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昔の人と方言
昔のことです。 住民はその地域の方言を使っていたと思いますが、清少納言は関西弁を話していたのでしょうか? 島津斉昭は鹿児島弁を話していたのでしょうか? 水戸黄門は「しょうがなかっぺ~」と話していたのでしょうか。 この3人は例えばです。江戸時代の武士は「ござる」とか言いますが、 ドラマや映画だと標準語ですよね。疑問に思いました。 もちろん現代口語を使った作品にケチをつけるようなことはするわけがありません。 そのへんの様子をご存知の方、教えて下さい! よろしくお願いします。
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No.3の70633です。 古代・中世のことをリクエスト頂いたのですが、 残念ながら、あまり詳しくありませんので、ご容赦ください。 ただ、三重県の明和町という伊勢の北のほうにある町ですが、 そこに、斎宮博物館という施設があり、 斎宮という、昔、伊勢神宮に仕えた天皇家の姫様に関する展示施設があり、 そこの、映像展示で、平安貴族の会話を忠実に再現した映像で聞いたことがあります。 現代の私たちの会話とはかけ離れたものでした。 もし、機会があればぜひ訪問してみてください。 ものすごく、印象的でした。 内田康夫氏の浅見探偵シリーズにも出てきます。
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- 123npo
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司馬遼太郎の本だったと思うのですが、 秀吉とおねが、大声で名古屋弁で喧嘩をしてたという記述があったと思います。 それと島津は、斉昭はどうか分からないけど、関ヶ原の戦いの時点(1600年)で、薩摩の人間は京都で言葉が通じなくて苦労した、という事が書いてありました。 (田舎者ということもありが)それで自然と他国の人と付き合わなくなって、中央の情勢に疎くなり、関ヶ原での出兵に、本当は徳川側に加勢するはずが、成り行きで逆になり、また少数の兵しか出さないという国元の軽視した判断になった。 関ヶ原でも終始傍観するだけに終わった。 そして最後は、徳川陣地の中央突破という有名な決死行で逃げてきた。 その反動、教訓でその後、薩摩は情報収集や他国との交流に力を入れた結果、250年後の幕末には、倒幕の先頭に立っていた。(財力や他要因もあるが) 当時は他国へは行き来がなく、人間とも接触もなく、情報としては外人みたいなものだったのでしょうね。
お礼
司馬遼太郎ってよーく知っていますよね~。 いくさと言葉のはなし、ありがとうございます。 時代は下がって、隠密なんかも大変なトレーニングをしたのかなあ、などと考えました。津軽に行って、つっ転んでつい「いてぇ~!」なんて叫んだらアウトですもね。 いろいろとありがとうございました。
- coelacanth
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私の独断と偏見ですがセ清少納言は今の皇室の宮中言葉で、島津斉彬は参勤交代で藩侯になるまでは江戸で養育されるので庶民の江戸弁とは違うと思いますが武家社会の江戸弁と思いますよ。 方言が発達したのは戦国時代と思います。 何故なら兵と兵が戦う時に同じ言葉なら同士討ちが起こると思います。 しかし平和になれば江戸(東京)を徳川家が開いた時に土木工事及び武家屋敷等の建設で東北及び関西から多くの人々が集まりましたが今と違い昔の方言は同じ日本で全く違い意思の疎通が計れない状態なので全員にわかるように統一された話し言葉の東京弁が作られたと思います。 因みに集団就職の私達の時代は関西に、中部に、関東に就職すると方言で馬鹿にされて離職する事が多くて中学校の授業の一環として教室でラジオでアナゥンサ-の標準語の勉強がありましたよ。
お礼
小さいころ学校で、今の標準語は、皇族、貴族か使っていた言葉に近いと先生が言っていたのを思い出しました。 東京弁が作られたというお話、どうもありがとうございます。 明治維新のころの立法行政的な主流派薩長ですよね。彼らが標準語を作ったのであれば、自分達のオリジナルで作れるわけがないと思いました。明治天皇の言葉を参考にしたのでしょうか。 集団就職というと東北をイメージします。 私の周りで、堂々と国の言葉を使っている人は、広島、熊本、それに関西人です。 北のほうの人はあまり訛りを出さないようにしていますね。少し興味を持ちました。 標準語の勉強のことも物識りになりました。 ありがとうございます。
- donta99
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宮崎には平安時代に貴族が使っていた言葉が方言として一言だけ残っています。「よだきい」がそうです。面倒くさいの意味ですが、当時は「よだけし」と言っていたとか。 鹿児島弁が出来た理由として、他国の者と自国の者との区別をつけられるようにとの説もありますが、方言は各地にあるわけですから、これはどうもかなり怪しい説のようです。 「よだきい」以外にもほかの地方には残っている言葉があるかもしれません。 ご質問のお答えになっていませんがご参考までに。
お礼
「よだきんぼ」という飲み屋さんが東京にあります。 マスターが宮崎だとか。 弥猛しですね。勉強になりました。donta99さんがおっしゃるまで ぜんぜん分りませんでした。 ありがとうございます。
- 70633
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言葉は時代とともに変わっていくものです。 だから、平安貴族が喋っていた言葉は、今の京都弁とはずいぶん違っていたと思います。 また、地方によって、アクセントやイントネーションに違いはありますが、 単語は、中央から地方へ伝播していったようです。 ただ、今のようにメディアが発達していないので、スピードは遅かったでしょうが 武士の時代になると、人の移動は多くなって、共通の言葉が出来上がっていったと思われます。 身分によって言葉も違っていたようです。 特に、大名などは、人生の半分以上、江戸にいたわけですから、むしろお国言葉のほうが、苦手だったかもしれません。 大名が将軍に謁見したり、国許から江戸に赴任してきた部下と会ったりするときに、 言葉が通じないなど言うことはなかったと思いますし、 後継ぎがなくなって、遠い親戚の大名から養子にきた殿様と、 家老が意思疎通できなかったといったことも聞いたことがありません、 つまり、武士の共通語のようなものがあったわけで、 それがござる言葉だと思います。 しかし、ドラマ等の場合、その当時の言葉でやるにも、 喋られる人も少ないし、聞き取れる人もほとんどいませんので、 特徴的な言葉を除いて、現代語に変わってきても不思議ではありません。
お礼
70633様、ありがとうございます。 簡潔かつ的確です。重ねて御礼申し上げ奉ります。 古代、中世について更にご説明いただけたら幸いです。 ちゃっかりしてすみません。
似たような質問があります(Q No.302074)、 清少納言の時代(平安時代)の口語文は残っていないと思いますが、 同様に貴族社会で共通の話し言葉があったと思います。
お礼
失礼しました。 結構探したつもりだったのですが。 薩摩言葉のことが大変興味深かったです。 ありがとうございます。
- Horus
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島津斉昭が鹿児島弁を話していたか、 水戸黄門が「しょうがなかっぺ~」と話していたかというのは、ある程度そうでしょう。しかし、庶民の言葉とはちょっと違っていたと思います。 ところが、清少納言が関西弁かというのは今の関西弁かというとかなり違ったものといわねばなりません。このころの日本語はあの古文の時代ですので、しかも彼女は貴族ですので、「朝ぼらけ、ものの、あはれは・・・」などと言っていたものかと?これより、数百年前ごろ琉球語と古代日本語が分離したものと言われています。もっとも、それよりずっと前から、東西の方言区域があったようですが。 TVの時代劇は最初はござる調だったのを途中からおそるおそる標準語に代えていったようです。それでも特徴的な言葉はちゃんと残してますよ。「ぎょい」=了解。とか。 参考文献: 「方言覚書」 柳田國男 「日本語の起源」 大野晋 岩波(旧版) その他
お礼
ぎょい! 江戸は参勤交代や遠くから新しい殿様がやってきたり、ある程度察しがつきました。 平安時代なんか、興味が尽きません。 大体文化圏は近畿地方で、文字を書く貴族、僧侶などは「出」が一緒なのかなあとも考えます。関西弁を文字で書くと、和泉式部日記のようになるの何ていうことはないですね。 どうもありがとうございました。
お礼
斎宮博物館、大いに興味あり! 紙の文化、貴族の文化が今日への伝播を妨げたんですね。 ご親切にありがとうございます。