥイフト《ガリヴァー旅行記》に次いで、スペインの近代小説たる セルバンテス《ドン・キホーテ》に並ぶ不朽の文学となりました。  かくなる虚実論争は、二十世紀に至って、虚構から史観に傾斜します。   ── だれも歴史を見ることはできない。草が成長するのを見ることも ないように……。  ──  Simon, Claude《Histoire 1967 France》  

compequal
質問者

お礼

 ありがとうございます。大変興味深い回答をいただけて素直に嬉しいです。  インドや、フィリピンの例は面白いですね。加えて言えば、シュワルツェネッガーの話なんかも、クリティカルというか、何というか。わたしのような「読み方」っていうのは、ほんとうにごく一部の貴族的なものに過ぎないんだよー、と。 ただ、 >感傷に浸るのは女々しい うーん、それはどうなんでしょう。ちょっとよくわかりません。 (1)『緋文字』1850  なるほど。個別の作品を挙げていただく形になるとは思っていませんでした。  うーん、しかし、緋文字はちゃんと読んでないのですが、アラスジだけの聞きかじりでいうと、そこにはある種、主人公たちの行動への称揚みたいなものも感じます。一般にピューリタン社会で不道徳だ、とされている人々が実はそれなり以上に高潔な人間である、ということを描くことで、ピューリタン的世界観を批判するという道筋だと思うのですが……どうなのでしょうか。  例えば、いまの国語教育の範疇で言えば『蜘蛛の糸』『羅生門』みたいな作品を中学校とかで読ませると思いますが、あそこらへんで、登場人物の個々人の悪人/善人を、切り離しながら作品を読む、ということの訓練になっているのかな、と思うのですが。あれに類する作品を非常に古いところからとってくるとどうなるのかなぁ、とかちょっと思いました。 (2)魔女裁判の話自体はたいへん面白く読ませていただいたのですが、これがこの話とどう関係するのか、が今ひとつ理解できなかったのです。供述の内容と、それをどのように真偽判定するか、ということ??でしょうか。うーん、なんかちょっとディスコミュニケーションっぽいので、お手数ですが、もう少しご解説いただけましたら幸いです。 (3)ロビンソン・クルーソーはキリスト教世界ではそんなに論争的な作品だったのですね。それは知りませんでした。ただ、なんというか、たぶん虚実論争の話と、今回の質問である<読み方>の倫理観の話は若干ちがうのかな、というように思いました。もちろん、近い問題だとは思うのですが。 いずれにせよ、たいへん興味深い回答ではありました。ありがとうございました。

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