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音楽美と数学(音程比)とは無関係か
- 音楽の理論と実践を整合することは困難であり、音楽現象のすべてを解明することは不可能である。
- 数の比は偶有的なものであり、音楽の理論や現象に直接関係しているわけではない。
- 音楽において重要な音程比が数学的に表現できることはあるが、全ての音程比を数学的に説明できるわけではない。
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どういう順序で論じたら明晰な回答になるかわからず、なかなかとりかかれないでいました。とりあえず今回の問いは、自然の音響現象に由来する数と音楽に関係があるか、その数が音楽美の根拠となり得るのか、という単純なものだということなので、なるべく逸脱しないようにしたいと思っているのですが、エクシメーノが言っていることはかなり込み入った問題なので、そう簡単にはいかなそうです。 まずエクシメーノは、音楽で使われる音程が自然倍音律、純正律から導かれないことを理由に数と音楽の関係を否定するわけですが、「精神と音楽の交響」に引用された部分だけでは何のことか理解できないところがあります。この論文はちょっと不十分(あるいは不親切)なのではないかと思いました。原文を参照している著者自身ははわかっているのかもしれませんが、これだけ読まされる方は難儀します。たとえば、「音楽に不可欠な不協和音程を何故にこの同じ法則から引き出し得ないのか」という点ですが、引き出せるはずなのに何のことを言っているのか、と混乱させられました。平均律で調律されたピアノの場合は別として、音高が変えられる弦楽器や管楽器の組み合わせで不協和音程を演奏する場合、純正律でイントネーションを調節できるのですが、なぜ「引き出し得ない」としているのか、そこがはっきりわかりませんでした。インターネット・アーカイヴにエクシメーノのこの章だけのドイツ語訳が出ていたのですが、それを少しだけ読み、手元にある「調律法入門」(ジョン・メッフェン著・音楽之友社)や英語、ドイツ語のサイトを見て比較したところ、ハーモニーとしての純正律、つまり縦方向の響きの調和を得るために適用される自然倍音列上の比率と、「純正律音階」、つまり横方向の音の並びを決めるときの倍音の用い方が異なるためであることがわかりました。 この「純正律音階」というのは、ピタゴラスの音階をガリレイの父親が修正したものらしいのですが、この音階での各音の高さは、一つの音に含まれる倍音列上の比率とは一致しないところがあります。たとえば「ド」と「レ」の間隔ですが、基音を「ド」とした場合、「レ」の高さは、その倍音列上に現れる「レ」をもとに計算すると、10/9になります。「ド」と「レ」を同時に鳴らす場合は、この比率で音程を取れば調和します。ところが、「純正律音階」上の「レ」の音は、10/9ではなく、9/8になっています。エクシメーノが「不協和音程を何故にこの同じ法則から引き出し得ないのか」と言っているのはこういうこと、つまり「純正律音階」の「レ」はなぜ10/9を採用しないか(できないか)、というようなことを言っているのではないかと推測しています。 「純正律音階」の構成音の高さは、まず協和音程から先に決めていきます。調律ではセントという単位を使うのが一般的で、1オクターヴは1200セントです。「平均律」の場合は、各音の間隔を全部同じに分割するので、半音の間隔は100セント、全音の間隔は200セントになります。「ド」と「ソ」の「完全5度」の音程(ド・レ・ミ・ファ・ソと数えるので5度)は700セント(全音+全音+半音+全音=200+200+100+200=700)になります。純正律の場合、「ド」の音の上に発生する倍音列に含まれる「ソ」の音の振動数比率は2/3ですが、これだと「ド」と「ソ」の間隔は702セントになり、平均律より少し広くなります。702セントの間隔で「ド」と「ソ」を同時に鳴らした場合、響きは純正になり、うなりは生じません。鍵盤楽器以外の楽器による演奏では、このイントネーションは使用できます。「純正律音階」を作るときも、「ソ」はこの702セントを採用します。次に「ファ」の高さを決めるのですが、これは「ファ」と、その上の「ド」の間隔が、下の「ド」と「ソ」の間隔と同じ「完全5度」なので、上の「ド」から逆算して、1200-702=498セントにします。平均律上の「ファ」、500セントより少し低くなります。「ミ」の高さは、「ド」の倍音列上の4/5をそのまま採用します。これは、平均律の場合の「ミ」の高さである400セントよりかなり低い386セントになります。問題は「レ」の高さです。「ド―レ」および「レ―ミ」の音程はどちらも全音(長2度)なのですが、ここまで純正律で音を決めた結果、「ド」から「ミ」までの386セントの間に全音を2つ入れなければならないということになります。倍音列上の比率では、全音は10/9、182セントになります。この幅で2つの全音を並べると「ミ」の音は364セントになってしまいます。それで、「ド」と「レ」の方の全音を、ピタゴラス音律、つまり5度を2つ積み重ねてできる9度、オクターヴ+2度(全音)から割り出した204セントとしたのです。「レ」と「ミ」の間隔も同じ全音なのですが、こちらは倍音律上の比率10/9に当たる182セントになります。これで、204+182=386となり、「ミ」の高さが合います。しかしこれにより、平均律では常に同じ幅になる「全音(長2度)」に、「大全音」(204セント)と「小全音」(182セント)の2種類ができることになります。ちなみに、「ファ」と「ソ」の間隔も全音ですが、これは、それぞれの音高を倍音律に合わせた結果、702-498=204セントになり、やはり「大全音」です。 エクシメーノが「不協和音程を何故にこの同じ法則から引き出し得ないのか」と言っているのは、こういうことではないかと推測しているのですが、まだ不明なところがあります。それは、「また、音楽にとって非常に重要な二つの音程である長短六度の比( 3/5と5/8 )を得るために、なぜこの法則を適用し得ないのか」という主張です。確認してみたのですが、「純正律音階」に現れる長6度は5/3、884セントにちゃんとなっています。ですから、この点については何のことを言っているのかまだ理解できずにいます。 さて、この「純正律音階」というのは、一つの音の倍音列から導き出したものなので、そのもとになった音を基礎とする音階による音楽だけしか純正に響きません。「ド」を基本にした純正律で調律した鍵盤楽器だと、ハ長調の音階だけしか純正にならないのです。ハ長調でさえも、部分的には純正ではありません。例えば「レ―ラ」の間隔は「ド―ソ」と同じ「完全5度」なのですが、「純正律音階」上の「レ」は204セント、「ラ」は884セントなので、その間隔は680セントになり、純正な「完全5度」702セントよりも狭くなってしまいます。この「レ―ラ」の関係についても、エクシメーノ論文のドイツ語訳の中に書いてありましたので、こういうことを指摘しているのだと思います。こう考えてくると、エクシメーノが数と音楽の関係を否定する根拠は、あくまでも音高が固定されている鍵盤楽器にだけあるような気がするのです。一つの音をもとに固定した純正律音階では、矛盾が出て当然です。これは、各弦の高さを固定しなければいけない鍵盤楽器に限った不都合なので、ほかの場合は純正律に基づく縦の響きを作ることは可能なわけですし、なぜこれだけで数と音楽の関係を否定するのか、飛躍のし過ぎのような気がします。 ではもう一つの問題、「平均律」はどうかという話です。「平均律」は、どの高さの音階にもうまく適応できるように、各音の幅を人工的に均等割りしたものです。その結果、純正な響きは(オクターヴ以外には)全くなくなります。しかし、それを私たちは平気で使っています。それでエクシメーノはこう言うわけです。「もし数学的な音程比がそれほど重要であるのなら、何故に平均律によって修正された音階を用いなければならないのか。もしそうした比が本質的なものであるのなら、平均律に調弦された楽器の音から快感を得ることはできないだろう。」しかし、こういう見方もまた、科学者の過剰な潔癖さという感じがします。厳格に数学的に言えば誤差はありますが、人間の耳で聞いたときにその誤差がどれほどの意味を持つか、あるいは、その誤差があることで音はどのように聞こえるのか、という実際の聴覚的印象が問題になってきます。実際の音楽中の「うなり」というのは、ある程度訓練された聴覚には容易に聞き取れます。しかし、それはまず知識として「うなり」というものがあること、それはこういう風に聞こえる、ということを理解し、意識を集中して聞く訓練をすることで聞き取れるようになるレヴェルの話です。プロの音楽家にはそういう耳の良さが要求されますが、一般の聴衆は「うなり」などには気が付きません。というよりも、「うなり」というのは、たった2つの音が同時に演奏された場合に生じる場合は周期がはっきり認識できるので把握しやすいですが、実際の音楽では同時に3つ、4つ、5つという数の音が同時に鳴ります。そうなると、各音の間に別々の周期で「うなり」が現れ、もはや把握できなくなります。基本的には、一般の聴衆がこの「うなり」を無意識的に聞いた場合、「音が狂っている」とか「純正でない」とか「美しくない」などのようには聞かず、ただ「音色が少し違って聞こえる」だけだと思います。ですから、平均律上の「ドミソ」の和音が、厳密に純正律から見れば「濁っているはず」であるにもかかわらず「それなりに美しく」感じられるのは、自然の倍音列、数学的関係そのものではないとしても「それに近い」からであり、純正律と平均律の純粋に数学的な誤差だけを見て、いきなり数学と音楽は無関係、という結論を導くのは少し早すぎるともいえます。 (続きます)
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- Tastenkasten_
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(続き) 先ほど書いたように、「現代音楽は不協和音ばかりでつまらない」というような言い方をする人はたくさんいます。これは、正確に言うと、単に「不協和音」ということではなく、「不協和音程」が「どれだけたくさん含まれているか」「どれだけたくさんの不協和音程が同時に鳴るか」ということに関わってきます。20世紀ハンガリーを代表する作曲家、バルトークは、不協和音程を多用して激しい音のぶつかりを好んで書きました。今ではバルトークもすでに古典の仲間入りをして、コンサートの重要レパートリーになっています。次に御紹介する「弦楽四重奏曲第4番」なども、冒頭から複数の不協和音程の激しいぶつかりがあります。しかし、民族音楽風の旋律やリズムとの組み合わせで、土俗的なエネルギーを発します。音のぶつかりがきついことはすぐにお分かりになると思いますが、「理解不可能」とまではいかないと思います。 https://www.youtube.com/watch?v=E_XNfKk-Qbs 最後に、同じハンガリー出身で、現代の作曲家の中でも特に重要視されているジェルジ・リゲティの曲を引用しておきます。この人は、後年大きく作風が変わり、メロディーやリズムの効果を再び追求しましたが、初期には、狭い音程、つまり不協和音程の音を重層的に重ねて密集させた、「トーン・クラスター(音塊)」という技法の創始者のひとりとして有名になりました。「Lontano(遠くの、彼方の)」という作品があります。刻々と変化する重層的な響きの持続だけで構成されており、メロディーを認識するのは難しいですし、リズムもありません。普通にメロディー、ハーモニー、リズムのある曲だけしか聞きなれていない人には「理解できない現代音楽」のうちに入るかもしれませんが、不思議な雰囲気、そして時には、美しいと感じられる響きの瞬間があります。若いころに興味を持った曲ですが、最近はもう聞くことがありません。気が向いたらお聞きください。最近の若い作曲家のものよりは、目指すものや世界がはっきりしています。 https://www.youtube.com/watch?v=mZBQjhoVJaE 最後に、一つ書き忘れたことがあるので補足します。エクシメーノは、音律の微細な違いにこだわっていますが、これはやはり鍵盤楽器でしか問題にできないことです。御存じのように、ヴァイオリンでもフルートでも、また声楽でも、音に「ヴィブラート」をかけます。ヴィブラートというのは、音の高さを小刻みに上下させることですから、実際の音楽では、「純正」ということがそれほど大きな意味を持たないことは自明です。何人もの演奏者が、同時に複数の異なる音を演奏し、なおかつそれぞれ音にヴィブラートをかけたらどうなるのか(笑)。実際の音楽の演奏時に起きている音響現象はものすごく複雑で、もはや「うなり」がどうこうというレヴェルではないですね。
お礼
〔§ 9 おぎない〕 ○ 不協和音程と不協和音 のつづき (9-14) 「現代音楽は不協和音ばかりでつまらない」というような言い方をする人はたくさんいます。 ⇒ これは、正確に言うと、単に「不協和音」ということではなく、「不協和音程」が「どれだけたくさん含まれているか」「どれだけたくさんの不協和音程が同時に鳴るか」ということに関わってきます。 (9-15) バルトーク:「弦楽四重奏曲第4番」 Quatuor Ebène : Bela Bartok String quartet Nr. 4 C-major Sz 91 ★ 冒頭から複数の不協和音程の激しいぶつかりがあります。しかし、民族音楽風の旋律やリズムとの組み合わせで、土俗的なエネルギーを発します。音のぶつかりがきついことはすぐにお分かりになると思いますが、「理解不可能」とまではいかないと思います。 ☆ そのとおりに感じますね。マジャール特有なものが何であるかは分からないですが 《エネルギー》の問題であるように思われて来ます。そうして いわゆる分かりづらい現代音楽っぽい感じが感じられつつ まだ全部は移り切ってはいないように見えます。 (9-16) ジェルジ・リゲティ:「Lontano(遠くの、彼方の)」 (狭い音程、つまり不協和音程の音を重層的に重ねて密集させた、「トーン・クラスター(音塊)」という技法の創始者のひとり) ★ 刻々と変化する重層的な響きの持続だけで構成されており、メロディーを認識するのは難しいですし、リズムもありません。 ☆ これ 音楽ですね。3’20”あたりで音じたいが小さくなるところがあって それはどうしてかと思いましたが 音楽だと思って聞きました。《不安》から自由ですね。安定性があるように思えました。金属音をさらにやわらかくしてくれたらもっとよかったのにと。 § 10 エクシメーノ論の補遺 (10-1) エクシメーノは、音律の微細な違いにこだわっていますが、これはやはり鍵盤楽器でしか問題にできないことです。 御存じのように、ヴァイオリンでもフルートでも、また声楽でも、音に「ヴィブラート」をかけます。ヴィブラートというのは、音の高さを小刻みに上下させることですから、実際の音楽では、「純正」ということがそれほど大きな意味を持たないことは自明です。 何人もの演奏者が、同時に複数の異なる音を演奏し、なおかつそれぞれ音にヴィブラートをかけたらどうなるのか(笑)。実際の音楽の演奏時に起きている音響現象はものすごく複雑で、もはや「うなり」がどうこうというレヴェルではないですね。 ☆ 二つの音のあいだには 周波数の近接の度合いに応じてうなりが生じる。三つ以上の音のあいだでは どうなるか。見えざる手にゆだねられて行くのでしょうか。 今回もたいへん有意義なときをすごさせてもらいました。音の振動数をめぐってさ迷った感じもありましたが 音楽すなわち音楽美をめぐる音響のあり方について 分析する感覚もおもしろいように感じました。 もしあたらしい音楽があるとしたら それは どんなであるか。といったことを思ったりする楽しみも増えました。 さしづめ今は 心を閉ぢずにいろんな種類の音楽に開かれていることを目指します。ありがとうございます。
- Tastenkasten_
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>ひとつ素朴な質問です。要するに 不協和音っぽい音の組み合わせであっても うつくしく心地よく聞こえることはある。これを 実際の問題としているはずだ。と採ってよいでしょうか? これは大きな誤解があるようです。「不協和音」については、以前どこかでお話ししたような気もするのですが、よくわかりません。「音楽って何のためにあるの」のスレッドかとも思ったのですが、あの時の私の回答の量があまりにも多いので、自分でも読み返す気になりませんでした(笑)。 「不協和音」という言葉は、音楽以外のことの比喩にも使うようになり(たとえば、国際関係における「不協和音」のように)、否定的な意味とともに独り歩きしてしまっています。「現代音楽」が理解できない原因も、「不協和音」のせい、と表現する人が多いですね。しかし、これは正確な表現ではないのです。「不協和音」というのは、音楽理論上の和音の種別でしかなく、その言葉から受けるイメージのような、耳障りな汚い和音ということではありません。そして、エクシメーノがここで問題にしたのは、あくまでも「微妙な音程の差で生まれる濁り」という音響上の問題であって、「和音」という音楽上の問題ではないのです。つまり、純正律でないために起きる「うなり」は、「不協和音程」の2音間の親和性の低さよりはるかに細かい話なのです。しかし、一般の人はたぶんこの辺を混同しています。 まず、「不協和音程」と「不協和音」の区別がついていない人が多いと思います。「不協和音程」は、2つの音を同時に鳴らした場合の親和度が低く、衝突感がある音程を言います。自然倍音列は、上へ行くほど音の間隔が狭くなり、結果的にはあらゆる音程を含むのですが、この倍音列の中で早く出てくる音程ほど親和性が高いのです。「ド」と「レ」の重なりは「長2度(全音)」という音程で、9/8には出てきます。これと比べると、「短2度(半音)」の重なりの方が衝突感はきつくなります。しかし、純正律と平均律の間のずれの幅よりははるかに大きいのです。「不協和」の原因は、音律のずれで起きるような激しい「うなり」ではないということです。 「不協和音程」は「協和音程」に比べて緊張感が高く、古典的な西洋音楽では、「不協和音程は協和音程に解決する」という原則があります。緊張とその緩和が音楽を前に進ませ、動的、劇的なものにしますし、また終止感を出すことで、音楽の各部分の区切りがはっきりしますので、不協和音程→協和音程という図式は音楽のあらゆる部分にあります。「不協和音」は、「不協和音程」を含む、3つ以上の音の重なりです。3つ以上の音が組み合わさると、2音だけの「不協和音程」ほどぶつかりが生々しくないので、「これが協和音です、これが不協和音です」と言って聞き比べてもらったとしても、違いが判らない人が多いはずです。ですから、「不協和音っぽい音の組み合わせであっても うつくしく心地よく聞こえることはある」どころではなく、不協和音であるということだけでは、「美しくない」という印象は与えないということです。もちろん、時代の違いはあります。近代、現代の音楽は、不協和音であふれていますが、西洋の中世の人がこれを聞いたら、「不協和音ばかりで理解できない」と言うかもしれませんね。 これも、具体的に聞いていただいた方がよいでしょう。 「不協和音」が全く出てこない曲を探すのは難しいです。古いものならあるかもしれませんが、時間がかかりそうなので、不協和音がほとんど出てこない曲、比較的少ない曲から先に上げていきます。有名な曲ですが、パッヘルベルの「カノン」。曲が進むにつれて音の細かな装飾が出てくるので、その部分は純粋に「協和音」を聞きとるのは難しいですが、曲の骨組みになっている和音は、すべて協和音です。 https://www.youtube.com/watch?v=JvNQLJ1_HQ0 もう一つ、よく御存じのはずですが、グリーグの「ペール・ギュント」から「朝」。これは、曲が盛り上がっていくところで、不協和音→協和音の進行で音楽が進んでいきますが、朝の静かな印象を描写するためでしょうか、出だしなど、静かな部分は協和音が多くなっています。 https://www.youtube.com/watch?v=-rh8gMvzPw0 次にモーツァルトですが、以前教えてgoo!に、「アイネクライネナハトムジーク第1楽章 不協和音?」という質問が出たことがあります。この質問者も不協和音がなんだかわからないまま質問していたのですが、私の回答No.3で、音楽理論上「不協和音」に分類される和音がどれだけ頻繁に出てくるか書きました。 https://okwave.jp/qa/q8780602.html 始めから第25小節までの間だけでもずいぶんたくさん不協和音が出てくることがわかると思います。これは、下の動画の始まりから1分2秒までの部分です。「この中に不協和音があるの???」と思われるのではないかと思うのですが・・・ https://www.youtube.com/watch?v=CDNENgxTJuM 同じモーツァルトには、俗に「不協和音」と呼び習わされている「弦楽四重奏曲第19番」という作品があります。命名の理由は、曲の冒頭の前奏で、当時としてはあまりにも大胆な不協和音の連続があるからです。いろいろ論争があったのですが、作曲理論上は、ここでの音のぶつかりにはすべて根拠があります。下の動画の、始まりから1分49秒の個所までです。ワーグナーなどのロマン派を先取りするような、素晴らしい、考え抜かれた書法です。これだけ不協和音が続くと、雰囲気としては何か感じられると思いますが、いかがでしょう。 https://www.youtube.com/watch?v=6Zcy-zs9jmw ロマン派から近代へ掛けて、和音により豊かな色彩を求めるようになり、「ドミソ」などの3つの音だけの和音より、もっと多くの音を重ねた和音が使われるようになります。音が増えるということは、不協和音程が必ず含まれるようになるということです。理論上は「不協和音」と呼びますが、「美しくない」どころか、その反対のイメージさえ持つはずです、「色鮮やか」「不思議」「洒落ている」、など、豊かな世界ができます。ラヴェルの「水の戯れ」を聞いてみてください。水のキラキラしている感じ、波が起きて惑わされるような感じ、冷たさ、光の反射、水しぶき、いろいろなものが表現できます。 https://www.youtube.com/watch?v=2DhJr1m8Y80 映画音楽やジャズなら、ほとんど不協和音ばかりと言ってもいいような曲がたくさんあります。次の曲は、「シェルブールの雨傘」という有名な映画の音楽をヴァイオリンとオーケストラにアレンジしたものです。バックのオーケストラは、常に非常に凝った、複雑な「不協和音」を演奏していますが、これがいかに情感豊かな世界を表現しているかすぐお分かりになるでしょう。 https://www.youtube.com/watch?v=vQdOL5743q8 ジャズの例なら何でもよいのですが、2つだけ。 ビル・エヴァンス https://www.youtube.com/watch?v=7LvY-Bj85Us チック・コリアとゲーリー・バートンのデュオ(両方とも鍵盤楽器で「平均律」、そして「不協和音」たっぷりですよ) https://www.youtube.com/watch?v=khwF8v6voIE (続く)
お礼
ご回答をありがとうございます。先生 こんばんは。 § 9 むすびを超えて おぎなわれたもの ○ 《不協和音》をめぐって (9-1) そして、エクシメーノがここで問題にしたのは、あくまでも「微妙な音程の差で生まれる濁り」という音響上の問題であって、「和音」という音楽上の問題ではないのです。 つまり、純正律でないために起きる「うなり」は、「不協和音程」の2音間の親和性の低さよりはるかに細かい話なのです。しかし、一般の人はたぶんこの辺を混同しています。 ○ 「不協和音程」と「不協和音」の区別 (9-2) 「不協和音程」は、2つの音を同時に鳴らした場合の親和度が低く、衝突感がある音程を言います。 自然倍音列は、上へ行くほど音の間隔が狭くなり、結果的にはあらゆる音程を含むのですが、この倍音列の中で早く出てくる音程ほど親和性が高いのです。 「ド」と「レ」の重なりは「長2度(全音)」という音程で、9/8には出てきます。これと比べると、「短2度(半音)」の重なりの方が衝突感はきつくなります。 しかし、純正律と平均律の間のずれの幅よりははるかに大きいのです。 「不協和」の原因は、音律のずれで起きるような激しい「うなり」ではないということです。 (9-3) 「不協和音程」は「協和音程」に比べて緊張感が高く、古典的な西洋音楽では、「不協和音程は協和音程に解決する」という原則があります。 緊張とその緩和が音楽を前に進ませ、動的、劇的なものにしますし、また終止感を出すことで、音楽の各部分の区切りがはっきりしますので、不協和音程→協和音程という図式は音楽のあらゆる部分にあります。 (9-4) 「不協和音」は、「不協和音程」を含む、3つ以上の音の重なりです。 3つ以上の音が組み合わさると、2音だけの「不協和音程」ほどぶつかりが生々しくないので、「これが協和音です、これが不協和音です」と言って聞き比べてもらったとしても、違いが判らない人が多いはずです。 ですから、「不協和音っぽい音の組み合わせであっても うつくしく心地よく聞こえることはある」どころではなく、不協和音であるということだけでは、「美しくない」という印象は与えないということです。 もちろん、時代の違いはあります。近代、現代の音楽は、不協和音であふれていますが、西洋の中世の人がこれを聞いたら、「不協和音ばかりで理解できない」と言うかもしれませんね。 ☆ けっきょくぜんぶを引用しています。レジュメにならなくて 閲覧のみなさん すみません。 ○ 不協和音の有る無しをめぐる作品例 (9-5) 不協和音がほとんど出てこない曲、比較的少ない曲から先に上げていきます。有名な曲ですが、パッヘルベルの「カノン」。 (9-6) グリーグの「ペール・ギュント」から「朝」。 (9-7) アイネ・クライネ・ナハトムジークの第1楽章の最初の方だけ説明すると、不協和音の場所は次の通りです。 第6小節 全部 第8小節 全部 第9小節 第2拍目、第4拍目 第10小節 第2拍目 第12小節 前半 第13小節 第3拍 第16小節 前半 第17小節 後半 第22小節 後半 第23小節 後半 第25小節 全部 ☆ 実際に曲を聞くと 《「この中に不協和音があるの???」》になってしまう。とほほ。 (9-9) 俗に「不協和音」と呼び習わされている「弦楽四重奏曲第19番」。 ☆ 《 Mozart - String Quartet No. 19 in C major, K. 465 'Dissonance' - I. Adagio - Allegro 》 ってなるんですね。 ★ これだけ不協和音が続くと、雰囲気としては何か感じられると思いますが、いかがでしょう。 ☆ 《何か》どころか 《不安定な感じで いくらか不安を掻き立てられたりまたは不吉な感じをも呼び起こされます。 ★ 作曲理論上は、ここでの音のぶつかりにはすべて根拠があります。 ☆ ですかぁ。そのあと あかるい調子に変わっていくことに間違いないようですが。 (9-10) ラヴェルの「水の戯れ」を聞いてみてください。水のキラキラしている感じ、波が起きて惑わされるような感じ、冷たさ、光の反射、水しぶき、いろいろなものが表現できます。 ☆ これは 不安も不吉もないですね。 (9-11) 「シェルブールの雨傘」という有名な映画の音楽をヴァイオリンとオーケストラにアレンジしたもの ☆ これは 映画を見ました。《豊かすぎる》ほど情感を感じると思います。カトリーヌ・ドヌーヴの印象も交じっていましょうか。(こりゃあ だめだ)。 (9-12) ジャズ。ビル・エヴァンス:Sunday at the Village Vanguard (Not Now Music) (9-13) チック・コリアとゲーリー・バートンのデュオ(両方とも鍵盤楽器で「平均律」、そして「不協和音」たっぷりですよ):Jazzwoche Burghausen 2011 ☆ おかしなことに〔なのだと思いますが〕わたしの場合 次の三つの曲が ほどよくうつくしく心地よい感じに聞こえて来ます。 ・パッヘルベルの「カノン」 ・グリーグの「ペール・ギュント」から「朝」 ・チック・コリアとゲーリー・バートンのデュオ 〔これについて 平均律がどうだというのは さすが分からなかったです〕。 ☆ 不協和音程が三つ以上重なった不協和音は さすがにそれと分かる場合と ほとんど分からなくなっている場合が わたしの耳にはあるようです。
- Tastenkasten_
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(続き) ここでちょっと、実際にどう聞こえるかを試してみましょう。先ほど、音楽中の「うなり」は意識して聞かないと気が付かないと言いましたが、楽器の音ではなく純音を使い、同音を少しずつずらしていった場合に生じるうなりは、誰でもすぐに聞き取れます。まず下の動画ですが、ドイツのハイデルベルク大学のものです。冒頭から聞こえる音は、440ヘルツの「ラ」の音です。オーケストラなどで最初に楽器のチューニングをするときの音です。動画開始から44秒の個所で、2つ目のスピーカーを持ってきますが、これは440ヘルツより低い音です(具体的に何ヘルツかは言っていません)。その途端、「ワンワンワン」という「うなり」が始まります。グラフで視覚的にもわかるので、すぐに聞きとれるはずです。動画開始から1分11秒の個所で、右側のスピーカーから出ている音の高さを左側のスピーカーの音に近づけていきます。「うなり」がだんだん少なくなっていくのがわかるでしょう。 https://www.youtube.com/watch?v=vWg6H7G8HBM もう一つ別の動画ですが、同時に鳴る二つの音の振動数の差が1ヘルツだと、1秒あたり1回の「うなり」が聞こえ、2ヘルツなら2回、3ヘルツなら3回、というように90ヘルツまで聞くことができます。 https://www.youtube.com/watch?v=6OnW-Cw2x48 以上二つは、同音をずらしていっているのでわかりやすいですが、和音になると難しくなります。下の動画では、平均律と純正律の聞き比べをやっています。もう一つ、平均律と純正律の中間のような「キルンベルガー」という音律も取り上げていますが、これはとりあえず気になさらないで飛ばしてください。画面に説明が出るので、解説は書きません。「ド・ミ・ソ・ド」の4つの音の和音を、それぞれの音律で聞き比べます。違いが判るでしょうか。「うなり」は、前の2つの動画のように簡単には聞き取れません。 https://www.youtube.com/watch?v=YQPtX6jo_yI 下の動画では、平均律で和音を鳴らし、純正律に少しずつ修正していきます。「うなり」が聞き取れなくても、響きの変化は少しわかると思います。 https://www.youtube.com/watch?v=oI5xf6dub8E どうでしょうか。注意して聞いていけば、差がだんだんわかるようになるとは思いますが、「この程度?」というのが正直な感想ではないでしょうか。 純正律は、音楽の一瞬だけを切り取って、縦の響きの調和度を高めるためには重要な考え方ですが、横方向の変化が加わると、あちこちで矛盾が生じます。音程の問題は非常に複雑です。オーケストラや室内楽では、一つの和音が比較的長くなりっぱなしになる箇所では、注意深く純正律に近づけた方が響きはきれいです。しかし、音楽の中には数えきれないほどの違う種類の和音が次から次へと連なるわけで、それらをみな純正に合わせることは不可能です。それに、近代、現代の音楽では、和音一つ一つが複雑で、同時に5つ、6つ、7つの音が鳴りますから、そういう意味でも不可能です。一つの和音が鳴る時間が短ければ「うなり」も感じられなくなります。近似値で十分、ということがほとんどでしょう。 純正律に意味がないわけでもなく、また、平均律でも多少音色が違うと感じる程度なので、和音の美しさというのは、「一応」自然の理に適っているといえます。ただ、これはあくまでも響きの美しさ、音響美にすぎません。音響美=音楽美ではありませんから、エクシメーノが自身の考察から数と音楽の関係を否定し、数学的秩序は音楽美とは関係がないという結論を出し、いきなり音楽起源論に飛んだのはおかしな話です。ハーモニーに限って言うならば、音楽美の原因になっているのは、それぞれの和音の響きが音響的に純正であるかどうかではなく、さまざまな種類の和音の使い分け、性格の対比という動的な変化による効果で聴衆の感情に訴えるからです。ほかにも、メロディーの美しさや、リズムの快感もあるわけですが、これらは純正律という音響的秩序とは別のことです。メロディーやリズムの快感を、自然界の何かと関連付けることは難しいと思います。リズムに関しては、等間隔で刻まれるビートが快感を覚えさせるということはあり、心臓の鼓動のように、自然の周期的なリズムと結びつけて考えられないこともありませんが、等間隔の拍節に寄らない音楽というのもたくさんあるわけですし、わざとそういう拍節を解体することで、瞑想的、神秘的な美が生まれることだってあります。 少し視点を変えてみると、音楽の美しさを考えるとき、作品そのものの美しさだけだけでなく、演奏の美しさというものもあると思います。美しくない演奏はどういうものか、という逆方向からの発想で考えると、やはり音程が狂っているのは興ざめですし、下手に聞こえます。そう考えると、音響的に正しい響きがやはりある程度は影響すると言えるでしょう。音楽美全体を自然の音響の数学的秩序に関連づけることは無理ですが、その一部ではあると言えるかもしれません。しかし、これもちょっと条件付きです。今言ったことは西洋音楽にのみ有効なことです。非西洋のいろいろな民族の音楽を聞いていくと、純正律などという理論からは考えられないような音階を使っているものがあります。ガムラン音楽では、その「うなり」が重要だと言いますが、ほかにもいくらでもあります。日本の伝統音楽もそうで、たとえば雅楽で篳篥と竜笛がオクターヴ離れた音域で同じ旋律を吹くとき、両者の間で音高が大きくずれ、衝突するところがあります。この衝突を「音色」として楽しんだのではないかと思います。能で使う笛、能管の調律も、西洋的な感覚から言ったら、めちゃくちゃに狂っているといえます。 美というのは多様であり、美的価値観も相対的なものです。ある民族にとって美しくないものに、ほかの民族が美を見い出すという例はいくらでもあります。そういう意味では、「音楽美学」というのは、音楽の数だけ、極論すると音楽作品の数だけ存在するとも言えます。この世のすべての音楽を包括的に見て「音楽美とは何か」という問いは、想像を絶する難題です。 その他、参考URL 音程(ドイツ語) https://de.wikipedia.org/wiki/Intervall_(Musik)#Tabelle_von_Intervallen 純正律の矛盾と平均律 http://eatnaan.seesaa.net/article/380379991.html 純正律音階(英語) http://ray.tomes.biz/alex.htm
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§ 6 《うなり》 (6-1) 二音の振動数の差によって生じる。純音のばあい 割り合い聞き取りやすい。 (6-2) 《同時に鳴る二つの音の振動数の差が1ヘルツだと、1秒あたり1回の「うなり」が聞こえ、2ヘルツなら2回、3ヘルツなら3回》聞こえる。 (6-3) 和音ではどうか? 平均律や純正律等々でそれぞれ 振動数の差におうじてウナリが消えたり生じたりする。 § 7 音響美と音楽美 要約がわたしにはむつかしいので 閲覧しておられるみなさんには 文章全部を参照していただきたいと思います。 (7-1) 純正律に意味がないわけでもなく、また、平均律でも多少音色が違うと感じる程度なので、和音の美しさというのは、「一応」自然の理に適っているといえます。ただ、これはあくまでも響きの美しさ、音響美にすぎません。音響美=音楽美ではありません。 (7-2) ハーモニーに限って言うならば、音楽美の原因になっているのは、それぞれの和音の響きが音響的に純正であるかどうかではなく、 (あ) さまざまな種類の和音の使い分け、性格の対比という動的な変化による効果 で聴衆の感情に訴えるからです。ほかにも、 (い) メロディーの美しさや、リズムの快感 もあるわけですが、これらは純正律という音響的秩序とは別のことです。 (7-3) メロディーやリズムの快感を、自然界の何かと関連付けることは難しいと思います。 (7-4) リズムに関しては、等間隔で刻まれるビートが快感を覚えさせるということはあり、心臓の鼓動のように、自然の周期的なリズムと結びつけて考えられないこともありませんが、 (う) 等間隔の拍節に寄らない音楽というのもたくさんある わけですし、 (え) わざとそういう拍節を解体することで、瞑想的、神秘的な美が生まれる ことだってあります。 (7-5) 音楽の美しさを考えるとき、作品そのものの美しさだけだけでなく、演奏の美しさというものもあると思います。美しくない演奏はどういうものか、という逆方向からの発想で考えると、やはり音程が狂っているのは興ざめですし、下手に聞こえます。 (7-6) そう考えると、音響的に正しい響きがやはりある程度は影響すると言えるでしょう。音楽美全体を自然の音響の数学的秩序に関連づけることは無理ですが、その一部ではあると言えるかもしれません。 (7-7) しかし、これもちょっと条件付きです。今言ったことは西洋音楽にのみ有効なことです。 (7-8) 非西洋のいろいろな民族の音楽を聞いていくと、純正律などという理論からは考えられないような音階を使っているものがあります。 (え) ガムラン音楽では、その「うなり」が重要だと言いますが、ほかにもいくらでもあります。 (お) 日本の伝統音楽もそうで、たとえば雅楽で篳篥と竜笛がオクターヴ離れた音域で同じ旋律を吹くとき、両者の間で音高が大きくずれ、衝突するところがあります。この衝突を「音色」として楽しんだのではないかと思います。能で使う笛、能管の調律も、西洋的な感覚から言ったら、めちゃくちゃに狂っているといえます。 § 8 むすび (8-1) 美というのは多様であり、美的価値観も相対的なものです。ある民族にとって美しくないものに、ほかの民族が美を見い出すという例はいくらでもあります。 (8-2) そういう意味では、「音楽美学」というのは、音楽の数だけ、極論すると音楽作品の数だけ存在するとも言えます。 (8-3) この世のすべての音楽を包括的に見て「音楽美とは何か」という問いは、想像を絶する難題です。 ☆ たいへんありがとうございます。 感触としましては 音楽とは 音響美を それだけとしてかまたはそれと音響不美とともにか そして音律のあり方をまでふさわしく選びつつ あらゆる発想において加工し構成して うつくしい音色や響きや調べを引き出すか でしょうか。しかるべく何でもありでしょうか。
- sirasak
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再回答です。 ほとんどの音の倍音は1/1 1/2 1/3 1/4・・・・で出ているのでこの音で出せば合うのです。 ユニゾンで同一音程で歌う場合は完全にハーモニーし、 男声と女性とでは1オクターブ違うのでこの場合もハーモニーしますが、 3度の音などでハーモニーしたりすると複雑・乱雑な和音になるのが物理、数学でわかります。 平均律が倍音列に近い音程であり、移調ができるのでピアノなど電子楽器にも採用されていますが、 音程比そのものではないのではなく複雑なハーモニーしているし、実際に音程がぴったり合っているでしょうか? 楽器類は純正律でハーモニーできるものが多いので複雑怪奇で音楽が作られても、 人はそれが心地よく思ったりしている。 音階を理解するのに参考になると思いましたが、本題とずれたのをお許し下さい。 数学、物理、音楽などなんでも真理を追究すれば同じことと言いたかったのです。
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ご回答をありがとうございます。 漕ぎ出した船で行けるところまで行きますが 要は――エクシメーノが言おうとするところは―― わづかの比の法則の破れがあるのだから 決して数学的・物理的とは言えないのではないか? つまり 音楽美としては 数学の法則に依存しているとは言えないのではないか? だと思うのですが その点 いかがでしょう。 ★ 3度の音などでハーモニーしたりすると複雑・乱雑な和音になるのが物理、数学でわかります。 ☆ 複雑系だか非線形だか知りませんが そういった高度な数学〔の明らかにする命題〕にのっとって 音楽は出来ているし その美の感覚もそこから来るのだというご見解でしょうか? あっ。あとでご回答のあり方について明らかにしてくださいました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 音階を理解するのに参考になると思いましたが、本題とずれたのをお許し下さい。 数学、物理、音楽などなんでも真理を追究すれば同じことと言いたかったのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 承けたまわりました。 数学も物理も 未知の分野についてそれまでの方法よりさらにあたらしい方法で世界を知るようになるものと確かに思います。そういう意味で 将来は音楽美についてもさらに明らかになるかも分かりません。 そういう展望になりましょうね。解決には到らないわけですが。(わたしには 暫定的な回答もありませんので)。(なんとなく 自然が音楽美にもよみがえるといいなとは思っています)。
- sirasak
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音を出すと倍音列が出ます。 例えばドの音を出すとド、ソ、ド、ミ、ソ、bシ、ド、レ、ミ・・・・・の音が出ています。 倍数が少ない部分では分数倍で説明できますが、倍数が多いところではとても説明できない多彩の音が出ています。ソロなら問題ないのです。 伴奏が入るとハーモニー問題が出てくるので、 純正律→ピタゴラス率→平均律と進歩していて、平均律では完全ハーモニーしないが多少濁る音が今は好まれるとされています。 音楽を理解すると、物理も数学も同じであることが分かります。
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ご回答をありがとうございます。 エクシメーノの論点で【う】や【え】は クリアされているのでしょうか。 ★ 音楽を理解すると、物理も数学も同じであることが分かります。 ☆ たぶん振動比ないし音程比が使われていて 使われている範囲で《ほとんど全部》がその比は《ほとんど一定(平均的)》であるのだと思います。 そのとき ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 伴奏が入るとハーモニー問題が出てくるので、 純正律→ピタゴラス率→平均律と進歩していて、平均律では完全ハーモニーしないが多少濁る音が今は好まれるとされています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というところも 《数学》的であるということでしょうか? つまり 複雑・乱雑であっても 数学的ということでしょうか? あるいは 平均律じたいが 音程比そのものではないのではないかと思ったりします。 少々不確かな議論になっています。その点 あらかじめおわびします。
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たすてん先生 こんばんは。ご回答をありがとうございます。 § 1 主題について ★ 自然の音響現象に由来する数と音楽に関係があるか、その数が音楽美の根拠となり得るのか、 ☆ プラスいくらかの主題があるということ。: ★ エクシメーノが言っていることはかなり込み入った問題なので、そう簡単にはいかなそうです。 ☆ 分かりました。聴講態勢に入ります。 § 2 ベニテズのこのエクシメーノ論には 重要な議論が言わばまだ隠されてしまっていること ★ たとえば、「音楽に不可欠な不協和音程を何故にこの同じ法則から引き出し得ないのか」 ★ 平均律で調律されたピアノの場合は別として、音高が変えられる弦楽器や管楽器の組み合わせで不協和音程を演奏する場合、純正律でイントネーションを調節できるのですが、なぜ「引き出し得ない」としているのか、 ★ ハーモニーとしての純正律、つまり縦方向の響きの調和を得るために適用される自然倍音列上の比率と、「純正律音階」、つまり横方向の音の並びを決めるときの倍音の用い方が異なるためであることがわかりました。 ☆ この説明が よく言えば論考では端折ってあるということ。 (2-1) ハーモニーとしての純正律、つまり縦方向の響きの調和を得るために適用される自然倍音列上の比率: ・ 基音を「ド」とした場合、「レ」の高さは、その倍音列上に現れる「レ」をもとに計算すると、10/9になります。 ・ 「ド」と「レ」を同時に鳴らす場合は、この比率で音程を取れば調和します。 (2-2) 「純正律音階」、つまり横方向の音の並びを決めるときの倍音の用い方: (=ピタゴラスの音階をガリレイの父親が修正したものらしい) ・ ところが、「純正律音階」上の「レ」の音は、10/9ではなく、9/8になっています。 よって ★ エクシメーノが「不協和音程を何故にこの同じ法則から引き出し得ないのか」と言っているのはこういうこと、つまり「純正律音階」の「レ」はなぜ10/9を採用しないか(できないか)、というようなことを言っているのではないかと推測しています。 § 3 音律――§ 2の事例の詳細―― (3-1) 調律ではセントという単位を使うのが一般的で、1オクターヴは1200セント (3-2) 「平均律」の場合は、各音の間隔を全部同じに分割するので、半音の間隔は100セント、全音の間隔は200セント (3-3) 「ド」と「ソ」の「完全5度」の音程(ド・レ・ミ・ファ・ソと数えるので5度)は700セント(全音+全音+半音+全音=200+200+100+200=700) (3-4) 純正律の場合、「ド」の音の上に発生する倍音列に含まれる「ソ」の音の振動数比率は2/3ですが、これだと「ド」と「ソ」の間隔は702セントになり、平均律より少し広くなる。 (3-5) 702セントの間隔で「ド」と「ソ」を同時に鳴らした場合、響きは純正になり、うなりは生じない。 (3-6) 鍵盤楽器以外の楽器による演奏では、このイントネーションは使用できる。 (3-7) 「純正律音階」を作るときも、「ソ」はこの702セントを採用する。 (3-8) 次に「ファ」の高さ[・・・] これは「ファ」と、その上の「ド」の間隔が、下の「ド」と「ソ」の間隔と同じ「完全5度」なので、上の「ド」から逆算して、1200-702=498セントにする。平均律上の「ファ」、500セントより少し低くなる。 (3-9) 「ミ」の高さは、「ド」の倍音列上の4/5をそのまま採用する。これは、平均律の場合の「ミ」の高さである400セントよりかなり低い386セントになる。 (3-10) 問題は「レ」の高さ。「ド―レ」および「レ―ミ」の音程はどちらも全音(長2度)なのですが、ここまで純正律で音を決めた結果、「ド」から「ミ」までの386セントの間に全音を2つ入れなければならないということになる。倍音列上の比率では、全音は10/9、182セントになる。この幅で2つの全音を並べると「ミ」の音は364セントになってしまう。それで、「ド」と「レ」の方の全音を、ピタゴラス音律、つまり5度を2つ積み重ねてできる9度、オクターヴ+2度(全音)から割り出した204セントとした。 (3-11) 「レ」と「ミ」の間隔も同じ全音なのですが、こちらは倍音律上の比率10/9に当たる182セントになる。これで、204+182=386となり、「ミ」の高さが合う。 (3-12) しかしこれにより、平均律では常に同じ幅になる「全音(長2度)」に、「大全音」(204セント)と「小全音」(182セント)の2種類ができることになる。 (3-13) ちなみに、「ファ」と「ソ」の間隔も全音ですが、これは、それぞれの音高を倍音律に合わせた結果、702-498=204セントになり、やはり「大全音」です。 そうしてこれらの詳細の上にさらに複雑・微妙なところがある。: (3-14) エクシメーノが「不協和音程を何故にこの同じ法則から引き出し得ないのか」と言っているのは、こういうことではないかと推測しているのですが、まだ不明なところがあります。 (3-15) それは、「また、音楽にとって非常に重要な二つの音程である長短六度の比( 3/5と5/8 )を得るために、なぜこの法則を適用し得ないのか」という主張です。確認してみたのですが、「純正律音階」に現れる長6度は5/3、884セントにちゃんとなっています。ですから、この点については何のことを言っているのかまだ理解できずにいます。 § 4 エクシメーノが数と音楽の関係を否定する根拠は、あくまでも音高が固定されている鍵盤楽器にだけあるような気がすること ★ さて、この「純正律音階」というのは、一つの音の倍音列から導き出したものなので、そのもとになった音を基礎とする音階による音楽だけしか純正に響きません。[・・・このパラグラフの全体を参照・・・] § 5 平均律についても 数と音楽の関係をエクシメーノはあまりにも機械的に評価つまり批判しているのではないか ★ 「平均律」は、どの高さの音階にもうまく適応できるように、各音の幅を人工的に均等割りしたものです。その結果、純正な響きは(オクターヴ以外には)全くなくなります。しかし、それを私たちは平気で使っています。 ★ 厳格に数学的に言えば誤差はありますが、人間の耳で聞いたときにその誤差がどれほどの意味を持つか、あるいは、その誤差があることで音はどのように聞こえるのか、という実際の聴覚的印象が問題になってきます。 ★ 実際の音楽では同時に3つ、4つ、5つという数の音が同時に鳴ります。そうなると、各音の間に別々の周期で「うなり」が現れ、もはや把握できなくなります。 ★ 平均律上の「ドミソ」の和音が、厳密に純正律から見れば「濁っているはず」であるにもかかわらず「それなりに美しく」感じられるのは、自然の倍音列、数学的関係そのものではないとしても「それに近い」から ☆ ひとつ素朴な質問です。要するに 不協和音っぽい音の組み合わせであっても うつくしく心地よく聞こえることはある。これを 実際の問題としているはずだ。と採ってよいでしょうか?