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自由意志について
自由に論じてください。 ウィキペディアの《自由意志》です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%84%8F%E5%BF%97 わたしは 責任との関係および神学との関係に関心があります。 たとえば こうです。約束をしたとき それを果たせなかったとします。事情を説明し――多少の償いをしつつ―― 詫びて治まると思いますが ここには 自由意志がからんでいるのではないでしょうか。意志の自由な選択によって 約束をしたのであるからには それを違えたことについて 何らかの責任が発生するという具合いです。 一般に表現の自由を言うからには その言動責任ないし文章責任が生じていると考えられるのだと思いますが いかがでしょうか。つまり 自由意志が ほんとうに存在するか否か これは 分からないかも知れないのだけれど 社会的な取り決めとして 上のような事態にかんして 自由意志はあると想定されていると考えるのですが そのあたりについて 自由な見解をおしえてください。
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bragelone様 ここ2日程あまりに忙しなく投稿出来ずに居りました。投稿が遅くなり大変失礼致しました。また、 bragelone様のHNも意味を履き違え誠にお恥ずかしい限りです(大汗)、どうぞお許し下さい。それでは今回も宜しくお願い申し上げます。 > 一点 こう感じたところがあります。つまり 【(肉体は)死んでも(魂は)死んでない】の《体験・認識・感得》につきましては これまでお伺いした限りでは けっきょく 行きっぱなしではないだろうかと。 むろんその実践じたいがよくないというものでは毛頭なく 往きと還りがあるという記憶を思い起こしたのですが。 わたしのかつて習ったところでは 往相・還相があって たとえ彼岸に実際に到達していないとしても あたかも一たん達したとして そこから還ってくる・還って来たという姿(還相)でさらに修行に励むのであるし また 人にも接するのでもあるというふうに覚えているのですが いかがでしょうか。 ○まず「行きっぱなしではないだろうか」につきまして、「彼岸」への片道切符的(笑)感覚で捉えられているとしたら、それは全くもって私の本望ではありません。振り返りますに、これまでの投稿はどちらかと言うと【「個」と「全」の構造認識(「関係性の側面⇔独立性の側面」の双方向性を含有する大宇宙である自分自身)】に対する「認識論」的内容が濃かったと思います。誤解を恐れず申し上げれば、 bragelone様は「大乗的衆生救済」無くてして何の悟りか?!…と仰せではないかと思います。私は過去の投稿(> 理解不能な自分を愛する事が総てを愛する事に繋がります。それが「自分が良くなる為に人を良くする」(抹香臭く申せば所謂「自利利他」)に発展して来ると思います。… / bonnnou03 )で申しました通り、この現実世界に於いて自分の映し絵である現象を整える事(例:困っている人への人助け 及び 導き)は恐らく bragelone様の仰る「往相・還相」と近い、若しくは ほぼ同意ではないか?…と思います。私が知る言葉としては「 上求菩提 下化衆生 」がこれにあたります。論点が自由意志に始まる「意識の構造認識(略)」から「現実世界の処し方」にシフトするのであればそのように致しますし、私が申しました「肉体を全うする」は当然 bragelone様の仰る「往相・還相」を包摂するものとお考え頂いて結構でございます。 > 気概の現われを抑えることができないという限りで この信仰は わたしが選んで持ったのではなく 与えられたものであるということになります。そこから 《人間(現実)が変わる》という表現をも得てしまったという事情です。 ○『信仰』に付きましては個々人の自由だと思いますので、他人様の『信仰』に対し とやかく口を出す筋合い物ではないと思いますが、先日来の私の投稿で「信じる」(…「信じる」と言う打算的期待で自己を成り立たせなければ成らなくなります… 等々 )と言う語句の見解が遠因してご不快な思いをさせてしまっているようであれば、恐らく誤解であり 伏してお詫び申し上げます。本意は盲目的に「信じる(信じすぎる)」と言う行為から「依存症」や「マインドコントロール」を生み、結果 人の心を「自己喪失」状態に追いやり人生の歩みを阻害するのを憎むものであります。決して純粋な信仰(心)を揶揄したものではありません。どうぞご理解頂きとうございます。 > 焦点は結びました。このわたしの法螺吹きが 法螺吹きでどうもすみませんと言わなければならないというのは 往相還相の問題が 唯識にはないという場合だということになりますが いかがでしょうか。 ○「法螺吹き」について …完全な誤解です。自らの不徳の致すところです。この箇所【 …常に自らの体験を持って語る事を旨として参りたいと思いますし、そうでなければただの大法螺吹きになってしまいます。… 】は私 bonnnou03 自身の投稿にあたっての決意として挿入した文言でした。それ以上の文意はありませんし、私には bragelone様を「法螺吹き」呼ばわりする理由が毛頭見当たりません。どうぞご理解頂きまして、お許し願えればと思います。 また『往相還相』については上述の通りです。因みに『唯識』も仏教の中の学問としてある以上「 上求菩提 下化衆生 」の一面を離れないと思いますが、(意識の)上下間の双方向性の説明は『大乗起信論』(ちとマイナーですが!)がより詳しいと思います。内容はさほど理解が深くないため割愛します(失礼)。 > これは 大乗であるべきか 上座部のままにとどまるべきかという主題にもなるのでしょうか。 ○いいえ、そうは思いません。この場合、私は「密教(特に真言密教)」を提示させて頂きます。この理由については様々在るのですが、大きくは2つです。1つはこの身このまま仏になる『即身成仏』(≠「即身仏」入滅してミイラになる)(参考:多くの大乗仏教では悟りまでに大変時間の掛かる「三劫成仏」と言われています)と『現世利益』の【(結果を出す)実践哲学】と言う事。もう1つは教義の面で亜細亜に於ける【統合宗教】(儒教・道教・上座部・大乗・バラモン教・ヒンドゥー教・ゾロアスター教・インド哲学…等々を包含している。想像ですが恐らく「景教」= キリスト教 の影響も受けていると思われます)であると言う事からです。 > 面白いとも思われることは 信仰〔なる賭け〕による希望派が あくまでこの《いま・ここ》に立っていて 前世・来世を気にしていないことであり それに対するに 修行による希望派は 逆に 《【(肉体は)死んでも(魂は)死んでない】》といった表現も持たれてくるということのように感じられる。 ○【(仮に)信仰〔なる賭け〕による希望派】が『前世・来世』をどのように捉えているか?についての統計は恐らく「無い」と思いますので、コメント控えさせて頂きます。他方【修行による希望派】に付きましては、一先ず… 決して「乱暴な賭けではない」と申し添えておきます。 以上です。 最後までお読み下さり、ありがとうございます。あくまで私の認識(体験)に基づく投稿です。徒然なる文面です。お役に立てればと思いますが、ご参考程度にされてください。どうぞご自愛下さい。
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>約束を明らかにするとき ほんとうにそう意志して決めている のか もしそうなら 答責性(あとで答えることができること) を持って決断したのか これが曖昧であり 曖昧であったなら 元も子もないと思われるからです。 人の心は移ろいやすい。ということがあるので、約束した人が真 剣な気持ちで律儀な人であっても、飽きることは比熱と時間の問 題ですからね。 飽きることは変化したということ、変化したということは成長と か多方に向くことにも成功した、思い入れの期間を充分に堪能し 後悔がないという証拠。つまり、デートに誘っている期間は飽き てはいなくて、すっぽかしたのは賢明ゆえ飽きた。ということも あります? 一旦飽きたら新たな境地に向かうのが普通で、飽きてないので約 束どうりにデートするにしても、心変わりは意志にお構いなく起 きることで、一旦飽きられたら謝罪を求めたり、修復しようとす るのが悪いとは思いませんが、約束をとり付ける時の誠実な気持 ちよりも人間の真価が顕著になるのは別れ方にあると思います。 つまり出会ったら別れられる可能性はセットとして納得しなけれ ばならない。互い幸せの為に…。 責任の所在と自由意志は別れる時に。 約束した時点にあるのは身体と時間の見積もり?予定調和な請求書?? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >《正当化というより欺瞞(自信のなさの裏返し)》等々と触れ ておられる事柄なのですが なぜずばり《意志の自由な選択》 が問題だと言うことにならないのでしょうか。 責任を持つべき人は主人、上司、飼い主。餌もやらずに共感する 部下も現れません。自由意志で民に尊ばれることを望みながら、 自分だけ幸せな裸の王様というのが欺瞞してるんですよね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >問題は 自由意志の肯定か否定かであるよりも 意志を果たし て日本人が持っているのか・発揮しているのかにあるように思 います。 これだけ世界中の情報が入る時代で価値観は多様化してますから、 意志ある日本人も翻弄しますよ。 法然さんという昔の高僧は「善人が一番悪い」といいました。 絶対正しいという前提で「悪を成敗する!絶対勝つ!」のが善で しょうか?善悪の明確な判断が出来るなんてのが稀であったり、 異常な気もします。大善人の前では修羅場が広がりますね。日本 人は曖昧だとしても曖昧が嫌いな国もあって国の優劣とも無関係 だと私は思いますよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >世の中は 成るように成るということでしょうか。 私は世の中のこと以前に、自分すらどのように成るか解らない。
お礼
やはり日本社会の習慣というものが横たわっていますね。慣習法として判断の基準になるくらいですから 尊ぶもしくは従う必要もあるようです。 しつこい質問にも 答えていただきありがとうございます。 理論どおりには行かないということでもあるようです。 心変わりの場合は 何の問題もありません。すっぽかした理由が それであれば 別れるという意思表示になるわけですから 意志の自由な選択を為し しかもそれを――暗黙の内にですが――伝えたことになります。(察してくれというのも 慣習による取り決めです)。 刑事が粗探しをし徹底的に疑う場合に似て こういう事例が考えられます。 少々あるいはかなり飽きているのだけれど 自分からは まだ それを言わない。別れを切り出すのは 自分からは しない。こういう態度の場合です。 つまり 意志による選択・判断をしない。したがって意思表示を行なわない。相手がどう出るか すべてこれに従うという姿勢でいる。自分に都合のいいかたちであれば 別れるのも ふたたび付き合うのも どちらでもよい。こういう態度です。 すなわち 自分は 《「善人が一番悪い」》と見なされるその善人にはならず 相手にその善人の役を押し付ける。このような賢いやり方です。 さらにすなわち 意思表示をしないのだから そこに責任は生じないという立ち場です。繰り返しですが 意思表示をする善人役を 相手に押しつける。あるいは 相手の世間知らずぶりに任せて うまく相手に意思表示をさせる。 こういう賢い自由意志の使い方もあるようです。 この慣習に従っている人は 公的に発言をしたり文章を書いたりしても――つまりそのように はっきり表明しているという場合でも―― 意思表示ないし意志決定をするのは 自分ではなく相手(皆さん)のほうだと思いこんでいるのでしょうか 責任ということに関して どこ吹く風であるように見受けられます。 これは 自由意志という観点から見て お化けの世界です。人間の世界なのでしょうが お化けです。といったことを 天邪鬼のわたしは――もちろん ほんとうにそう(天邪鬼)だとは思っていませんが―― 感じています。言っても詮ないことでしょうか。(もう充分 おつきあいくださっていますので お答えはいいですよ)。
ANo.12です。補足ありがとうございます。 まず、時間的に先行して、信頼関係を築く権利を放棄したのはす っぽかした方で、裏切られたと愛想尽かすに至った相手も罪があ って、罪の責任(自分で理解できるものでなくても)をとれ安定 した関係を新たに築くことに出来るということですよね。だから 自由意志と思います。 それでも信じていたいというのも人情で自由ですが、信じること は疑うべきを疑わないで、裏切られても「信じてやっている」と いう正当化というより欺瞞(自信のなさの裏返し)ですよ。責任 をとる自信がないのだからそれは真面目な意志の態度とはいえず、 妥当でもないでしょう。 妥当でもないにも関わらず、自由意志によりまだ信じるのならそ こにいい思索があってなのか、無知故なのかのどちらかに成ると 思います。 哲学的に真面目な態度は信じ切らず、常に改善や次善策を用意し て落胆しないことでしょうか。けれど、自由意志で「私は良い人 間か」と自分さえ疑う。良い人間に「自分さえ良ければ」という 発想もないはずで、相手を不完全な人間であることを認め合える 関係こそ、完全な信頼関係を持てているともいえますよね。
補足
なにやら変な質問でしたが これにもお答えいただきありがとうございます。 たとえば――結構 変であって―― 次のご見解(一般的だと思われます)にも異議を唱えているわけでした。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「表現の自由」については、どんな見解も自由にしてしまっては 改善もなにもなくなってしまいそうですが、ある程度の不自由に 甘えることで有意義な自由が得られることも確かですよね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 事例のほうは 行動を含む自己表現というように拡大してもいますが つまりは 《ある程度の不自由に甘える(あるいは 甘んじる)こと》を放棄する事例であったわけです。すっぽかされ信頼関係を切られたという不自由に甘んじようとはしない人間のようです。 たしかに 事情や手続きを省いていますので 当然おっしゃるように《罪の責任(自分で理解できるものでなくても)をとれ安定した関係を新たに築くこと〔が〕出来るということですよね》というふうになると まづは わたしも思います。 そうすると 鍵は 二人のあいだで どのように和解が成り立ったかになるはづです。《自由意志で「私は良い人間か」と自分さえ疑う》者どうしが どのように改めて信頼を育てようと踏み出すに到ったか。 《相手を〔互いに〕不完全な人間である・・・と・・・認め合える》ことは 過去の破綻を どのように乗り越えて そう出来るのかです。つまり具体的には 自分も含めて 人間は 過去の事例を克服できるものだと思ってのり越えようとするのか。 それとも 《良い人間に「自分さえ良ければ」という発想もないはず》なのだが 少し悪い人間であって この《自分さえ良ければ》という発想で二股を堂々とかけたとした場合 たとえそうだとしても この事実をも あたかも飲み込んで 再出発に向かうのか。 《哲学的に真面目な態度は 〔相手を・他者を・あるいは自分をも含めた人間一般を〕信じ切らず、常に改善や次善策を用意して落胆しないことでしょうか》という正解を超えて――正解を超えて――さらに ここで 鍵は 自由意志ということだと思ったのでした。 改善策を施そうにも 相手が――というより わたしの感覚では 日本人の相手がと言ったほうがよいと思うのですが―― 約束を明らかにするとき ほんとうにそう意志して決めているのか もしそうなら 答責性(あとで答えることができること)を持って決断したのか これが曖昧であり 曖昧であったなら 元も子もないと思われるからです。 そしてこれも 《正当化というより欺瞞(自信のなさの裏返し)》等々と触れておられる事柄なのですが なぜずばり《意志の自由な選択》が問題だと言うことにならないのでしょうか。 というこだわりなのですが 変ですか。――答責性も 言葉の上で つじつまが合えば済むと思われていないでしょうか。 もし万が一そのような状態にあるとすれば 問題は 自由意志の肯定か否定かであるよりも 意志を果たして日本人が持っているのか・発揮しているのかにあるように思います。否定説の場合も 否定したままで よいのかどうかを考えていないように思われます。それとも 世の中は 成るように成るということでしょうか。
いずれは誰もが死にますといっても、願いや理想を描き、達成感 とか充実感を求めて生きているのが人間で、自分から進んで不毛 な罪人になりたいとか狂人になろうとするのは自由意志の選択か らは外してしまいます。 「自由意志は、より自己の安全や正当化を計る為に自己責任で執行される」 例えば、何も無いところで不意に殺意を抱くことがあってもそれ を実行するのは自己の正当化になりにくいので自由意志ではなく、 「どうかしていた」となります。 でも不当な暴力にあったり、人権を侵害されたら、善人が報復し ても正当防衛だし、加害者に極刑という悪意を抱き望むのは犯罪 を抑制するための自由意志の表明になります。 自由と責任について 責任というものも人間が発明した概念で、自然の恒常性と違う。 自然じゃないことは不自然といいますが、人の不自然な事情とい うのは生命というより、人権が危険な状態にあると思います。 人権が危うい時、人間に出来ることは人権を放棄して大人しく服 従か、危険を承知で人権を取り戻そうと反撃する以外にない。 その為に人らしく生きたいと望みながら「人であるな」というメ ッセージを受けた場合、自由意志は報復にしか見出せないものに なってしかりと思います。 「表現の自由」については、どんな見解も自由にしてしまっては 改善もなにもなくなってしまいそうですが、ある程度の不自由に 甘えることで有意義な自由が得られることも確かですよね。 ウィキペディアも拝見しつつ、でも、さっぱりでした。私には難 しい質問で、責任についても取り違えているかもしれません。 (自由意志により言い訳してます)的ハズレなものだったらすみ ません;。
補足
ご回答をありがとうございます。 穏当なご意見だと思います。 わたしなどは 考えの発端は まるで単純です。デートの約束を破ることは そしてまた その言いわけに嘘をつくことは ゆるされるのかです。もっと切実には 二股をかけることは 自由として妥当だと言えるのか。 miko-desiさんの述べられたこととの関連で幅を広げて捉えますが たとえば表現の自由というとき 一般にデートに遅れたり行けなかったりすることからの互いにとっての不自由は 大きく言って いまの表現の自由を逸脱していないと思うのです。理由を言ったり謝ったりで済むはづです。 ですが もう一人の相手とデートするために すっぽかした場合 これは 意志の自由な選択と言えるのかというのが 問題なのでした。互いに信頼関係を育み 広く社会としても信頼関係のもとに 表現の自由を享受していこうとするときに 相容れない意志――つまり特定の二人として私的な信頼関係を築こうとする意志を 別々に同時に行なうという自己表現―― これは 自由だろうか そもそも意志だろうかという疑問です。 もっとも これは――このように広く解釈した場合 miko-desiさんの・そして一般の考え方から離れるかも知れないのですが―― すっぽかされた側は 簡単に言えば 相手を棄てればいいと思われます。つまり すでに その相手は 一人のほうを・その意志を 捨てているという事態だと思われ その確認をするだけだという意味です。もしこうだとすれば そこまでは 責任が生じているし その責任は そもそも 自由意志の発現のときに(約束の時点で) 織り込み済みであったものと考えられます。 はたして この自己の正当化は 妥当でしょうか。 途中から 事情や手続きを端折ってしまいましたので このような質問形式になりました。 逆に このままのかたちで 応えさせていただこうかと思います。ご回答の趣旨から逸れたように見えるかも分かりませんが 表現の自由は 人権のことですので ほかの内容とも関連すると思ったりします。
- shift-2007
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たぶん、我々が普段使っている”自由”とは選択のことを言うんじゃないでしょうか。 そして、意志とは”選択者”と置き換えることが出来るでしょうか。 選択者にとって選択すべき物がなければ自由は無く、故にその結果は選択者の意志によるものではないので責任は発生しないと言えるかもしれません。 自由意志という言葉は”自由”と”意志”で出来ていますが、意志から自由をとったら何が残るか考えてみると、本能、反射、生体反応・・・意志とはいえないように思います。つまり、そもそも意志には自由でが含まれていることが絶対条件と思われます。
補足
shift-2007さん ごもっともです。反論はありません。 選択可能性 また 自由なしに意志とは言えないこと 一つひとつ おっしゃるとおりだと思います。 じゃあ 何を血迷ってほざいているのか。――ここからは ちょっと へその曲がった人間の考えることです。単純に言って DNAですべては決まるという説も出ていますし あるいは環境と情況とで 選択肢さえ決まってくる ゆえに心あるいは意志などないという説があります。これらと議論するうえでは 一方で 相手の考え方に立って捉えなければならないでしょうし 他方で こちらの考えから 主観の部分はすべて取り除いて話をしなければならないと考えます。 (この自由意志の源泉と言いましょうか 主観のさらに内部の探究も もちろんあって こちらの議論も すでにご覧のように そして ありがたいことに いただいております)。 わたしが 質問の趣旨として 《自由意志はあるかどうか決められないが あると想定して 社会生活を営んでいくことになるのではないか》といったことを述べたからでしょうか 自由意志の否定説の回答を いまのところ 受け取っていません。いづれにしましても その否定説からの批判を想定して――つまりあるいは どちらの説についても なおすべてを疑うことから始めて―― 質問を設定しました。 昨日 NHK・BSで 《イスラムの新しい風》と題して パレスチナ・ヨルダン西岸のとある村でのイスラエルに対する抵抗運動を ドキュメンタリで報じていました。ビルインという名の村ですが ここも 例のイスラエル治安のためという名目で アラブとの間に 壁が作らつつあります。これに対して 村人がこぞって 非暴力で何年も抵抗をつづけているということでした。 ガンディーばりの運動を 前線の軍隊(小部隊)と張り合って 傷を受けながらも 土地を守ろうとして闘う(話合いを要求する)姿を イスラエルの報道者が 一年越しでカメラに収めたものでした。 つまり 選択肢が見られます。選択肢はあります。そして意志も自由です。 いろんなかたちで わたしたちは 知恵を尽くし知識を尽くし力を尽くし心を尽くして 自己表現を推し進めていかなければならないように思います。 shift-2007さん 力強い肯定説をありがとうございます。 (このように 言論の上で敵を想定することが わたしのいけないところでしょうか。性分なのでしょうか。それでも 穏やかに語るように 自分ながら なったと思うのですが)。
ご回答ありがとうございます。 こうして知り合えた事が喜ばしいです。 またしてもとりとめも無く書いてみます。 「愛」について、実感が希薄な現在は一冊の本を仕上げるような強い確信が無いので思考の断片であり、考えるヒント程度のものとお考えください。 >意識していることが いいのか それとも 意識することは必要ないのか 明らかに不要です。 健康な無意識(愛情)が、悪意を説得するために使った知識の無意識外への情報流出事故です。 鬼神の声を聞いたソクラテスと同様のことだと思ってください。 はっきり言って当方のはらんでいた悪意(煩悩)は、そこまでとことん還元して説得してもまだ居座っている有史以来最低にして前代未聞の恥さらしです。 >観想と行為との理性的な(理想の)結婚 この感覚でいいと思います。 唯識からのアプローチは、この結婚が一番後回しになる自己の救済法です。 結果は「真実の知性を自覚する」ことになっていますが、何もかもが愛情に基づいていることを自覚するのみで、後はバランスの取れた知性が身に付くといった感じです。 ただし、数学的才能はそれによって開花するのかもしれません。 >・・・信仰(つまり 無根拠のなにものかを受け容れる)が必要であり・・・・ 主観的存在を見つけるという意味では、健全な信仰心がまっすぐ歩む道しるべになります。 平均的な日本人は信仰心の無意識外への情報流出事故は抑圧することが出来、ゆえに一見無宗教のようにも見えますが、仏教文化の加護の下、健全な調和の精神を持っています。 >愛は意志のことでもあります。 このように捉えることが出来れば、それほどの迷いも無いでしょう。 回答内容について 当初私の持っていた愛情はもっと利他的なもので、その結果自分不在の感覚に悩みました。 それから他者からの依存を感じることが多くこれでも悩みました。 >《自分と同じように》 このバランスは丁度良いです。 「求める愛」は、偽物の愛情ですからその点を克服されているのでしょう。 >その愛の中味はと訊かれるなら ・・・ このお手伝いをする感覚の愛情は現在の当方の実情でもありまして共通しています。 幸運を読み取れる当方は現在職場で招き猫のような立場です。 >愛とは 愛することではなく 愛させることである これは本来は正反対なのですが、健康な無意識が主観的存在であるあなた自身を、「その本質が愛情である」(優しさではなく)と、正しく認識していることを示しています。 この認識は悪意を説得する鬼神の声です。愛を正しく認識して欲しいという祈りの情報流出事故です。 本来はただ愛することだけが愛であり、見返りはありません。 アガペーを頂点とする西洋の愛に対する認識はそのまま人間性の階段でもあります。 真実の愛に目覚めた人(ただ知っているだけでなく)は、最も人間らしい人間であり要するに仏です。 >関係を断つこと 一言で言えば、あなた自身と無意識の子供たちの「絆」のことです。 「絆」は大切な言葉なので当方の情報流出事故の観察結果を書くよりもご自分なりの解釈を暖めたほうが良いでしょう。 最後になりますが >水の洗礼を受けていないキリスト者 この感覚はかつて当方にもありました。 愛こそが真実であると簡潔に明言した宗教は他にありません。 ただし真実の愛(アガペー)のほかにそれと似ても似つかない偽物があるように、信仰心にすら偽物があります。その結果当方にとってキリスト教的知識は遠回りになりました。 特に原罪の濡れ衣には注意してください。生きていくことに罪は無く天からふりそそぐ愛情を教授できるのが本当です。
お礼
たいへんありがとうございます。 ひっぱりだこの方なら こうやって質問攻めに会うのも ふつうのことと受け取っていただけるかなと 少し安堵してしまいました。 わたしは いまだに 煙たがられるほうです。 まったくと言っていいほど おっしゃるように 《当初私の持っていた愛情はもっと〔わたしの場合 いやに意識的なかたちで〕利他的なもので、その結果自分不在の感覚に悩みました。/ それから他者からの依存を感じることが多くこれでも悩みました。》というようなことがあり そこからは すでに長い年月が経っていて 少しは吹っ切れていると 我ながら 思っていますが たぶん 《直情径行》のような性格がわざわいしているのだと思います。 また 《情報流出事故》といった側面があるのかもわかりません。 と何はさておき 感じました。 《原罪の濡れ衣には注意》とおっしゃったこと これは 一たん全身でキリスト信仰に入りましたので エレミヤ書31:31以降の段落で《もはや主を知れと言っておしえることはない。胸の内に備えられている》(要約)と読んで 解放されたと思っています。 No.9に戻りますが 《実は脳を制御する大脳皮質の無意識は主観的存在を間接的にしか認識しておらず無意識にとってはあなた自身が不在なのです。》 ――このほうが かえって 行為に及ぶときには よいかも知れないと思いました。それは たしかに《この絆の希薄さがいろいろな迷いを生みます。》という事情にかかわってくるのでしょうが 反面では 無我説というのでしょうか たとえ《自己還帰 / 自己到来》というときにも その自己にこだわることもなく進んでいけるのではないかというように感じました。 そんなこんなです。 数学は 文系としては悪くなかったのですが なにしろ〔そういう世代だと思うのですが〕集合すら習わなかったのですから 最近では フラクタルだのカントールだのと 読書していても 困りものです。 またお会いしましょう。 あっ そうでした 自由意志の問題でした。無の境地から 不自然に意識することなく 愛の意志(あるいは むしろ 無意志でしょうか)を生きていければよいと思います。多謝です。
心のこもったご返答ありがとうございます。 当方と哲学の接点は仏教の唯識ですがこれに習ってもう少し取り留めの無いお話をさせていただきます。 >不在なものの現在として 《すでに約束された現在なのだ》と言い替えるかとも思います。 これはすばらしい直感です。 実は脳を制御する大脳皮質の無意識は主観的存在を間接的にしか認識しておらず無意識にとってはあなた自身が不在なのです。 この絆の希薄さがいろいろな迷いを生みます。 私事ですが、当方が無の境地に至る最後の仕上げは、生命の原動力が必然的に「愛」であることを実感し、無意識の隠された自分と強い絆を結ぶことです。 煩悩がどうとかはもはや無関係なお題目になっています。
補足
重ねてのご回答をありがとうございます。 仏教そして唯識ですか。わたしは大昔に 親鸞・日蓮それに中村元また一時注目された批判仏教の袴田憲昭――たしか かれには《唯識論》の著書もありましたね――などを読みました。 三身常住から(これが はっきり捉えられないまま) 何気なしに――ただし 一方では 西欧の精神を知りたいがために―― 三位一体論を勉強しようと思い アウグスティヌスのそれを読んで 以来 水の洗礼を受けていないキリスト者(つまり ただ自称するのみです)となりました。 《不在なものの現在》は 例の《永遠の現在》の問題です。もう少し具体的には 《真理が すべてにおいて すべてである》状態だと思います。(観想の報酬として得られるもので ただし まだ アウグスティヌスの言葉を盗んで規定しているだけに近いわけですが)。 無意識の構造は 知りませんでした。しかも身体組織の問題なのですか。なかなか 面白いですね。つまり どうなのでしょう? この大脳皮質の無意識のことを知って しかも意識していることが いいのか それとも 意識することは必要ないのか・・・。あるいは このことは 科学による知識と連れ立って(もしくは 科学知識がなくても) 無の境地にあって 無意識のうちに 大体のことは分かってくるというものなのか・・・。 迷いの原因が そんなところにあるとするなら ますます 人にとっては 信仰(つまり 無根拠のなにものかを受け容れる)が必要であり それがあれば足りるとさえ 思われて来ます。 《無の境地に至る最後の仕上げは、生命の原動力が必然的に「愛」であることを実感し、無意識の隠された自分と強い絆を結ぶことです。》 ――ますます 興味が涌いてきますね。わたしの身につけた感覚では 観想と行為との理性的な(理想の)結婚ともいうべき生き方です。そういうふうに表現します。そして この結婚の結果は その後の過程で そのつどに応じて表現を得てゆくという具合いです。 そこで あえてお尋ねしてみようと思いました。《愛》が 行為と――生活日常において―― どのようにつながるのか これについてどう捉えていらっしゃるのか 是非お聞きしてみたいという衝動が涌いてきました。また 実際 わたしにとって 愛は意志のことでもあります。 先になりますが わたしの表現では いま現在 次のようになっています。このgooで回答したものです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《愛する》というとき わたしの場合は 《自分と同じように》という条件をつけています。 これは 一方で 意識の上では そうするということでもあるし また他方では それ以上の内容をもって他人を愛することは出来ないと考えていることを意味してもいます。 抽象的ですが この原則で おおむね足りると思っています。 その愛の中味はと訊かれるなら たとえば《相手が その持てる力を十二分に発揮できるように もし何かこちらに出来ることがあると思った場合に そう提案しつつ お力添えをしてみる》ことです。 さらに別様に 抽象的な定義が じつはあります。 愛とは 愛することではなく 愛させることである。人に普遍的なちからであると思われる生命(存在・存続)を愛するように 話を持ってゆくことです。 乱暴に言っていますが それ以上に おわかりのように まぼろしであるかも知れません。主観の問題だという意味です。 ***** 人と人とのかかわり つまり 人間関係 これを 愛として おおきくは定義するとよいでしょう。 そこには 好意・愛情もあれば 嫌悪・憎悪をも含みます。 関係を断つこと つまり切れる・しかと(と言うんでしょうか) あるいは 無関心 これは 愛の範疇から外れることで 死を意味します。(精神=身体の死です。いつ滅びるかは わたしたちが分かるようには 決まっていません)。 特に 理性にあたう限りのことで重要だと考えられることは 関係に衝突が起こり 亀裂が走ったとき どこまでもどこまでも 話し合いで これの解決を図ることです。民主主義とも呼ばれます。とことん それこそ無限に 話し合いを敢行します。死んでも話し合いです。特には これが 大枠の愛の中で 中核の愛だと思われます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ なにか いやーな事態に巻き込もうとしているかと心配ですが 思い切って このようにお返しさせていただこうと思います。
不勉強な門外漢ですがウィキペディアを読んでみました。 難しいことはともかく理解しえた事を書かせてください。 ちなみの当方は自分の好きなときに好きな時間だけ何も考えないで頭を真っ白に出来る「自由意志」を持っています。 これは仏の慈愛に満ちた無の境地とは違って、自らの存在そのものに喜びを感じるだけの単なる無心です。 まだ心には煩悩が残っていますがそれを完全に制御しています。 副産物として未来予知めいたことも出来、ラプラスの悪魔の項目を読んで、なんとなく当てはまるので苦笑いをしました。 犯罪者が犯罪を犯す自由意志は、自らの心に本心とは裏腹な心の動きが生じたときに自己の同一性に亀裂が入り(自分が自分であることを失う、神を見失うという意味でもある)破綻することを回避するために、本心と裏腹な心の動きを、良心に背く衝動として行動を起こす原動力に還元したためです。(心の中から排除した) 危機の緊急回避でありますが、これはあくまでも本心(良心の合意の元)に基づいた自由意志です。 実際に犯罪を起こした人物の良心は責任を自覚可能で、自殺めいた悲壮な決心ですが、自らのはらんだ煩悩に対する審判でもあります。 重大な犯罪を犯せば死刑を覚悟します。良心はその責任から逃れようとは思いません。 良心と対立する悪意は、欲望と握手してさえも支離滅裂で理解不能であり、損得の計算が出来てさえも破滅的な選択を誘発します。(合理性が無い) マイナス感情と一言で言えば、そんなもんだと判り易いでしょう。 葛藤の結果の一見妥協めいた結論も責任の明白な自由意志です。 神との関係で言えば明らかに天授の運命に逆らっています。 ただしちょっとした寄り道で、魂の救済と言う約束された未来から遠ざかることはありません。
補足
深い観想にもとづく鋭く暖かい洞察をお寄せいただきました。ありがとうございます。 天授の運命に逆らった一時の脱線も 《ただし〔それは〕ちょっとした寄り道で〔あって〕、魂の救済と言う約束された未来から遠ざかることはありません。》――この締めもよろしいですね。畏れ入りました。 もしわたしが いまも残る対抗心を出しゃばらすならば 不在なものの現在として 《すでに約束された現在なのだ》と言い替えるかとも思います。(業がふかいですね)。 でも すでに《魂の救済》と明言されています。この種の発言は もろに主観的なのが いいのだと思います。 《自分の好きなときに好きな時間だけ何も考えないで頭を真っ白に出来る》との由。これを《「自由意志」》と捉えるのも 宣(むべ・うべ)なるかなと存じます。この場合は 表現の妙だけでいいかと思ってです。(現実に 自由意志が発揮できているとは 誰も考えていないという情況にあってのことですから)。 いまはもっぱら自転車に乗っていますが 一昔前には わたしも 二時間くらい郊外へ歩きに行っていました。無目的に目標地も無しに歩いていました。頭の中を真っ白にするというわざではなかったですが。 (まっ白にするというようには あまり考えていませんでした。無心は 案外 そうだと思います。ただしまた 煩悩という問題は あまり頭の中になかったです。未来予知も 残念ながら ありません)。 おっしゃるように 《自己の同一性に亀裂が入》る問題 あるいは その前に《自己の同一性に》帰るという主題 これが 鍵となるかと思います。《自分が自分である》という表現では 一般に考えている人が多いと思いますが 《わたしが わたしする》という表現では――おそらく 個人プレーだと思ってしまうからでしょうか―― ピンと来ない人が多いとも思われます。 ということは 自由意志の問題が顔を出しているかと思うのです。わたしたちは 幼い頃から 自己の意志のありかといったことは あまり話題としては触れないで育ってきたようです。 言いかえると 《本心とは裏腹な心の動き》 これに対して――おそらく 世の中の動き 特には有名人の言動に 影響を受けると 単純にわたしは 考えているのですが その影響を受けて 《本心とは裏腹な心の動き》が生じると これに対して―― それも 我が意志の自由の範囲だと錯覚してしまうのでしょうか。 あるいは 自己の意志のありかに自信のない場合に 人びとは その不安と恐れから わざわざ想像力を発揮して その自由の範囲を拡大してしまう。本心から逸れたとの感覚を残しつつも 想像を繰り広げる自由さに喜びさえ感じ ついにそれは 自己の能力の増強であり行動範囲の拡大であるのだと思いこんでしまうのかも知れません。 そして 心を鬼にして言えば 有名人の中には そのような《危機》にはまり 《危機》を自覚しつつも この《危機の緊急回避》のためにはむしろこの《危機》を起こした不本意の心を 《良心に背く衝動として行動を起こす原動力に還元した》とさえ見受けられる人びとも 多いように思います。開き直りなのでしょうか。(《記憶にない》という答弁は それとして論理的な説明になっているから厄介です)。 等々 エトセトラエトセトラ。(放談の無体のこと 堪忍のほどを)。 《ラプラスの悪魔》については このお礼を書くにあたって まだ勉強しませんでした。あしからずお願い致します。
kaitara1です。ごめんなさいというのはほとんど文字通りなかったことにしてくれという意味ですからやはり時間をさかのぼって歴史を変えてくれ、あるいは変えたいという表明だと思います。 実は宇宙が全体的には不可逆の変化をしているのに対してごく部分的に時間を戻しているのが肉体としての生物でその中で頭の中でさらに時間を逆に廻せる(頭の中だけのはなしです!)のが人間です。これが自由意志の本態だと思います。死んだ人は決して自由意志をもてません。たとえ強力な遺言をしても。
お礼
ご回答ありがとうございます。 多分 《時間をさかのぼって歴史を変えてくれ》というのは ごめんなさいというときの 済まなさを表わしているのではないでしょうか。 ただし そのあとで むつかしいことを述べておられます。 《ごく部分的に時間を戻しているのが肉体としての生物 《頭の中でさらに時間を逆に廻せる(頭の中だけのはなしです!)》 単純なわたしは 上の済まなさから さらに 償おう・何か出来るところで取り戻せるものなら取り戻そうとする努力であるように思うのですが なにかそのような新しい説が出ているのでしょうか。 それ以上のことは いまわたしには分かりかねています。気持ちとして なるほど自由意志の現われとして そういうこともあるように思いましたが。
- fishbowl66
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今日は、またまた、難しい問題ですね。 私の場合、社会有機体説に近い考えがあって、自由に関しても、若干特異な理解の仕方なのですが、今回は一般論かつ、神学抜きのパターンでしか、書けそうもありません。 自由に関しては、まず基本に、意志の自律ということが問題ですが、そもそも、その意志自体が、価値観の多様化の中で、大いに揺らいでいるのが現状のようです。市場経済の弱肉強食の世界を、マスコミを通じて、毎日垂れ流されていれば、意志自体が、社会の影響をまったく受けないということは、少々考えられないのではないでしょうか。 こうした状況では、意志の自律と言えども、多様な価値観の中で、其の都度、可能な選択を繰り返しつつ、自分自身に、少し言い訳をするぐらいのところでしょうか、何しろ自分を騙すのは簡単なようで。 結局、意志も、価値観そのものが多様化して、根拠になりにくい状況では、「仮言命法」的に、取り合えず、自分の曖昧な価値観からして、たいした負担もなく、できる事なら、自由な選択として一定の行為を選ぶことができるのでしょう。 ただ、ご質問には、若干、自由と義務を同様に議論してしまう雰囲気があるように見受けられますが、義務には、価値観だけでなく、自分の能力が関係すると思います。殺伐とした事件の中で、犯行時の精神状態から責任能力が取りざたされます。ですから、能力を無視して、できないことを義務責任として扱うのは、私としては、価値観の押し付けや、パターナリズム以上に、控えたほうかよいのではと、思っています。 なにを自由と考えるかも、自由なんでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 困難であるけれど 意志の自由にもとづいて生きるという姿勢を示しておられると受け取りましたが これまででは 決定論というのでしょうか 自由意志を否定する立ち場が あまりないようです。 むつかしいご議論です。《意志の自律 / 価値観 / 義務 / 判断のないし責任の能力》 これらをしっかりと頭に入れて読み解こうとしています。 義務の問題は たしかにわたしは 普遍的な義務であると言おうとしていました。考えてみると 責任能力がないと分かった場合には 分かった時点で 義務から解放されるという処し方を含んでいたと思うのですが それでは いけませんか。まだ 行き過ぎでしょうか。 《社会有機体説》との関連がよく読み取れなかったのですが おっしゃっていることは 自由意志にもとづき なんとかして細い狭い道をとおってでも――そして そのなんとかすることは 是が非でも 人間の人間たる存在において 実現させるのだという強い・それこそ意志が感じられたのですが―― この世の中において前へ進むということのように思われたのですが? 一言でいえば たのもしいと。なぜなら それでしたら すでに 責任は はじめの行動において織り込み済みだと思われますから。
kaitara1ですがここで言っている責任というのは不可逆的歴史を変更しようという試みのように思います。もし歴史を変えられるならば変えたいということで実は自由意志というのは時間をさかのぼることではないかと思います。下種の後知恵といういささか響きの悪いことわざがあります。又時間ではありませんが岡目八目というのもあります。又一般的には評論家的とか結果論といういいかたなどなど。すべて歴史を変更することと関係しています。学歴詐称などもその典型です。自由意志の本質がここにも顔を覗かせています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 《自由意志というのは時間をさかのぼることではないか》――なるほどと思いました。責任をうんぬんするという場合には そのような内容を伴なっているようです。 ただし 《不可逆的歴史を変更しようという試み》ではないと思います。というのは 責任を取ると言っても ごめんなさいで済むわけですから。 むしろ 責任を取らない・取ろうとしない側が 自分の行なった発言などとの矛盾を突かれて なんとか言葉を並べて その《不可逆的歴史を変更しようと・・・試み》るのではないかと見られます。 大筋で理解させていただいたのですが 自由意志を想定する立ち場にもよくない側面があるかに響いたものですから 上のように解釈してみました。いかがでしょうか。
補足
bonnnou03さん――時々気づきましたが この《さん付け》でとおして来てしまいました;根ががらっぱちですので 《さま》はわたしには似合いません;あしからずこれも伏してご海容のほどをお願い致したいと存じます―― 盆と正月が一緒にやって来たようです。たいへんありがとうございます。内容も これまでどおりに 納得させていただきます。 かくなる上は 勝手ながら わたし自身の問題意識にもとづいて 今後の進む方向を確認させていただければと考えました。 少し振り返ろうとしましたならば まづ 結局 わたしは――自分では 決して気が短くはなく 長いけれども 遅くもなく早いのだと・早過ぎるのだということからだと思うのですが―― 価値観からの禁欲という文章上のエチケットを 早くも 破ってしまうという事情があったのだと思います。 ですけれども 禁欲は 欲望と言いますか 端折って言いますが 恩恵もしくはダルマに従ったあとの自由意志の発現・これとしての《欲望》 があるというのも 前提になっています。《関係性の側面》だとも理解します。誰かの言葉で 《関係の絶対性》であるかと。 ですから 途中で勝手に この信仰告白に移ってしまったのがいけないと反省致します。 そこで今後の課題ですが おっしゃるところの《即身成仏》 これが鍵言葉になると存じます。わたくしの解釈では 《あくまで 永遠の現在というべき〈いま・ここ〉に立って生きる。(前世・来世については無記としている)》です。これを人に語るときには 《乱暴な賭け》だと説明します。 ブッディスム入門(《名字即》でしたか) =即 彼岸到達(《究竟即》・《出世間》)つまり卒業 =即 社会人としてのボディサトヴァ(社会的身分としての出世はしていなくとも菩薩を生きる) ――ここまでの大胆さは 持っておられると見たのですが。 なお《信仰》については 価値自由な規定を持っています。これも おっしゃるところの【統合宗教】の側面にかかわると思いますが いかがでしょうか。 _________________________ まづ人間が《絶対》に対してどういう関係にあるかという問題になると考えます。その《絶対》とは 人間が考えても 分からないことであり しかも 分かるか分からないかが 分からないことがらであるとします。 したがって それに対する人間の態度は 《考える》以外の精神および身体のあり方ということになり 一般にこの態度を 《信じる》と言うのだと。 もう少し詳しくは 《絶対》に対する人間の関係としての《信じる》には その絶対の存在を《信じる》場合と《信じない つまり 信じないと信じる》場合とがあるのではないか。 仮りに《絶対》を《神》と表わすなら 有神論と無神論とであると。どちらも じつは 信仰なのであって 神は存在すると信じる場合と 存在しないと信じる場合とになるのだと。 むろん 神にも ヤハウェー・アッラー・キリストの神としてのヤハウェーがあり その他 《絶対》としては ブッダ・ダルマ・空・無・ブラフマン・・・あるいは物質・無神などがあるはづです。 ____________________________ 一呼吸おいたほうがよいかも知れませんし あるいはまったく自由にお考えをさらに述べていただいても ありがたいと存じますし よいかとも考えます。 一たん概要を教えていただいた時点がありましたが この・とても人を喰ったような言い方になって――それこそ大汗をかきかきでの――面映い限りのこととしてながら〔この〕感化という内面からの活動といった側面にも触れずには 終わらないとは思いました。 重ねて重ねて感謝申し上げずにはいられません。感謝することじたいが楽しくなるようにさえ感じております。ですが それでも さらにさらにお考えをわずらわせ申したい気持ちもございます。一呼吸おくのもよし どうか自由にご投稿もなさってくださいますようお願いいたします。謹んで申し述べました。