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信仰はどうやって決まるのか?(近代的自我とキリスト教の神との関係)
どう聞いて、いいものか悩みますが、 プロテスタンティズムはそれまであった教会の権威を否定して 人間一人一人が直接、神と向き合ったといいます。 この関係は何をもって、終わるのか…。 信仰を他人任せにはできませんよね。 でも、自分が信じているかどうかは自分の主観によって決まりますよね。 自分が神を信じている。と思い込めばそれで終わるのですか? 誰かに認めてもらう必要があったとしたら、教会やその類の権威が 復活してしまうような気がするのですが…。
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お礼
回答ありがとうございます。 maggaさんとやりとりしていると、 なぜ知識人に上座部系統の仏教がひろまっていくのか わかるような気もします。 >パーリ語の原典まではいかなかったみたいですね。 まだ学び始めて日は浅いので…。 本当、仏教はいろいろありすぎると思います。 全部違う宗教じゃないかと言うくらい。 仏教徒同士で話が通じてるんですかね? >その神の概念を結局は人、書物から聞くのでしょう。 >聞いたものに何らかの整合性を感じ信じていくのでしょうね。 なるほど、やはり指摘されましたか。 できることなら、ア・プリオリに。 と言っておくことにしておきます。 人間結局、知りえたことしか扱えないんじゃないの? という懐疑に対する一つの抵抗というか。 >見える問題しか解決できませんから 私の問題は簡単です。 教会へ行けないということです。 つまり何を言っても私はキリスト教徒でもなければ 神も信じていないということになります。 それを知っているのなら。 それを信じているのなら。 実際に行動に移せる。というのなら、ね。 仏教の文脈で言ったらサンガへの不信ですかね。