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勧善懲悪、目には目をの是非と、無限に押付けられる男らしさ
良く聞く事ですが、 「男ならネチネチせずに、あんな嫌な事されても仕返しなんか考えずに放っとけ。『女の腐ったよう。』だと思われるぞ。」 「男なら、あれぐらいびしっとやってやれ。悔しくないのか。」 と相反する言い訳、忠告についてですが、 思いっ切りやり返そうと、やり返したい思っている人に対しては前者を、やり返さないでいる人に対しては後者を言い付けているみたいですが。 ですがこれは本来、矛盾でなく程度によるものでもあって、臨機応変な対応になる筈、ですよね? ですが、自分達の都合次第で言う人や、本当に仕返しすべき場合にしても、間違って言う人も増えている様な気がします。 勧善懲悪=真に正当、男らしい なのか、 勧善懲悪=女々しい、幼稚、暴力 なのか白黒はっきりしない時もあります。 勧善懲悪そのものは真に正当の筈ですが。 一度、これらを何れかに統一して見たなら見たで大変かと思いますが、上記云々については如何なものでしょうか? 所詮、神様なんていないんですから、許しても損をするだけだとは思います。 女々しい人はそれはそれで、その分素直さや優しさ、思いやり等、他に良い部分を必ず持ち合わせている筈です。 悩める努力家男性と、品行方正な女性の味方なり、22歳女より。
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はじめまして。 ご質問1: <勧善懲悪、目には目をの是非と、無限に押付けられる男らしさ> これって全て、まさにイスラムの訓えそのものです。こんな言葉に縛られていると、ビン・ラディンになっちゃいます(笑)。 ご質問2: <ですが、自分達の都合次第で言う人や、本当に仕返しすべき場合にしても、間違って言う人も増えている様な気がします。> おっしゃる通りです。忠告・アドバイスは忠告する本人の主観がほとんど入っています。所詮は他人の悩みは他人のものでしかなく、親身なアドバイスも結局それを上手に生かせるかどうかは、本人の勇気と積極的な生きる姿勢次第です。 かといって、自分の好みや考え方と違うアドバイスを、真っ向から否定するのも愚かです。アドバイスをくれる、という行為が大切だからです。彼らの言葉や内容ではなく、彼らの「あなたの助けになりたい」という思いだけ、素直に受け止めればいいのです。 忠告は一種の「気休め」にしかなりません。しかし、気休めは大切な生きる糧になります。彼らの好意的な正のエネルギーをしかと受取って、自分の勇気に換えればいいのです。 ご質問3: <勧善懲悪=真に正当、男らしいなのか、 勧善懲悪=女々しい、幼稚、暴力 なのか白黒はっきりしない時もあります。> 勧善懲悪とは、文字通り「善を勧め、悪を懲らしめる」ことです。 善と悪が個人により、国家により、主義により異なる以上、2極化するのも無理があります。従って、それを「男らしいVS女々しい」と決め付けることさえ、無謀なことなのです。 米国で善であることは、イスラム国では悪であり、米国が懲悪行為をすることは、米国にとっては正当・男らしい、イスラム国では野蛮な暴力・殺人行為とみなされます。 米国がかのテロ事件で、「目には目を」の「懲悪行為=戦争」をしなければ、米国内では「女々しい」と非難されますが、「懲悪行為」をしなかったフランスは、その決定に「正当・ヒューマニティー」という評価を得ています。 ご質問4: <勧善懲悪そのものは真に正当の筈ですが。> 多様な価値観が存在する世の中には、「真に正当」なものは存在しないのです。 自分にとって「真に正当なもの」、その基準で世の中は成り立っています。 ご質問5: <所詮、神様なんていないんですから> それも思い込みです。神様が存在するという人もいるし、いないという人もいます。 どちらも同じ人であり、そういう世の中でいいわけです。他人の価値観を認めることは、自分の価値観を認めてもらうことでもあります。 ご質問6: <許しても損をするだけだとは思います。> 「許すと損をする」と思っている人は、その実、許せない本人が損をしているのです。「許せない人」は過去に縛られ、現在と未来を自由に解放されて生きることはできません。それはすなわち、死ぬ時も解放されない、ということなのです。 穏やかに死を迎えて、静かに無になることを恐れない、「許せない人」はそれができないのです。恨みが現世に残り、死を間近にして焦りばかりが生じ、許せないまま死ぬ恐怖に怯えて余生を送ることになります。 人を赦せない人は、自分を愛することができません。人を憎む人は、憎まれる人より、憎む本人が本当は憐れむべき、かわいそうな人なのです。 他人を赦すとは、ひいては自分を赦すことになるのです。 「赦す」とは、「ま、いいか」と過去に執着せず、次に駒を進めることです。そうして、死ぬ時も来世へ何の不安もなく旅立つことができるのです。 ご質問7: <女々しい人はそれはそれで、その分素直さや優しさ、思いやり等、他に良い部分を必ず持ち合わせている筈です。> この言い回しは、批判されている人のプラスの部分を見つめようとする積極的な姿勢です。その感覚を持っておられること自体、stscさんご自身の人生観に確かな自信を持っておられると拝察します。 その自信は人を勇気付け、心の励みとなり、救われた相手の喜びがstscさんご本人を守る、オーラとなるのです。 ご質問8: <悩める努力家男性と、品行方正な女性の味方なり> 品行方正でない女性があなたの味方になってくれたら、あなたはその女性の味方にはなりませんか? ご質問9: <22歳女より> まだお若いですよ。これからです、楽しい人生は! 以上ご参考までに。
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《所詮、神様なんていない》という考えに基づけば (A)《所詮、神様なんていないんですから、許しても損をするだけだとは思います》という場合と (B)《所詮、神様なんていないんですから 人は何をしても自由です。ですから たまには 変わった人がいて 許すこともあって しかも これが 意外と互いの和解につながることがあるそうです。どうだかと思うのですが 否定することは出来ないでしょうねぇ》という場合 とがあると帰結されるようです。 《これは本来、矛盾でなく程度によるものでもあって、臨機応変な対応になる筈、ですよね?》と述べておられるとおりです。 あとは このように何でも有りの相対性の世界における種々の出来事について 認識し分析をなさって その結果を いろいろと示しておられる。こういうことだと思います。 相対性の世界というのは どっちもどっちという意味です。人の数ほど 善もあれば悪もある。男らしさも女らしさも。そして ひとりの人について見ても 歳をとるとともに あるいはむしろ その時その場で変わっていることがあるようです。
先ず「男らしさ」ですが、かなりいい加減なことばです。単に「男らしさ」と言っても人によってその内容は様々です。その中には相反する内容もあるかもしれません。ある人は、項目として筋肉質な体を挙げるかもしれませんし、又ある人は頭の回転の速さを挙げるかもしれません。皮肉をこめて、強姦犯を男らしいと言う方も居るかもしれません。 >>「男ならネチネチせずに、あんな嫌な事されても仕返しなんか考えずに放っとけ。『女の腐ったよう。』だと思われるぞ。」 「男なら、あれぐらいびしっとやってやれ。悔しくないのか。」 ここでいう「男」とは単なる生物学上の性別だけでは有りません。発言者が勝手に定義した「男」です(しかも、自分で定義した「男」は他者も同じ内容で定義しているのだと言う根拠の無い自信を持っている方も居ます)。他者が定義した「男」とは共通する点は有るかもしれませんが完全に一致することはまず無いでしょう。 更に言えば、発言者が勝手に定義した「男」像を聞き手に押し付けている状態です。それではなぜこのようなことをするのか?と言うことですが、それは単に人間が自己中心的な生物だからです。自分を含めて、世界が自分の思うがままに動いてくれることを望むからです。これを実行するために、まずは身近な人から侵略するわけです。自分の身近な人に対して、自分の思想は正しいと思い込ませ、自分の思うがままに操ることが出来れば、戦カ拡大です。そして、身近な人を自分の味方につけると、更に侵略を進めます。怪しい宗教集団を観察してみればよく分かります。始めは数人ですが、思想を広めて信者を増やします。そして信者が非信者に洗脳を行って再び信者が増えると言う図式です。この宗教集団の頂点に立つ者は下の者を使ってしたい放題です。日本国内においてもサリンを撒いて大量虐殺を実行したり出来た歴史もあります。 >> 勧善懲悪=真に正当、男らしい なのか、 勧善懲悪=女々しい、幼稚、暴力 つまり発言者が、聞き手に自分の思想の正しさを示すための口実でしか有りません。相手の不安を煽って商品を交わせたりするのと同類です。 自分の思想に同調し、自分の理想とする駒になってくれると心強く感じますから。 >>勧善懲悪そのものは真に正当の筈ですが。 人間の行動に制限をかけない社会は崩壊に向かいます。強盗も人殺しも拷問もし放題になりますから。ただ、その「制限」を「懲悪」という言葉で表し、「制限」された行為から遠ざけるために「勧善」ということばが使われるのでしょう。どこまで「制限」するのかがまた問題になりますが。
- adaypajimy
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勧善懲悪=儒教と江戸幕府の持ち出した理想 目には目を歯には歯を=ハンムラビ法典(法律の理想? 勧善懲悪を嫌う日本人も多いと思います。(ここには仏教者が多いので特に)二元的に善悪を決め付けたいのは、法律によって収められた国家の側の立場だと思います。なぜなら、悪と善とを二分して、法によって裁きたいからです。閉鎖的かつ独裁的な江戸幕府を統括する武士ならば、なおさら広めたい概念が勧善懲悪だと思います。 しかしながら、日本はもともと和の国でありまして、二元的(善と悪)に物事を考えるのが幼稚だ!っていう本が今もベストセラーになっているように、勧善懲悪=男らしいは、古いと思います。現代的に言えば甲乙つけないのが包容力であって、善悪つけないのが包容力があって、男らしいということじゃないですか。包容力のあるオトコがモテルでしょう。加えて、 自分の意思を貫く!、つまり大儀がある忠義がある武士のようなオトコが、いわゆる理想のオトコ像かもしれません。でも、これは"勧善懲悪=男らしい"とは、違うと思います。 女性はひどいいがみ合いもあるかもしれませんが、イコール勧善懲悪とは違うような気がします。基本的にオトコより包容力がある極端にはしらない、母の優しさみたいな一面でたとえられると思います。このへんは感性によるとおもいますが。 勧善懲悪という概念が幼かったり男らしく2つに感じるのは、江戸幕府が推奨した統治する儒教を学ぶ武士の部分と、中華思想や江戸幕府の持つ法の柔軟さが無く善と悪を決め付けかねる部分が、あなたの中で定義しきれていないのだと思います。 22歳どうでもいい無職の男で、中年男性に人生の教えを毎晩ネットで説いてますが、なにか。
お礼
はい。 江戸の思想史から世界的思想まで、冷静な指示をどうも有難う御座います。 私の通う大学は、キリスト教を担っている学院大学なのですが、善悪の木から知恵の実(林檎)を取って食べたアダムとイブはエデンの園を追放されました。 善悪の判断は神様のする事でした。 世界は「白でもあり、黒でもある。」「白でも黒でもない。」と言う事が結論になりますわね。 解っている事でも、ピリピリしているとすぐに引っ張り出してしまう癖も御座いまして。 更なる風を、忝いです。