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美術はなぜ生まれたのか?
学力低下が問題になるなか、学校では美術の授業時間が大幅に削減され「生きていく上で全く必要ない」という意見もあるようです。 生きていくために必要ないのであれば、どうして美術が生まれたのでしょうか。 根源的な質問ですが、皆さんはどのようにお考えでしょうか、ご意見をお聞かせ下さい。
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- compequal
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「美術の誕生」をどこからとするかによって答え方が違ってきますね。 素人ですので美術史を学んでいる方からすると、素人くさい答えかもしれませんが、答えてみます。 ■1.ラスコーの壁画を「美術」として捉える。 いわゆる「美術」の教科書にはここらへんから載ってますけれど、ラスコーの壁画を描いた人は芸術とか美術といった概念はなかったと思われるので、単に「絵」とか「図式」ですね。この場合。 で、このケースを「美術」とするならば、生きていくために必要(というより有用)か、といえば、衣食住に比べれば優先順位は低いかもしれませんが、かなり有用だと思います。 A.例えばデザインという技能は社会的に有用な技能ですね。ものをわかりやすくしたり、つかいやすくしたりすることができるのがデザインというものですね。 B.伝達手段としての絵、というのもありますね。文字をもたない人々が絵を使って伝達してたっぽいと思われるケースはよく知られています。「ここから三つ先の池は、夏に魚がよく取れる」とか超重要な情報ですよね。 C.楽しみとしての絵、というのもありますね。伝達手段でも考える手段とか役に立つ手段でもなく。単にうつくしいものを我々はすきですきですね。人には楽しみは重要でしょう。楽しみがなくては、辛い日々ばかりです。その手段が必ずしも絵である必要はないでしょうが、絵はその手段の一つとなりえます。 ■2.宗教美術の発達から「美術」と捉える 単なる絵というところから、もう少し意味を変えてくると宗教芸術としての絵、とかってあたりからかなー、と思います。これもやっぱり有用だと思います。 D.信仰対象としての絵(偶像)というのは宗教を信じている人、あるいは宗教を使って集団を統治したい人にとっては重要な技術ですね。 ■3.近代の芸術概念の成立から「美術」と捉える 高階せんせいというえらい先生の入門的な本によりますと、近代において絵描きが「職人」というものでなくなったあたりから、「芸術家」とかって概念が生まれて、クライアントの依頼とは関係なしに、またコミュニケーション手段とかということとも関係なしに、描きたい絵を専門に描く人というのが生まれたのだ、というようなことを、確か、書いていらっしゃいました。(うろ覚え) で、そのあたりの頃にヴァザーリせんせいとかが、アカデミーとかを作ったりしまして、美術というのが、偉い人が趣味をみせびらかすための手段になっていったりしますね。そのような近代(広義の近代ということでルネサンス以降ぐらいからで…)の中で生まれてきた部分、強くなってきた部分というは次の2点ぐらいかな、と思います。 E.商品としての絵というのが、画商とかの登場とともに重要になってきたり。19世紀には新興市民層のファッションとして重要になってきたりしますね。 F.文化のわかる人間であることを誇示するための絵というのも近代では重要です。19世紀の新興市民層が、貴族連中に認めてもらうためにアカデミー画家の絵を選んで買っていた話とかはまさにそうですし、日本が明治期にがんがん文化政策をやって法隆寺立て直したり、美術教育を充実させたり、美術館建てたりしたのも「文化国」であることを示すための身振りに他なりません。 参考:http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_137.html ■4.日本の学校科目「美術」誕生から数える 日本の学校制度が、寺子屋とかから変わったのはご存じのように明治の頃の話です。「美術」同様、直接に生きることに直結しなさそうな科目という点では、明治14年から中学校の科目に数えられた「博物」とかがありますね。この科目で美術関係のこととかも触れられていたケースもあるのかもしれません。 いつから「美術」になったのか。これはちょっと、ちゃんと調べてる人の論文とか読まないとあれですが、簡単にしらべてみたところ 戦後まもなくの昭和22年の教育カリキュラムだと「図画工作」になってますね。「美術」ではないので、これはラスコー壁画のとこで描いたA.B.C.的な有用性を期待してのカリキュラムだと考えていいでしょう。たぶん。 http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_152.html ただ、昭和26年、中学校のカリキュラムを見ると http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_158.html 図画、書道、工作は音楽と同じ「芸能」の欄に入ってきてますね。うーん、あいまいでよーわからんですなぁ。 ここでの「技能」から「芸」への移り変わりというのは学校教育の中でもたぶん、近代における「絵描き」が職人から芸術家に変化していった過程をトレースしているように感じますね。 こういう過程を辿る中で、A~Fまで挙げた中でCとかFみたいな意味での美術というのが生き残って行くという現象があるんじゃないかなーと思います。そうなると「生きていく上で必要」な部分はどんどんと削られてくるという現象が起こるのだろうと。 最後のほうに行くにつれていい加減でしたが、おそらくこういう過程で全体を捉えると、質問者さまの疑問は解けるかなー、という気が致しますが、いかがでしょうか。
- naomi-george
- ベストアンサー率41% (5/12)
まず「美術」って何でしょう? 美術館に飾られているような、美しい絵画や彫刻を思い浮かべるかもしれません。 それも美術です。 しかし私は、人間が作った物はすべて美術・芸術だと思っていますし、 実際大きな美術全集を開いてみると、芸術の範囲は驚くほど幅広いことに気づかれるでしょう。 ラスコーの壁画のように、大昔狩りの成功を願ってそのへんの壁に描いたものも美術ですし、人間が日々暮らしで必要としてきた住居や食器類、衣服も美術です。 最近では漫画やアニメーションも、もちろん美術に含まれると思います。 (もちろん、それらを芸術ではない!と、特定の時代や特定の芸術家を賛美する意見もあります。しかし、それは客観的な判断とは言いにくいでしょう) 「生きていく上で必要ない」と思っている人は、美術はお金や時間のあまっている、ヒマな人間のお遊び程度に考えているのでしょうね。 たった1枚の絵からでも、描かれた時代の文化や経済、思想など、非常に多くのことを読み取ることができます。 人間の歩みを知る上で、美術は欠かせない情報源です。 例えば、あなたが外国を旅行したとします。 観光地のお城に、非常に大きな、きらびやかな絵画がたくさん飾られていたら、当時その城の主がいかに強大な権力と経済力を持っていたかわかるでしょう。 しかし、日本でも人気の印象派の絵には、それほど大きいサイズのものがありません。 なぜだと思いますか? その時代(19世紀後半)には、もう王や貴族の権力や経済状況が衰え、それほど大きな絵を買う資金も、飾る場所もなくなっていったのです。 ほしい人がいなければ、描く人も減ります。 美術というと、何か漠然と高尚で世俗とは縁のないものに思えますが、実は需要と供給の上に成り立っている立派な商売でもあります。 これは強引に簡潔にまとめた一例ですが、美術からはもっと複雑な、複合的な時代背景を読み取ることが出来ます。 海外の美術館に行くと、よく絵の前で学校の先生が生徒たちに解説をしている場面に出くわすと思います。 絵画には彼らが歩んできた歴史や思想も描かれているのです。 単純に美術を前に感動することもあると思いますが、そこから様々なことを読み解き、考える能力を養うこともできます。 過去から学び、自分で考え、現在に生かしていく能力って大切だと思いませんか。 それに多くの日本人は、京都や鎌倉のような古都に行って、感銘を受けた経験があるかと思います。 世界一古い木造建築をはじめとする、歴史ある建物や装飾品(仏像など)を現在まで守ってきたのです。 長い長い時を経て、考えられないほど多くの人が、こうした歴史的建造物の保護に携わってきているのです。 これが明日にでも破壊されて、高層ビル群が立ち並んだらどうでしょう。 美術って本当に不必要で意味のないものなのでしょうか? 美術は生み出そうとして生まれるものではありません。 人間がいればそこに必ず発生するもので、人間と切っても切り離せない関係にあるのです。
- 安房 与太郎(@bilda)
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遊芸から技芸へ ~ 情報美学としての美術教育 ~ 現代人にとって、義務教育課程での情操教育は、無用の長物です。 たとえば、楽譜を読める人は、全体の10%前後にすぎないのですが、 そのほとんどが、音楽授業以外のところで学んでいるのです。 つまり、9年間も教わって、読譜率5%が実態なのです。 たぶん英語教育3年間(大学まで10年)の成果も、おなじ水準です。 もしこれが、文字の識字率なら、教育制度の崩壊ではないでしょうか。 現代人にとって有用な美術教育は、地図や設計図の能力開発です。 首都の地下鉄路線図を理解するだけでなく、略図を描く技術なのです。 あるいは、エクセルのような表計算を、レイアウトする能力なのです。 在来の図工教育は、日曜画家を養成するような、遊芸にすぎません。 非効率な義務教育は、人類の文化を劣化させる可能性があります。 (過去の関連質問においても、以下いささか極論を述べています) ── 人類にとって(空間の把握能力は)とても重要なのに、絵画技法 は、写真術やCGIの出現で、ほとんど実用性を失ないつつあります。 義務教育9教科の中で、とくに存在感にとぼしいのが不思議ですね。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1216636.html ── 絵画は、写真術の発明によって、わずかに残された“芸術性”を 商品化し、虚偽産業として生きのびようとしています。 あたかも茶道や華道が、作法産業として絶滅を免れたように。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2730553.html
もっと根本的に考えましょう。人間には食欲や性欲など生きていく上で直接的に必要で不可欠な本能がありますが、それらとともに、何か自分の中に湧き上がるものを外に向けて表現したいという本能もあります。 怒り、悲しみ、喜び、感動、感嘆、そうした精神的な衝動をただ単にその場で瞬間的に顔に出すだけでなく、なにかのカタチにして残しておきたいと願う、そうした姿での欲求として現れることから、多くは古代から宗教と深い関連を持ってきました。 それは、人によって、歌のようなものであったり舞踊に近いものであったりしましたが、中には何かを書き表そうとする者もいたのは自然のことだったでしょう。そして、何かを表現する上では、それは自分の心の中で湧き上がった衝動になるべく忠実であろうとします。そうでなければ存分の満足感が得られないからです。 こうして、どんな分野でも、表現には次第に磨き上げが加えられます。これが芸術の最も根本の姿と言っていいでしょう。そして、そんな衝動と行動は、あいかわらす、怒り、悲しみ、喜び、感動、感嘆、と人の衝動を共感したいと思う精神に支えられて、気の遠くなるほどの歳月を経て今日まで脈々と引き継がれ、表現は磨きぬかれて、芸術、あるいはそれが絵や書や造形なら美術の名のもとに、優れた作品の数々として世に残され続けているのです。 こうした真に人間的な欲求を「生きていくために必要ない」と言う人の神経をわたくしは疑います。学力低下が問題になるなか、学校で美術の授業時間を大幅に削減する.....、それは単に美術を不要不急の科目として削除し、それで帳尻を合わせようとする関係者たちの「教え方の貧困さ」を露呈した言い訳に過ぎないのですから。
美術の発生については諸説あると思うのですが 一番有力な説は神に捧げるための装飾から発生した のではないかと言われています。 ラスコー やアルタミラなどの洞窟壁画では儀式の 祭壇に絵を描いていたようですね。 大昔は生きていることや食べ物が手に入ること はすなわち神の恩恵として讃えていたと考えられ るでしょう。その祭壇を思いつく限り美しく 飾るのはなんとなく分かる気がします。 (私たちも今日お葬式や結婚式など神前や仏前で 執り行う事柄に関して色々飾ったりするでしょう。 それに似た感覚ではないでしょうか?) そのうち神に対する概念が強固になっていくにした がってこの神の作った世界の仕組みをどうにか解明し 再現できはしないかと探っているうちに一緒に絵画や 彫刻、建築などの美術の技術が発展していったのでは ないかと思います。この世界を知るにしたがって 神の存在を証明する証拠を探す意味もあったでしょう。 また違う側面で捕らえるならこの世界の美しいものを 閉じ込めて保管する意味合いがあったかもしれません。 人の命ははかないが自然は永遠だという考えがあった と考えれば今のこの目の前の美しい世界を後世に 伝えたいと考えて絵画や彫刻として残して語り継いで ゆくため美術が必要だったと考えることもできます。 現代の美術観とはちょっと違いますね。だいいち人が 簡単には死ななくなったし、美しい自然も少なくなり 第一残すべきものがなんなのか良く分からない時代でも あるし現代と昔と比べることはできないでしょう。 実感として生きていることに感謝していない人間が 神に感謝したり、自然に感謝したりすることは そうそうないと思います。とくに日本という土壌では。 (美術が生きていくうえで必要ないと言う前に生きている ことに感謝できたり、自然に感謝する心をまず養うべき ではないのかと本気で思います。) いまの美術は個人の考えや主張、新しい価値観の創造 (古い価値観の破壊)人間の可能性の探索などが中心で 昔のように美しいものや価値あるものを守るという考えは 隅に追いやられています。美術品を販売してるところは 違いますが。 しかし学校教育では自分勝手に自由に図画工作をされて も困るので、ある程度決まった内容の授業なのでしょう。 現代の美術の価値観の中心とは全く反対のことを学校は やってるわけです。必要ないと言われて当然かも しれません。 また日本の学校では評価をつけなければいけないですから 美術のようにはっきりとした評価を付けられない 教科はいらなく映るんでしょう悲しい現実です。
夏目漱石の「草枕」冒頭に書かれています。 言い得て妙です。 山路を登りながら、こう考えた。 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。