イベリア半島には、キリスト教国家である西ゴート王国が存在していました。
その西ゴート王国を滅ぼしたのがイスラム国家であるウマイア朝です。
西ゴート王国が滅ぼされた時、西ゴートの貴族達の一部が、カンタブリア山中に逃れ抵抗運動を続けます。
その勢力がまとまり、アストリア王国ができあがります。
アストリア王国は、正統なる西ゴートの後継者としての自覚が、国家存続の基礎となっていました。
また、ガリシアの地で、サンチアゴ(聖ヤコブ)の墓がみつかったとして、ヨーロッパ最大級の巡礼地サンチアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂が建てられ、ヨーロッパ各地から巡礼者を迎え入れる事になります。
その巡礼の道が、カミーノ・デ・コンポステーラ(コンポステーラへの道)として、世界遺産になっています。
アストリアス王国は、後にレオン王国、カスティジャ王国となってゆきますが、それら諸国が、キリスト教国家である事、ヨーロッパの一員でありイベリアを解放する事が、国家存続の使命感となり存在理由ともなっていました。
また、イスラム諸国は、イスラムへの改宗を強制しませんでした。
これは、イスラム教徒以外に人頭税をかける事ができたため、イスラムへの改宗は、財政的損失を受けるためでした。
(後に東ヨーロッパを支配するトルコは、ヨーロッパ系住民のイスラムへの改宗をさせないような政策をとります)
>イベリア半島は、キリスト教徒のものであるとの意識をずっと持ち続けたのでしょうか?
国家としての存続の正統性を主張するためには欠かせない事でした。
>国土回復という意識でもって征服を行ったのか?
それとも、たんなる膨張による侵略なのでしょうか?
どちらも正解です。
両方の混じったものです。
ただ、時期的にどちらが強いかの差は有りましたが。
>ブリテン島には、イギリスのようなヨーロッパ国家が誕生したのに対して、アフリカ北岸にはヨーロッパ国家が誕生しなかったのでしょうか?
ヨーロッパが、イスラム世界に圧倒的優位に立つのは、17世紀以降です。
モロッコにおいては、既に民族形成が終わっており、そのころではヨーロッパ型の国家ができる余地が無くなっていました。
それに対し中南米の地では、文化的にマヤ・アスティカ・インカなどよりもスペイン文化は圧倒的優位にありました。
そのため、中南米には、準ヨーロッパ型の国家ができあがります。
それでも、インカの中心であったアルトペルーやマヤの中心であったグアテマラなどでは、原住民文化が色濃く残っています。