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キリスト教と自然崇拝について
ある本で、「キリスト教は自然崇拝を布教の段階で否定してきた」と書いてあったのですが、これについて詳しく知りたいのですが、それについて書かれた書物や、聖書の箇所などありましたら、教えてくれませんか?
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ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は、一神教と言われますが、実は一神教ではないんですよね。 それを端的に現しているのが、「モーセの十戒」のウチ、一番めの戒め。 ・あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない 言い換えると、「他の神々ではなく、私だけを選び敬いなさい」という事。 そして、「私だけを選ばせる」為に、「他の神々」には「人間(聖人)」になっていただくか、「悪魔」として正統性を強化するための道具になってもらいました。 あるいは「天使」として「お手伝い」してもらったり。 まぁ、「唯一神」として敬って貰うための道具にしてきたんですね。 否定と言えば否定ですが、排除したというよりも「体内に取り込んだ」と行った方が適切だとおもいます。 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/1356/st.htm
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- katyan1234
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この宇宙を作り、自然を作ったのが神様という考え方ですからその自然に手を合わすのではなく、この自然をおつくりになった神様を拝むという考え方でしょうね。聖書の創世記でしょうね。
お礼
ご回答どうもありがとうございます。 自然ではなく、その創り主である神を拝めと…。参考になりました。
- kigurumi
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キリスト教では、全てのことは神の計画で行われているという考えなんです。 神が自然をどうにもできなかったら、それは神は自然より下に位置しており、至上の者じゃあないってことになりますよね。 それじゃあ まずいわけです。 聖書にソドムの町を神が悪しき町で存在を許さなかったので人々ごと滅ぼしたって書いてあります。 自然は神の支配下にあり、神が自然を自由に操れるってわけです。 風一つ吹くのも、神の意志により起こったことになっている。 だから、神より下にある自然を、神を差し置いて崇拝するなんて、許さないことなのです。 全て神の意志により自然現象は起こっており、手先である自然を崇拝せず、本体の神を崇拝せよって教えなんですね。 世界各地に自然崇拝がありまして、その信仰の祭司は女性だったようです。 ですが、父権社会に変わっていき、巫女たちの地位が落ちていった。 キリスト教は侵略目的の地域に、宣教師を送り込んだんですね。 無害そうですが、彼らに侵略目的の地域の情報を収集させ、その情報により攻め込んでいって、侵略を果たした。 ですが、侵略者に従わないで抵抗し続けた人々もいた。 するとキリスト教に改宗させるために、彼らが信仰していた自然崇拝の女神を、魔女とか悪魔として教えていったんですね。 キリスト教は沢山の悪魔を作り出しましたが、それは元は布教前に各地で崇拝されていた自然崇拝の象徴の女神とか神様たち。 自然崇拝の信仰をそれは悪魔だとして、キリスト教の神様のみを信仰せよとやっていったわけです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 これらは元々、人々にとって神様として信仰されていました。 バアルってキリスト教では悪魔になっていますが、元はキリスト教の神様と同一。 つまりキリスト教は自分達の神様を悪魔だとしたわけで。 母権社会が自然崇拝だったのですが、父権社会になっていくことで、人間に似た神様を想定し、それが支配するという風に変わっていった。 母権社会の衰退とともに自然崇拝が消されていき、人間のそっくりの神様が母権社会の神様にとって変わられ、人工物の神様を崇拝するようになった と。 そして女性は男の子供を産む動物だと教え、神から祝福があったもののみ、神は子供を授けると教えた。 子供ができない人はキリスト教の神様に罰せられているか信仰が足らないからってことになった。 それでもまだ自然崇拝が残っているとして、今度は聖職者全員女性と性交渉してはならないとしたんです。 だからカトリックの神父さんたちは、一生独身で一度も女性と性交渉をしないまま死ぬわけです。 自然を徹底的に拒絶して死ぬわけです。 この自然を徹底的に拒否した聖職者こそ、信者の生き方の見本として、賞賛され崇められることになった。 このように母権社会が自然崇拝で、父権社会が人工神崇拝。 キリスト教はユダヤ教と違うので、旧約聖書に現れる女神崇拝というか母権社会から恵みをもらうというものは持っていない。 (誰だったか忘れましたが、旧約聖書の方に、妹の方を嫁にもらいたくて、7年間くらい労働を提供したという記述があったと思いますが、これが母権社会から権力をもらうというやり方だった。つまり この頃はまだ自然崇拝的な要素が残っていた。) キリスト教だと新約聖書ですが、そのような記述は正典の方に無いような気がします。 トマスの福音書などには現れています。 あと、ave mariaの歌にも自然崇拝というか女神崇拝が現れ、キリスト教により表面上は陵辱されても、心の信仰までは奪えないという、自然崇拝の人々の信仰が見受けられます。 黒いマリアなども女神崇拝の象徴だと思います。 武力でやられたら勝ち目ありませんので、表面上はキリスト教を信仰しており、教会では父権社会の象徴であるキリストではなく、マリアのみを信仰し続けるって戦略に出たわけですね。 そうとは知らず、キリスト教が人の心まで侵略できたって思っていたみたいで。 とんでもない。 女神(自然崇拝)への信仰はどんな暴力を持っても、消すことはできないです。 でもキリスト教は消せたとほくそえんでますけどね。
お礼
ご回答どうもありがとうございます。 大変参考になりました。
- outerlimit
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『神』 以外をあがめてはいけないのです (キリスト教信仰は『神』との契約です それが 旧約聖書であり新約聖書です) モーゼの十戒や聖書を読めば判ります 日本的宗教感(多神教的価値観)では 一番理解が難しいことです 蛇足ですが 偶像崇拝も禁止です 十字架やキリスト像は 崇拝の対象ではありません
お礼
ご回答どうもありがとうございます。 そうですね。八百万の神という文化の日本人にはなかなかわかりにくいところですね
お礼
ご回答どうもありがとうございます。 なるほど、かなりはっきりと、そう言ってるんですね。