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勧善懲悪を刷り込まれている気がする
いろいろと社会問題的な定義がされている、「キレる」「DV(支配者暴力)」「子殺し」などさまざま殺伐とした人間問題があります。しかし、そのいずれも「勧善懲悪」のような、一方的に片方が異常なのだというような論理が横行しているように思います。実際はどうなのか定かではないのですが、例えば子供が切れやすいなどという場合、切らすほうの問題、社会とか大人の態度が、全く問題ないというような責任放棄思考法が見られる気がします。これは、すごく恐ろしいことだと思うんです。これが高じると、しまいにはナチズムになったり、奴隷国家になる道ですよね。支配者は全く完全なのですからね。またDVとかでも、本当に一方的に暴力を振るうほうだけが問題あるなのか、検証する必要があるのではないでしょうか。さすがに子殺しで、子供に殺されるほどの問題があったとはいえないでしょうけど。 そのような、「勧善懲悪」の思考法に陥る、あるいはマスコミが意識してかしないで課あおるような傾向というのは、どう考えたらいいのでしょうか。 それとも、本当に勧善懲悪で疑いの余地がない事柄なのでしょうか。
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社会生活、集団生活を送るためにはある程度の価値観のすり込みは必要です。一般的にはすり込みと言わず、価値観の共有と言いますが。 一つの社会において、一人一人の善悪の基準、価値観がバラバラだと秩序が乱れます。だから一定の共同体ごとに共有の価値観、道徳、常識が必要とされるのです。 ただし、マスコミの報道は少し事情が違います。彼ら(特にTV)は商業主義です。視聴者の興味を引くために常に分かりやすくセンセーショナルな出来事を求めます。また、市民は市民で古来より常にスケープゴート(自分より弱い者や悪い者)を求める性質があります。それにマスコミが迎合して、物事を単純化して分かりやすい悪人を作り出します。(この辺がbossambaさんの感じる”勧善懲悪”ではないかと思います) いずれにしてもマスコミの”単純化”には注意が必要です。マスコミの報道を鵜呑みにせず、なるべく客観的に見る目を養うことが大事だと言えるでしょう。
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“善悪”が間違いなくはっきりしている(一方的に片方が異常)のならば“勧善懲悪”は本当に疑いの余地がない事柄でしょう。 しかし“善悪”がはっきりしているとは限りませんね。 また、偽善者ほど“悪”を排除しようとします。 “悪”と上手くやっていく(けして染まらずに)のが本当の“善”です。 答えになってますか?
お礼
はっきりしているように思わせられるような気がするんですね。犯罪を犯したものが極端に極悪非道のような。 >また、偽善者ほど“悪”を排除しようとします。 “悪”と上手くやっていく(けして染まらずに)のが本当の“善”です。 これはいい言葉だと思います。
お礼
前半の価値観の共有化というのは、もっと無意識的に存在しているのでしょうかねおそらく。それでもう慣れてしまってあえて感じるところもあまりないというか。しかし、マスコミ報道では、なにかあからさまな価値観の操作がおこなわれていて、どうしても素直になれない、またなってはおかしいというところなのでしょうね。しかし、商業主義ってこういう見苦しいものにならざるを得ないものなんでしょうかね。どうもそれが長年の疑問です。忠臣蔵でも、もっと中立的な解釈がうけてもいいかもしれまんせん。 あるいは、マスコミは判断ミスしているのかもしれませんね。本当はもっと灰色のリアルなにおいのする報道を目指したほうが売り上げが伸びるかもしれないのに、あえて自分自身で低迷しているようなことが、もしかしてあったとしたら、商売不熱心ということになるのでしょう。