~五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする(古今和歌集:夏の歌)~について
回答者の皆様には、いつもお世話になっております。
五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする
上記は『古今和歌集』の夏の部に収められている非常に有名な和歌です。かつての恋人への切ない想いを爽やかな橘の香によせて率直に歌い上げているこの歌はいにしえの人々に大層愛され、私自身も大好きな一首なのですが・・・先日『伊勢物語』を読んでいたところ、この歌を主題にした段に目が留まりました。その段とは
むかし、おとこ有けり。宮仕へいそがしく、心もまめならざりけるほどに家刀自、まめに思はむといふ人につきて、人の国へいにけり。このおとこ、宇佐の使にていきけるに、ある国の祗承(しぞう)の官人の妻にてなむあると聞きて、「女あるじにかはらけとらせよ。さらずは飲まじ」といひければ、かはらけとりて出したりけるに、さかななりける橘をとりて、
五月まつ花たちばなの香をかげばむかしの人の袖の香ぞする
といひけるにぞ、思ひ出でて、尼になりて、山に入りてぞありける。
という内容です。
実は私はお恥ずかしいことにこの段をじっくり読んだことがなく、今回改めて読み直してある疑問を覚えました。
それは「さかななりける橘」という部分です。
さかな=酒の肴とすれば常識的に考えて、橘は橘でも「花」ではなく食される方の「実」を指しているのは間違いないと思います。橘の花は旧暦の五月頃に咲きますが、橘の実は旧暦では九月頃に収穫の時期を迎えます。この話の季節について特に記されていませんが、おそらく橘の実がなる秋から冬にかけての出来事なのではないでしょうか。
もしそうだとすれば、古今集の撰者がこの歌を<夏の部>に入れたのは何故なのでしょうか?「五月待つ花橘」とは「五月を待って咲く花橘」ではなく「今はまだ九月だから花を咲かすことが出来る五月を待っている花橘」という意味ではないのか・・・。「実」のほうは「花」のようなあの独特の香が薫ることはないと思います。歌った男はたまたま肴に出された「実」があったので、「花」を想像して歌を聞いてよね、という気持ちだったのでしょうか?男のそういう気持ちを選者も汲んで、まあ秋に詠まれた歌だけど五月という言葉もあるし、せっかくだから<夏の部>に入れよっか~という結果なのでしょうか???
ものすごく今更な疑問なのですが、考えたらとまらなくなってしまいましたので、どうか回答いただければ幸いです。
お礼
早速お教えくださりありがとうございました。 李白の漢詩を参考にして茶会に組み込みたいと思います。 本当に助かりました。ありがとうございました。