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自由意志について
自由に論じてください。 ウィキペディアの《自由意志》です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%84%8F%E5%BF%97 わたしは 責任との関係および神学との関係に関心があります。 たとえば こうです。約束をしたとき それを果たせなかったとします。事情を説明し――多少の償いをしつつ―― 詫びて治まると思いますが ここには 自由意志がからんでいるのではないでしょうか。意志の自由な選択によって 約束をしたのであるからには それを違えたことについて 何らかの責任が発生するという具合いです。 一般に表現の自由を言うからには その言動責任ないし文章責任が生じていると考えられるのだと思いますが いかがでしょうか。つまり 自由意志が ほんとうに存在するか否か これは 分からないかも知れないのだけれど 社会的な取り決めとして 上のような事態にかんして 自由意志はあると想定されていると考えるのですが そのあたりについて 自由な見解をおしえてください。
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bragelone様 ここ2日程あまりに忙しなく投稿出来ずに居りました。投稿が遅くなり大変失礼致しました。また、 bragelone様のHNも意味を履き違え誠にお恥ずかしい限りです(大汗)、どうぞお許し下さい。それでは今回も宜しくお願い申し上げます。 > 一点 こう感じたところがあります。つまり 【(肉体は)死んでも(魂は)死んでない】の《体験・認識・感得》につきましては これまでお伺いした限りでは けっきょく 行きっぱなしではないだろうかと。 むろんその実践じたいがよくないというものでは毛頭なく 往きと還りがあるという記憶を思い起こしたのですが。 わたしのかつて習ったところでは 往相・還相があって たとえ彼岸に実際に到達していないとしても あたかも一たん達したとして そこから還ってくる・還って来たという姿(還相)でさらに修行に励むのであるし また 人にも接するのでもあるというふうに覚えているのですが いかがでしょうか。 ○まず「行きっぱなしではないだろうか」につきまして、「彼岸」への片道切符的(笑)感覚で捉えられているとしたら、それは全くもって私の本望ではありません。振り返りますに、これまでの投稿はどちらかと言うと【「個」と「全」の構造認識(「関係性の側面⇔独立性の側面」の双方向性を含有する大宇宙である自分自身)】に対する「認識論」的内容が濃かったと思います。誤解を恐れず申し上げれば、 bragelone様は「大乗的衆生救済」無くてして何の悟りか?!…と仰せではないかと思います。私は過去の投稿(> 理解不能な自分を愛する事が総てを愛する事に繋がります。それが「自分が良くなる為に人を良くする」(抹香臭く申せば所謂「自利利他」)に発展して来ると思います。… / bonnnou03 )で申しました通り、この現実世界に於いて自分の映し絵である現象を整える事(例:困っている人への人助け 及び 導き)は恐らく bragelone様の仰る「往相・還相」と近い、若しくは ほぼ同意ではないか?…と思います。私が知る言葉としては「 上求菩提 下化衆生 」がこれにあたります。論点が自由意志に始まる「意識の構造認識(略)」から「現実世界の処し方」にシフトするのであればそのように致しますし、私が申しました「肉体を全うする」は当然 bragelone様の仰る「往相・還相」を包摂するものとお考え頂いて結構でございます。 > 気概の現われを抑えることができないという限りで この信仰は わたしが選んで持ったのではなく 与えられたものであるということになります。そこから 《人間(現実)が変わる》という表現をも得てしまったという事情です。 ○『信仰』に付きましては個々人の自由だと思いますので、他人様の『信仰』に対し とやかく口を出す筋合い物ではないと思いますが、先日来の私の投稿で「信じる」(…「信じる」と言う打算的期待で自己を成り立たせなければ成らなくなります… 等々 )と言う語句の見解が遠因してご不快な思いをさせてしまっているようであれば、恐らく誤解であり 伏してお詫び申し上げます。本意は盲目的に「信じる(信じすぎる)」と言う行為から「依存症」や「マインドコントロール」を生み、結果 人の心を「自己喪失」状態に追いやり人生の歩みを阻害するのを憎むものであります。決して純粋な信仰(心)を揶揄したものではありません。どうぞご理解頂きとうございます。 > 焦点は結びました。このわたしの法螺吹きが 法螺吹きでどうもすみませんと言わなければならないというのは 往相還相の問題が 唯識にはないという場合だということになりますが いかがでしょうか。 ○「法螺吹き」について …完全な誤解です。自らの不徳の致すところです。この箇所【 …常に自らの体験を持って語る事を旨として参りたいと思いますし、そうでなければただの大法螺吹きになってしまいます。… 】は私 bonnnou03 自身の投稿にあたっての決意として挿入した文言でした。それ以上の文意はありませんし、私には bragelone様を「法螺吹き」呼ばわりする理由が毛頭見当たりません。どうぞご理解頂きまして、お許し願えればと思います。 また『往相還相』については上述の通りです。因みに『唯識』も仏教の中の学問としてある以上「 上求菩提 下化衆生 」の一面を離れないと思いますが、(意識の)上下間の双方向性の説明は『大乗起信論』(ちとマイナーですが!)がより詳しいと思います。内容はさほど理解が深くないため割愛します(失礼)。 > これは 大乗であるべきか 上座部のままにとどまるべきかという主題にもなるのでしょうか。 ○いいえ、そうは思いません。この場合、私は「密教(特に真言密教)」を提示させて頂きます。この理由については様々在るのですが、大きくは2つです。1つはこの身このまま仏になる『即身成仏』(≠「即身仏」入滅してミイラになる)(参考:多くの大乗仏教では悟りまでに大変時間の掛かる「三劫成仏」と言われています)と『現世利益』の【(結果を出す)実践哲学】と言う事。もう1つは教義の面で亜細亜に於ける【統合宗教】(儒教・道教・上座部・大乗・バラモン教・ヒンドゥー教・ゾロアスター教・インド哲学…等々を包含している。想像ですが恐らく「景教」= キリスト教 の影響も受けていると思われます)であると言う事からです。 > 面白いとも思われることは 信仰〔なる賭け〕による希望派が あくまでこの《いま・ここ》に立っていて 前世・来世を気にしていないことであり それに対するに 修行による希望派は 逆に 《【(肉体は)死んでも(魂は)死んでない】》といった表現も持たれてくるということのように感じられる。 ○【(仮に)信仰〔なる賭け〕による希望派】が『前世・来世』をどのように捉えているか?についての統計は恐らく「無い」と思いますので、コメント控えさせて頂きます。他方【修行による希望派】に付きましては、一先ず… 決して「乱暴な賭けではない」と申し添えておきます。 以上です。 最後までお読み下さり、ありがとうございます。あくまで私の認識(体験)に基づく投稿です。徒然なる文面です。お役に立てればと思いますが、ご参考程度にされてください。どうぞご自愛下さい。
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- shift-2007
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あるいは逆から考えると、 責任が発生するのはその行為が自由意志であったかどうか、 ということですか?
お礼
ご回答ありがとうございます。 選挙公約――予算を いくらか一定の額 減らすといった内容だったでしょうか――を違えても 《少々の公約違反は 大した事ではないよ》と言ったとか言わなかったとか。 自由意志がないとなれば このような答弁で済むと思います。というよりも 何も責任はないし 答弁の必要さえないということになります。答えてもよいし 答えなくてもよいということになります。《何でもあり》です。 まちがったなら 訂正すればよいと思うのです。面子よりも 自由意志のほうが 大事だと思うのですけれど どうなのでしょう。 というふうに考えていました。つまり はい 《責任が発生するのはその行為が自由意志であったかどうか》なのだと。レイプもチカンも 自由意志のないところには それに遭った被害者のほうは 責めも咎めもないはづです。 (少々柄の悪い見方をも交えるならば 挑発するような衣服を着ていて しかも その被害者は 挑発してやろうと思ってその衣裳を選んだというように 自由意志がはたらいた場合には どうなのかとも 捉えられますが この場合は 挑発された者に責めがあると決まっているようです)。
- shift-2007
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こんにちは、 やっぱり意思が自由かどうかが問題なのですか? 自由であろうと無かろうと因果というルールから逃れることができないのだから、自分の発した言葉や行動には責任という結果が付きまとうのは必然だろうと思ったのですが。
お礼
こんにちは。さっそく答弁をいただきありがとうございます。 次のお答え(No.4)でも分かりましたが 質問に例示した考え方と おおきく言って 同じご意見だと思いました。 ただ さらに細かいことを持ち出すとしますと 因果関係は そうは簡単にわかるとは限らないとも 思われます。自分の心に聞けというようにも言えるかも分かりませんが そして むしろそのほうが筋だとさえ考えていますが 別の妥当な筋もあったらいいなと思います。 それで たとえば 自分の意志で自由に選択したことに責任を持つといった考え方です。まちがったなら まちがえましたと言えばいいのですから そのほうが簡単だと思うのですが。
風が頼りのヨットでも風に逆らって航行できます。ポットもお湯は電源を抜いておけば冷めるばかりです。しかし電源を入れれば再びお湯は温まります。流体力学や電気や熱力学の知識がなければこういうことに対処できません。知識や判断力の欠如が罪になるかならぬかということと自由意志なるものがあるかないかということとは密接に関連しているように思います。
お礼
回答をありがとうございます。 世界の成り立ちを知ろうと努め そこで得た科学知識を活用しようとするところに 人間の自由意志が 認められるというご見解でしょうか。 すなわち 《知識や判断力の欠如が罪になる》とすれば 自由意志をはたらかせるよう努めなければいけないし 自由意志はあるのだと。 微妙なところだと思います。あえて思うところを述べてしまいますが これだと 《欠如》の度合いが問題になるということにはなりませんか。一般には ある程度の――たしかに 或る程度のとしか言えませんが――努力は 誰もがおこなっているはづです。行き届いた気遣いができなかった場合には すみませんと謝って 事はおさまります。 つまり ものごとに注意を怠らないかどうかの問題であるようにも思います。そして この緊張感のような意識とその反応は 人の意志というよりも 環境や情況からの要請である度合いが大きいようにも捉えられます。(私見では この要請を強要に変えることは いけないと思います)。 その方向で進んでしまいますが たとえば 一たん定説となった科学知識が まちがっていたと分かった場合――というよりも 日常生活の中で 一たん科学的にして合理的な判断をくだした後で その判断が間違っていたと分かったり そうでなくとも 望むべき結果が得られなかったりした場合―― その知識の所有や判断力のあり方について 自由意志およびそれがあるとするなら責任の問題が どうからんでくるか ここに焦点があたるように わたしとしては 考えます。もしくは そのようなところへ焦点を持っていこうとしています。(この質問としてはです)。 もしよろしかったら そのような方面についてもご意見をお寄せくださるとありがたいです。
- shift-2007
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私には因果という言葉で十分です。
お礼
ありがとうございます。 因果関係が 明らかで しかもその原因となっている発言や行動が わたしのものであったなら 責任が生じるのだし そこには 自由意志が存在するという見方 このように理解してよろしいでしょうか。 補足要求できますか。
補足
bonnnou03さん――時々気づきましたが この《さん付け》でとおして来てしまいました;根ががらっぱちですので 《さま》はわたしには似合いません;あしからずこれも伏してご海容のほどをお願い致したいと存じます―― 盆と正月が一緒にやって来たようです。たいへんありがとうございます。内容も これまでどおりに 納得させていただきます。 かくなる上は 勝手ながら わたし自身の問題意識にもとづいて 今後の進む方向を確認させていただければと考えました。 少し振り返ろうとしましたならば まづ 結局 わたしは――自分では 決して気が短くはなく 長いけれども 遅くもなく早いのだと・早過ぎるのだということからだと思うのですが―― 価値観からの禁欲という文章上のエチケットを 早くも 破ってしまうという事情があったのだと思います。 ですけれども 禁欲は 欲望と言いますか 端折って言いますが 恩恵もしくはダルマに従ったあとの自由意志の発現・これとしての《欲望》 があるというのも 前提になっています。《関係性の側面》だとも理解します。誰かの言葉で 《関係の絶対性》であるかと。 ですから 途中で勝手に この信仰告白に移ってしまったのがいけないと反省致します。 そこで今後の課題ですが おっしゃるところの《即身成仏》 これが鍵言葉になると存じます。わたくしの解釈では 《あくまで 永遠の現在というべき〈いま・ここ〉に立って生きる。(前世・来世については無記としている)》です。これを人に語るときには 《乱暴な賭け》だと説明します。 ブッディスム入門(《名字即》でしたか) =即 彼岸到達(《究竟即》・《出世間》)つまり卒業 =即 社会人としてのボディサトヴァ(社会的身分としての出世はしていなくとも菩薩を生きる) ――ここまでの大胆さは 持っておられると見たのですが。 なお《信仰》については 価値自由な規定を持っています。これも おっしゃるところの【統合宗教】の側面にかかわると思いますが いかがでしょうか。 _________________________ まづ人間が《絶対》に対してどういう関係にあるかという問題になると考えます。その《絶対》とは 人間が考えても 分からないことであり しかも 分かるか分からないかが 分からないことがらであるとします。 したがって それに対する人間の態度は 《考える》以外の精神および身体のあり方ということになり 一般にこの態度を 《信じる》と言うのだと。 もう少し詳しくは 《絶対》に対する人間の関係としての《信じる》には その絶対の存在を《信じる》場合と《信じない つまり 信じないと信じる》場合とがあるのではないか。 仮りに《絶対》を《神》と表わすなら 有神論と無神論とであると。どちらも じつは 信仰なのであって 神は存在すると信じる場合と 存在しないと信じる場合とになるのだと。 むろん 神にも ヤハウェー・アッラー・キリストの神としてのヤハウェーがあり その他 《絶対》としては ブッダ・ダルマ・空・無・ブラフマン・・・あるいは物質・無神などがあるはづです。 ____________________________ 一呼吸おいたほうがよいかも知れませんし あるいはまったく自由にお考えをさらに述べていただいても ありがたいと存じますし よいかとも考えます。 一たん概要を教えていただいた時点がありましたが この・とても人を喰ったような言い方になって――それこそ大汗をかきかきでの――面映い限りのこととしてながら〔この〕感化という内面からの活動といった側面にも触れずには 終わらないとは思いました。 重ねて重ねて感謝申し上げずにはいられません。感謝することじたいが楽しくなるようにさえ感じております。ですが それでも さらにさらにお考えをわずらわせ申したい気持ちもございます。一呼吸おくのもよし どうか自由にご投稿もなさってくださいますようお願いいたします。謹んで申し述べました。