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半島と対馬

 夏休みに対馬へ行ってきました。半島とは、およそ50kmの距離に位置し、天気の良い日は、釜山の町並みや夜景が見えるとか・・・。  しかし、今回の旅行では、残念ながら半島は見えませんでした。地元の方のお話では、この時期は、ガスがかかって、もやって見えないそうです。寒くなって、空気が澄んで来れば見られるそうです。  そこで、思ったんです。  魏志倭人伝の時代に、いえ、もっと古代に対岸が見えなくても、舟を漕ぎ出そうとする勇気はどこから生まれるのかと。    関係あることなら、なんでもかまいませんので、教えてください。

みんなの回答

  • yaima
  • ベストアンサー率32% (44/136)
回答No.2

食料を求めて、というのはどうでしょうか。 採集生活では、今いる所の物を採ったら別の所へ移るしかない。 農耕生活であっても、地味が痩せたら他へ移るしかない。 こんなとき、陸路は敵対部族でふさがれている。 一か八かで、海の向こうへ漕ぎ出していく。 人間の好奇心が不安感を上回った、というのは。 私の例でいうと、泳げないんですが、きれいな海を見てるとつい沖の方の、足の着かない所まで行ってしまうんですね。 昔の遣唐使なんかでも、行きは広い大陸のどこかしかに着くからいいけど、帰りはヘタしたら潮に乗って日本に帰れない可能性もあったけど、それなのに出かけたのも、こういうことからではないんでしょうかね。 と言っても、やはり島伝いというのは、強みですね。 九州と中国大陸の間に南西諸島がなかったら、朝鮮半島と九州の間に対馬がなかったら、文化の伝わりは相当遅れたんじゃないでしょうか。 コロンブスも、そこにインドがある(と信じた)から旅立ったのだし。

  • doro-kei
  • ベストアンサー率66% (2/3)
回答No.1

関係あるかは分かりませんが、対馬はどうして「朝鮮」の領域にならなかったのかと不思議に思います。はるか昔、魏志倭人伝などを見ると、朝鮮南部と北九州の間にはほとんど区別がなかったように思えます。しかし、朝鮮と日本に統一国家できるにしたがって、対馬は当然のように「日本」の範囲になっています。対馬の豪族は、朝鮮の朝廷にも臣属する儀礼を取り続けてきましたが、文化的にも行政的にも完全に「日本」でした。それは、李朝の世宗が対馬征伐を行っても、領土にしよう、という意図を全く見せず、すぐに引き上げたことからも分かります。世宗は、ここは「倭」だ、と思っていたのでしょう。対馬の朝鮮への臣属は、江戸時代にも続いていたことを思うと、少し面白い気もします。ちょんまげ姿の宗氏の家臣が、衣冠束帯姿の朝鮮の役人に貢物をささげる姿は、ちょっと見てみたい気もします。とまあ、思いつくまま書きました。対馬には、「朝鮮」を感じさせるような、建物や民俗とかはありましたか。僕はまだ行ったことが無いので。

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