何をもって「現象論」と言うかを理解することは「物理学とは何か」を理解する上で本質的です。
物理学を他のあらゆる学問から区別しているのは、この学問だけにある独特な世界観によります。それは、
「この宇宙のなかで起こっている現象は、全て一つの『基本法則』あるいは『基本原理」と言うもので統一的に理解できる」
という、言わば神懸かりにも近い世界観です。物理教と言っても良いくらいです。
したがって物理学では,単に目の前に起こっている現象を合理的に説明できただけでは満足できません。その現象が基本法則とどうつながっているかまで理解できなくてはなりません。そしてこの認識の違いが、物理学者を工学者とは違った存在にしているのです。例えば近代の先端科学であるナノ・テクノロジーが対象にする現象は、工学部の電子工学でも、物理学の物性論でも同じように研究しています。しかし工学者の目的はそれで世の役に立つものを作ろうというところにありますから、その現象が量的に分析できるようになり、その理論的な予測が実験とあえは十分で、それが物理学の基本原理とどうつながっているかは、余り重要ではありません。一方,物理学者はそれでは満足できないのです。
さて、その視点から理学者や工学者が現象を説明しようとする場合の一つの方法論に「現象論」というのがあります。例えばある実験事実が確立されており、その事実は正しいだろうと認められているものがあったとします。ただし、その実験事実がまだ、どう物理学の基本法則から導き出されるかは判っていないとします。その場合、その実験事実を正しいものだという仮説から出発して、それから先の論理的あるは数学的整合性を論じて行く方法論が「現象論」です。
現象論の具体的な例には、流体力学があります。物理や工学でこれを教わると、その現象の記述に高度な数学が使われており、立派な論理体形ができているので、どうしてこれが現象論なのか判らない「物理学者」もときどき見かけます。
でもよく考えてみて下さい。現在では空気も水も皆、分子という粒子の集まりでできていることが判っています。流体と呼ばれている物は決して連続体ではありません。ところが、流体力学はこの世に連続体ありき、という仮説なり前提から出来上がっています。ですから流体力学は、たとへそれがニュートンの運動方程式を使ったり、量子力学を使って論じていようが、「物理学の基本原理」とは相容れません。
しかし、流体力学の成果は現実の世界の記述に大変役に立っていることも事実です。というこは、このような現実には有り得ない連続体の概念を使っても、うまく行く物理的な根拠がどこかにあるはずだ、それを明らかにしようと言うのが物理学者の態度です。工学者は、現実に物作りで流体力学的予測がうまく行かないことを確認するまでは、そんな物理学者の物の見方にはなかなか興味を持たないものです。
この流体力学の例では、物理学者は分子運動論というものを考え、先ず分子という不連続体が従う運動方程式を物理学の基本方程式から導き出します。そして我々の観測している量の空間的な変化が、長さのスケールで分子間の平均距離(もっと正確には、平均自由行程)よりも十分長い領域でゆっくり変化している量を見ることに限ると、その分子の集合があたかも連続体として扱っても良い近似が得られることを示します。その結果、その近似の範囲以内では流体力学が物理の基本法則から正当化されるたわけです。そしてそのように説明された場合、物理学者はそれを「現象論的に説明された」とは言わず、「基本法則に基づいて微視的に説明された」と言います。
現象論である流体力学が成り立たなくなる例は、空間的な変化が分子間程度で起こってるような現象です。例えばショック・ウエーブが起こっている場合です。この場合は、流体力学による予測は実験とはあわず、気体分子運動論を使って説明する必要があります。
繰り返しますが、物理学とは単にこの自然界の現象を合理的に説明しようとする以上の、神懸かった、まあ芸術的ともいえる学問なのです。面白い学問でしょう。
補足
回答ありがとうございました。 私は実験家です。ある実験事実を理論的に説明したい場合、現象論的なアプローチを足がかりとして、物理学の基本法則によって説明できれば深い理解と言えるのでしょうか?「現象論的な説明」の先の、より深いところに「物理学の基本法則に基づいた説明」があると理解したのですが?