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高度経済成長
高度経済成長についての質問です。 (1)第二次世界大戦前までは「ブロック経済体制」をとっていましたよね。 そして、第二次世界大戦後に「ドル体制」となりました。 このことが経済発展につながっていると習いました。 では、どうしてブロック経済では経済は発展せず、 ドル体制になれば経済は発展したのですか? (2)日本は産業政策が成功した国だと教わりました。 なぜ他の国では成功できなかったことを成功できたのでしょうか? 機械などでは他国の方が勝っていると思うのですが・・・。 どちらかだけでもいいので、説明していただけるとうれしいです。
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- gootttt
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(1) ブロック経済より効率の良い自由貿易体制になったからです。 経済というのは基本的には分業なわけです。 皆で作って皆で使っているわけです。 1人でやるより10人で分業して協力するした方が、10人で100人でやる方が分業して協力するした方が効率が良いように、ブロックごとにやるよりも皆で協力した方が効率がいいわけです。 中東は石油を輸出し、日本は車を作り、アメリカは食糧やコンピューターを作るなど、お互いの得意分野を発揮し、お互いの弱点を補い合うという経済システムは最も効率が良いわけです。 ドル体制とは国際的な分業協力をするための体制であり、コレが唯一の方法だったわけではありません。イギリスは別の方法を提案していました。 しかしアメリカは当時資本主義陣営で圧倒的な力を誇っていたので、アメリカの主張するドル体制になったわけです。 具体的に言うと、世界の貿易はドル本位制の下で行なわれることになったわけです。さらに貿易の際のルールを整備する為にGATTっというのも作られました(それまでは各国が好き勝手に決めていた)。 このシステムはアメリカに最も都合のいいシステムではありますが、他国にとっても良いシステムでした。 何よりも、ブロック経済に代わり『国と国が協力できる体制』が必要だったからです。 (2) そもそも質問者さんは日本の産業政策をどのように考えているでしょうか? 日本の産業政策は大きく分けて5つあります。 1.金融政策 実はコレが一番重要だったのです。 2.戦争直後の産業政策 復興期の政策です。 3.その後の産業政策 3-1.調整役 これは、企業間の意見を調整するという役目です。 3-2.産業振興 これはあまり上手く行かなかったようです。 4.摩擦調節の政策 農業や商店街に対する政策です。 1.金融政策 日本経済に最も大きな影響を与えたのは金融です。 戦後の日本企業はどこもかしこも金欠でした。つまり皆お金を払って工場を建てれば儲かると分かっていたので、企業はどこもお金を借りたがっていましたが、銀行が貸せるお金には限りがありました。 政府、日銀は銀行に対して絶大な影響力を持っていました。当時の銀行は国の資金配給業者に過ぎなかったわけです。 そこで政府は誰にお金を貸すかを選ぶ事によって、どの産業を伸ばすかを選んだわけです。そして金を借りれた産業はぐんぐん成長し、金を借りれなかった産業はそこそこの成長しか出来ませんでした。 つまり、重工業に優先して金を貸すように命令したので、日本は工業大国になったわけです。 2.戦争直後の産業政策 戦争直後は資金だけではなく、外貨も不足していました。 具体的に言えば、石炭石油などの資源やアメリカ製の最新の機械も輸入できる量に限りがあったわけです。そして誰もがそれらを欲しがっていました。 その時限りある外貨を誰が使うかと言うのも問題でした。それらを最も期待できる産業に割り振ったわけです。 一番最初は石炭関連の産業に割り振られました。そして石炭増やす→鉄増やす→石炭増やすなどとやったわけです。 3.その後の産業政策 3-1.調整役 例えば、規格の統一や企業の合併などの時の調整役なども行なったようです。コレについてはそこそこの成果をだしたようです。 3-2.振興策 一般的な産業政策のイメージに近いものですね。 例えば、政府が金を出して新技術の開発などを行なったものです。 しかし、コレはあまり上手く行った試しがありません。 4.摩擦調整 高度経済成長時には、大きく伸びる産業とそうではない産業があります。 自動車産業などは生産性が飛躍的に上昇しましたが、農業や商店街などは殆ど変わってないわけです。 そうすると、自動車企業で働いている人と農家や商店街の間に、都市と地方の間に格差が生まれます。そして取り残された人たちの不満が生まれるわけです。 コレに対して、遅れた地方、遅れた農家に対して金をばら撒く事によって不満を宥めました。その結果補助金付けになった農家や地方と競争を続けた都市の間の生産力の格差は更に広がり、そのために更に沢山の補助金が必要になり…(以下略)、現在のような状況になったわけです。 それらを止めたから今地方は苦しんでいるわけです。 さて、これらを踏まえ日本の産業政策で上手く行ったといえるのは 1.と2.で、3-1.は人により判断が分かれます。 3-2.はどちらかといえば失敗ですし、4.は一時しのぎだという誹りは免れません。 そして、2.が効果を発揮したのは朝鮮特需くらいまでですし、1.もメリットの方が大きかったのは戦後20年くらいだと思います。 1970年以降の政府の産業政策が効果的だったという意見はそれほど多くないと思います。 では何故日本の産業政策が褒められているかといえば、 1.戦後20年くらいはそれなりに効果を上げた。 上記した通りです。 2.他国がもっとアホだった。 日本の強い産業は大抵は各国と比べて国の影響が少ない部門です。 例えば、イギリスは主要産業、鉄鋼会社や炭鉱などが須らく国有化したわけです。だから駄目駄目になっちゃったわけです。 対して日本は国は(各国に比べれば)殆どノータッチだったので成長できたわけです。 次に、アメリカはイギリスのように国営化をしませんでしたが、こっちは寡占が酷かったので企業自身が官僚化してしまい停滞してしまいました。 このようにむしろ各国政府がもっと足を引っ張っていたのに対し、日本政府は足を引っ張る程度が比較的少なかったから成功したと考えたほうが良いと思います。 ただし、国の果たした役割は小さくありません。戦後の復興期には大活躍したわけですし、80年代くらいまでは大きなミスもなく社会経済を安定させ民間が力を発揮できる状態に保っていた事が偉大なわけです。 これは今から見れば40点くらいのレベルかもしれませんが、他の国は20点とかだったわけです。 (3)その他 高度成長の要因はそれだけではありません。 自由貿易体制は大きな要因ですが、それ以外にも様々な要因があります。 1.技術の進歩 戦前から続いていた技術の進歩の影響を労働者にも享受できようになりました。 この動きは大恐慌前のアメリカにはあったのですが、それが他の国でも起きたわけです。 そして労働者の所得が増えた事、経済学の進歩などにより、経済の安定性が飛躍的に増し、恐慌を回避する事が出来るようになったというのも大きいです。 2.国際社会の安定 戦争は最も非効率的な政策です。 WW2後も冷戦は続いていましたが、それでも国と国の熱い戦争が頻発していたWW2前よりはずっとマシだったわけです。
- hirosi3
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●「ブロック経済体制」→「自由貿易体制」● 戦後変わったのは、「ブロック経済体制」→「ドル体制」ではなく、「ブロック経済体制」→「自由貿易体制」と表現すべきです。ブロック経済の弊害については次の文章が分かりやすいでしょう。 アメリカから始まったこの大恐慌、ヨーロッパへも広がり、1931年8月25日に成立したイギリスのマクドナルド挙国一致内閣は年9月21日に金本位制を廃止した。1932年7月21日から8月21日、カナダのオタワでイギリス帝国経済会議を開き、オタワ協定を締結した。(会議に参加したのはイギリス本国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アイルランドの各自治領、インド、南ローデシアの植民地) これはイギリス連邦を世界恐慌から救出する方策として、イギリス連邦以外の国の製品に対して高い関税を賦課し、連邦諸国内の製品の関税は低くするという特恵制度をより完備・徹底したのもだった。「イギリス連邦の皆さんは、イギリス連邦で生産されたものを買いましょう」「連邦内の顔の見える生産者のものを買いましょう」「東洋には『地産地消』とか『身土不二』という言葉があります。これを見習いましょう」という事だった。 イギリス連邦ほどの広さなら自給自足も可能であったが、日本列島だけでは無理だった。朝鮮半島、満州帝国を含めて自給自足体制を作ろうとしたが、エネルギー源としての石油が足りなかった。このため仏領インドシナを制圧し、さらに南方へ自給地を広げようとして「大東亜共栄圏」なる幻想を設計した。大日本帝国があの時代に知恵を絞った挙げ句の「自給自足」政策であり、「地産地消」政策でもあった。もしも大東亜共栄圏ができていたら、石油は大日本帝国南アジア自治領から自給し、畜産業の飼料としてのグレーンソルガム(コウリャン)は同盟国の満州帝国の顔の見える生産者から買えばいいことになっていただろう。イタリアは1935年にエチオピアに侵略しここを自給地とし、1939年にはアルバニアを占領する。ドイツは1938年 3月13日オーストリア併合 を皮切りに、1939年9月1日に、ドイツ軍(兵員150万人、戦車2000両、航空機1600機)はポーランドへ侵攻し、 東ヨーロッパへ自給地を広げていった。この時代「地産地消」「身土不二」を徹底するには自国の領土を広げることが政策となった。特にイギリス、フランスは植民地という自給地を持っていたし、アメリカは自国だけで自給自足ができた。後発先進国のドイツ、イタリア、日本は先輩先進国のいじめに遭いながら手付かずの自給地を作らなければならなかった。 ●参考=<暗黒の木曜日以降、各国が地産地消を進めた> 「日本は産業政策が成功した国」との主張は、「政府・官僚が指導して経済を成長させた」との考えがあるからでしょう。しかし、戦後の経済再建について、日本は比較的政府の干渉が少なかったと言えます。フランスの「混合経済」、ドイツの「社会的市場経済」、イギリスの「ゆりかごから墓場までの、ベヴァリッジ・プランによる福祉国家政策」、に比べれば、日本は市場原理主義に近いほどの自由経済だったのです。 また、日本経済は朝鮮動乱によって立ち直ったとの主張がありますが、ドイツも同じです。西ドイツ経済相のエアハルトはその著書『社会市場経済の勝利』(L・エアハルト 菅良訳 時事通信社 S35.2.10)(54P)で次のように書き出し、朝鮮事変によりドイツ経済が立ち直った、と書いています。 第3章 朝鮮危機とその克服 朝鮮事変がもたらした不穏と不安は、いちじるしい需要増加を生んだ。消費者の反応は平静であろうという万一の希望は、偽わりであることがわかった。それに対し、十分な資本市場が欠除していたために投資の大部分が高くつき過ぎたとはいえ、通貨改革以来比較的多くの投資が行われていたことは、プラスの要素であったといえるであろう。この事件の道徳的評価と国民経済的判断は、おそらく完全に相反したものとなろう。しかしながら、朝鮮事変の最初の5か月間に起こった需要増加のため、生産指数は6月の107.6から1950年11月の133.3に上昇したことを想起すべきである。同時にしかし、工業用基本資材の価格指数(1938年=100)は218から265に、工業生産者価格指数は178から195に上昇した。この嵐のような上昇傾向にもかかわらず、ドイツにおける価格上昇は生産の驚くべき弾力性のおかげで、他の西欧諸国よりも弱かった。(以下略)
「戦後日本経済史」という有名な本があります。文庫本サイズです。(出版会社名わすれました) それを読んでください。端的にまとめられていて便利です