エクシメーノ:音楽美と数学(音程比)とは無関係か
▲ (ホアキン・M・ベニテズ:エクシメーノの音楽論) ~~~~~
*1 ホアキン・M・ベニテズ( Joaquin M. Benitez 1940- ):十八世紀音楽思想の一断面――エクシメーノの『音楽の起源と規則』の場合―― in 今道友信編 『精神と音楽の交響 西洋音楽美学の流れ』 1997
*2 エクシメーノ Antonio Eximeno y Pujades, ( 1729-1808 スペイン人でイタリアへ亡命したイエズス会士の数学者・哲学者):『音楽の起源と規則』 Dell'origine e delle regole della musica, colla storia del suo progresso, decadenza, e rinnovazione, Roma, 1774
【あ】 音楽の基礎を数学か物理学かに置くならば 音楽作品の実際的な聴取において見出される音楽現象のすべてを解明することは必然的に不可能になり そのために 音楽の理論と実践を整合することは一層困難になる。
【い】 数の比は 単に偶有的なものである〔場合がある〕。
ある演説のなかのいろいろな陳述の長さを互いに
比較すれば そこでの語数から諸々の比と割合とが
引き出されるであろう。しかしそれにもかかわらず
それら〔の比や割合〕は その演説にとっては偶有的
なものである。なぜなら その〔演説の〕説得力は 語
数には依存しないからである。
それと同様に 弦の長さは測定し得るものであり さまざまな諸音程関係に対応するさまざまな振動弦の弦長相互間に多くの比や割合が存在する。しかし これらの比は 和声の響きにとっては偶有的なものである。すなわち 和声の響きは これらの比を知らなくとも得られるものであり 体験され得るものなのである。
☆ (ぶらじゅろんぬ註) これだけなら 比があるから
和声の響きが心地よく聞こえるのだと反論しうる。
次の議論を聞こう。質問者にはよく分からない所が
あるからでもある。
【う】 こうした原理は エクシメーノが展開しているすべての数学的例証に及んでいる。最も明瞭な一例を挙げよう。
エクシメーノは 音楽における五つの最も完全な協和音程――オクターヴ 五度 四度 長短三度――が それぞれ数学的に 1/2 2/3 3/4 4/5 6/7 という比によって表わし得ることを認めている。これらの比の間の関係は 前の音程比の分母と分子にそれぞれ 1 を加えるという法則に従っている。しかしエクシメーノは この法則によっては説明しきれないものがあると述べ 次のように問う。
すなわち 音楽は何故に 6/7 の比に基づく音程を用いないのか。それは 短三度とほぼ同様に耳に心地好いはずであり そしてまた この法則らしきものから次に得られるべき比であるのに。
また 音楽にとって非常に非常に重要な二つの音程である長短六度の比( 3/5 5/8 )を得るために なぜこの法則を適用し得ないのか。
そして 音楽に不可欠な不協和音程を何故にこの同じ法則から引き出し得ないのか。
それ故 彼は次のように結論を下す。
経験はその逆のことを証している。したがって 諸振動
の会合は音楽の快感の原因ではない。
☆ ほかにもいくつか論点ないし例証があるのですが あとひとつ
を引きます。
【え】 エクシメーノはまた 鍵盤楽器の平均律弦法を論じて 彼の立場を主張している。
もし数学的な音程比がそれほど重要であるのなら 何故に平均律によって修正された音階を用いなければならないのか。もしそうした比が重要であるのなら 平均律に調弦された楽器の音から快感を得ることはできないだろう。
というのも 平均律では すべての音程は《オクターヴ以外 耳に不快なものであるはずだ》。しかし われわれの経験は 逆のことを告げる。すなわち
理論的な音程比に従って調弦されたチェンバロは 歌
のためにも楽器演奏のためにも使えないだろう。自然が
音楽を特定の音程比に基礎づけたと仮定することは[・・・
(中略)・・・]なんたる愚行であることか。われわれが歌い
演奏したいと思う時はいつでも 自然であるためにそれら
〔の比〕を修正せねばならないのに。
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☆ いろいろおしえてください。
もし数学的なことがらが音楽美とは関係ないとなったなら そのときにはおそらく 言葉の起源がほとんど人間には――使っていながら――分からないほどであるその自然さと同じように 情感といった自然の要素と大きくかかわっている。ということらしい。(その点は むしろありきたりの結論のようです)。
ほかの例証や論点を やり取りの中で引用することは可能です。