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何とも融合していない自己に会ったことがありますか?
何とも融合していない自己に会ったことがありますか? 如何なるものとも融合していない自己に会う、静かではありますが、そんな機会がありますか? できそうでできにくいことだとは思いますが、できないことでは決してないと思います。 どんな自己ですか?どんな気持ちがしますか?周りはどんな風に見えますか?何を発見しますか?好きですか?真実と思えますか?
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No.4です。 《社会的背景に元付く立場を取り払っても人間は生きていくものだと思います。 そういったものに介入されない自我に出会ったことはあるかどうか?》 ――ご質問の趣旨をこうおっしゃっているのでしたら わたしの回答は 前提として まちがっていなかったようです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >それはそれは 寂しい世界です なるほど。それ自体が行動の動機になると思いますか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ もし この《社会的な――特に感覚的に互いに共生していると思えるような――つながりを抱かせられない情況にある自己》を経験したこと自体は 行動の動機にならないと思います。 けれども そのような自己の状態をとおして なにか超経験的な領域のことが ふと 脳裡にやってきて その後の行動の――しかも行動全般の――きっかけになるとは 思います。 寂しい世界にあって それでもこの自己として生きるようになったのは 自力ではないという感覚です。自力ではないという力です。自力は 自分のすぐれた力ではないと分かったときの力です。これが 行動の動機でした。
もし《融合していない》というのが 《感覚的に 誰とも つながっていない》という意味でしたら 経験がわたしにはあって それはそれは 寂しいものです。そのひとことです。 《できそうでできにくいこと》だと思ってそうなったのではありません。社会環境のほうから余儀なくされただけでした。 《静かではあります》し 《真実と思えます》が それはそれは 寂しい世界です。《好き》ではありません。《どんな自己ですか? / 何を発見しますか?》と訊かれても 寂しい感覚のほかに 特には ありません。 《周りはどんな風に見えますか?》――これに対しては こう思うものです。つまり 嫌いだとか おまえとは口を利かないとか もっと真実のことを言えば 死んでしまえとか 負の極限のでもいいから かかわりを表わすことば(また態度でも)を示してくれたならという気持ちで 周りを見ています。逆説で言うならば 周りは死んでいると見えます。 真逆の回答ですみません。(《融合》の意味を取り違えていたなら ごめんなさい)。
お礼
ありがとうございます。 >それはそれは 寂しい世界です なるほど。それ自体が行動の動機になると思いますか? >周りは死んでいると見えます。 どういったものとし観る認識にも影響が及び換わったものとなるということですね。 ダイナミックですね。 ありがとうございます。
認識主体の自己認識の問題ですね。認識できないから主体であるのに存在することが認識できるというのは不思議な感じです。でもこれは暗闇をう明かりをつけて見てみようとしているようなものだと思っています。暗闇が存在することはわかってもその正体を確認しようとしても不可能というようなことではないかと思っています。
お礼
なるほど。 暗闇は暗闇だからして暗闇ですね。 物は目では光で見るものですね。 う~む。
- shift-2007
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融合とは何を指すのですか? また、自分の中に、融合している自己と、していない自己、あるいはそれ以外の自己と何種類もいるのですか? できるとおっしゃいますが、融合していない自己を作り出したのも自己ですか? そう考えると矛盾しませんか? あるいは多重人格をさしているのですか?
お礼
人は生きていると何がしかの役目や、立場や、お互いの関係の中で暮らしています。 この国に生まれたことや、学生の身であったり、ある人の親であったり、従兄弟であったり、夫であり妻であり、おばあさんであるかもしれません。 この国の時代的な情勢や、主義であったり、どこかの会社の社員であったり。 地域の中での役割であったり、会社の中での役割であったり。 まあ。いろんな立場を皆さんお持ちでそのような立場は、少なからずとも誰しもその人の中の自己認識の一部に加味しているものと思われます。 でもそんな、社会的背景に元付く立場を取り払っても人間は生きていくものだと思います。 そういったものに介入されない自我に出会ったことはあるかどうか? そんなニュアンスだと思います。
私は何も考えないで頭を真っ白にすることが出来ます。 まだ心に煩悩が残っておりいわゆる無の境地ではなくただの無心です。 無の境地は独りっきりになることを意味しますが、宇宙との融合も意味します。 完全な自我の孤立は本来の「無」とは正反対ですが、自らの心を自由自在に操れるので実験したことがあります。 完全な孤立は体験したことがありませんが、丸裸の心にかなり近い体験を2回ほどしています。 1回目は心が枯れたような状態になりました。そこには苦痛が存在していて2~2秒しか我慢できませんでした。 2回目は無意識を分離して第3の識を探り当てる実験です。 このときは非常に心細い感じでした。
お礼
ありがとうございます。 >丸裸の心にかなり近い体験を2回ほどしています。 なるほど。存在としては、先ずありえる領域と見ました。 >そこには苦痛が存在していて2~2秒しか我慢できませんでした。 むむ。苦痛。ありえると思えました。こういった意識の状態は、日常の中に自然に姿を現してくるかといえばあまり顕著ではない事だと思いますが、その内容として、核に苦痛があることは考えられ感じられます。ですから、よけい意識化されにくいのかもしれませんね。でもそれは、意識の手の届く範囲の基底に存在することから、随分多くの人の多くの行動の動機に関与している可能性が考えられます。 >無意識を分離して第3の識を探り当てる実験です。このときは非常に心細い感じでした。 無意識を分離して第3の識を探り当てる とは、もう少し噛み砕くとどういった意味合いですか? これちょっと私には難しい。けど知りたい。です。
お礼
ありがとうございます。 >つながりを抱かせられない情況にある自己》を経験したこと自体は 行動の動機にならないと思います。 なるほど。 >しかも行動全般の――きっかけになるとは 思います。 ふ~む。 私は、人は、感じた悲しさを回避するよう、ポジティブに積極的に行動に移すものだと考えています。 >自力ではないという感覚です。自力ではないという力です。 生物としてのプログラムのようなものでしょうかね。マシン語のような。 そして、変わるのは俗のみで、多くの人はちょっと言葉は悪いですが俗の内に自己の確立の多くをし、そして、そんな意識的な見地からの自らの知れる所の幸せを目指し、生きて、死んでいくのかなぁって思いました。 >自力は 自分のすぐれた力ではないと分かったときの力 本当に心を満たせられるものとなるかどうかというところでしょうか。 新たなる全く知らなかった、が、手応えへの羅針。 新たな自分が指し示した方向という。 新たな自分の光が照らした方向という。 御。忠 実 に。そして幸せを。