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言語体系は制度か自然か
言語体系というものは制度なのか自然なのかそれともその他の何かでしょうか。
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- fladnug
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ANo.07です。 >デュルケームは歴史の盲目的な性格と意識の合目的性を説いていますが、レヴィ=ストロースはこの二つの間に精神の無意識的な合目的性が見出されると言っているようですね。 との補足をいただきましたが、唐突にデュルケームとレヴィ=ストロースとを比較されても、私の回答が >言語体系というものは制度なのか自然なのかそれともその他の何かでしょうか。 という getinngenn さんの質問に、どれほど寄与できたのか、どの辺が的外れだったのか良く分かりません。加えて、デュルケームのどのような学説から、彼が歴史を盲目的としながらも意識を合目的的だと説いたと解釈されたのでしょうか。
- kigurumi
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両方じゃないかと。 <脳の中の幽霊ふたたび>だったと思いますが、言語の発生について書かれていました。 「★」と「Э」。 二つの記号があって、どっちが「ブーバ」でどっちが「キキ」かって選ばせると、人種や国に関係なく、前者がキキ、後者がブーバと答えたそうなんですね。 そう言われてみれば、日本人は星の特徴を言うとき「キラキラ」と言う。 「フワフワ」といわない。 キラキラという音、鋭利な感じだし、カタカナ文字のキラキラもキがとげとげしていますよね。 雲。フワフワ、 ぼんやりした感じですよね。 文字の発達において、最初は絵でその状態を表していたと思うんですね。 それで鋭利なものは、その表現が鋭利な絵になる。 でも楔形文字は全部鋭利。 何故なら粘土版に彫っていたので、直線にしないと、なかなか描けなかったからじゃないかと。 でも音は残っていったので、文字は鋭利なものと、ふんわりしたものとあることになった。 MA、多くの国で母親を意味するらしいです。 文字でいくと、Wじゃないかと思うんですが、、、 乳房の形がWで表せるから。 でも、M。 謎だ。 ただ、海や水が生命を生み出すと古代の人が信じていたら、水はMの形。 正確には波の形ですが。 ということは、母親は乳房の形じゃなく、波の形の象形文字だった可能性があるわけです。 日本にイザナギっています。 日本列島を産んだ神と神話ではされている。 何故 イザナギという名前なのか。 イザナミとイザナギ、ナミとナギの違い。 ナミは波だが、凪いだ状態をナミと読んでおり、逆がナギだったら。 風土記によっては、液状状態だった世界をイザナミが矛でかき混ぜた とある。 つまり イザナギを、イザナミがかき混ぜ、イザナギが形を生んだ と。 ってことは、イザナギは、、、MA。 とつらつら考えると、力技の感もありますが、このようになるべくして名前はつけられたって思えるんですね。 例えば、日本は犬はワンワンで、外国にいくとバウワウだったりします。 鶏、コケコッコーですが、英語だとクックドゥルドゥルドゥ。 前者がブーバで、後者がキキ。 というわけで、人間の聴覚は人種によってとても異なるのではなく、ある程度共通だと思えるんですね。 日本語にはない音を使う民族の言語を大人になってから習得するのは難しい。 臨界期があり、その時期までにその音の環境でその音を捉える聴覚を発達させないと、その音が認識できにくくなる。 イスラエル人は川の向こうから来た人々としてヘブライ人とも呼ばれ、現地の人たちと同化していた。 外見では見分けがつかないし、語群が同じなのを元とするので、現地の言葉を問題なく話すので、違和感が無いから喋っても区別がつかなかったそうです。 でも、ある単語を発音させると、独特の発音になってしまうそうです。 耳がそう聞えてしまうので、そう発音してしまうバレてしまい、捕まえられたそうです。 日本のある単語を絵を示し発音し、伝言ゲームで世界の人々に伝えてもらっていったら、戻ってきたときどういう発音になっているでしょうね。 ところで、MAは多くの国で母を意味し、アイヌ語もそうらしいです。 MAtter、MAterial。 MAに別の概念をくっつけた新語。 失念しましたが terが、、、質という意味だったんじゃないかと思います。 だからmatterだと本質になる。 terialも、、同じく失念しましたが、物とかそういう意味で、materialになると、構成する材料という意味になる。 このように言語はMAなど基本語から派生していき、本来の意味から離れていったんじゃないかと。 語源を辿っていけば、流れがわかりそうな気もします。 そこにはある程度、語彙ができるためのルールがあったのではないかと思います。 あ、もう一つマ関連、摩多羅神。 分解すると MA TTER RA になる。 適当につけたんじゃなく、何かの意味が含まれているように思えます。 ターラという神も分解すると、なんか意味がありそうで、必然的につけられた名のような記がします。 人が移動すると言語も他の地域に伝わっていく。 同じものを意味する似たような語彙が別の国に存在することになる。 でも語彙以外、キラキラとかサラササなどの、対象の状態を音で表す語彙は、人間の共通の感覚から発生する言語じゃないかと思います。 だから、ワンワンは外国ではクックドゥルドルドゥみたいにならないし、ミユミユにもなっていないのではないかと。
- fladnug
- ベストアンサー率44% (4/9)
西洋哲学において自然と制度とを区別するのは、古代ギリシアにおいて physei on(自然的なるもの)と thesei on(制定されたるもの)とに万物を分けて考えていたことに遡ります。この区別は、中世ではあまり言及されません(中世では自然 natura と恩寵 gratia との区別が重要でした)が、ルソー等が属した近代啓蒙主義以降、ドイツ観念論における自然と精神との区別まで引き継がれていきます(精神 Geist が制度的なものに相当します)。 ルソーは、言語をかなりの程度で自然的なものと考えていたようです。というのもルソーは、言語の起源を人間の感情の表出たる声に求めていたからです。これは interjectional theory(表出説)といい、声と言葉とを対立させて考えるアリストテレス以来のロゴス観とはかなり立場を異にします。言語が持つ様々な性質の全てがそれを感情の表出の変異したものとして説明し尽くすことができれば、表出説は正しいということになり、言語もまた全面的に自然的なものだと結論づけることができます。例えば、感情の表出は、やがて歌や詩となってそこから言語となっていったという考えもあります。しかし、叫び声などの単なる感情表出が、そもそもどうして歌や詩といった高度な言語行為となることができるのか、実は、そのことこそが表出説では説明できません。 レヴィ=ストロースがルソーを好んで読んでいたことは良く知られていますが、言語に関して表出説を取ったとはとうてい考えられません。というのも、言うまでもなく、レヴィ=ストロースは、ソシュール、R・ヤーコブソンと続く構造主義の言語観を引き継いでいるからです。構造主義において、言語の体系が無意識的なものとされていようとも、やはり言語は自然的なものではありません。無意識的であるということは、情動的であるということではなく、個々人の自発的な意図に先立ち、その意識的な主体性の見えないところで、人間を支配するということを意味しているのです。ちょうど、フロイトの言い間違いの例にもあるように、無意識な発話といっても、日本語なら日本語の、ドイツ語ならドイツ語の、制度としての言語体系に則して発せられます。このように、構造主義的な見解からすれば、言語は自然的なものではありえないのです。 それは、ソシュールが、言語は恣意的なものである、と評したことにも通じます。恣意的 arbitraire であるということは、「何らかの意図によっての」といった意味ではありません。恣意的であるということは、言語外の何か、例えば自然界の在り方とか抽象的な観念だとかいった本質による必然性の支配を受けないということを意味しています。ですから、言語の体系が恣意的であるとともに無意識的であるということには何の矛盾もありません。例えば、犬の鳴き声を、日本語ではワンワンと表記するのに対し英語では BowBow と表記しますが、この両者に優劣はなく、実際の犬の鳴き声に、より類似している表記の方が言語としてより正確なものであるということにはならず、両者とも言葉として何の欠陥もなくその役割を果たすことができます。こういったことを構造主義の言語学では恣意的と言い表すのです。 このことこそ、言語が非常に制度的なものであるということを示しています。というのも、言語が、徹頭徹尾、感情の表出たる声であるという表出説を取ったならば、日本語、英語、フランス語、ドイツ語といった各々の言語体系の間の差は生じえないからです。人間は、犬のことを dog と呼んだり、chien と呼んだり、Hund と呼んだりしますが、言語が単なる感情の表出であったならば、体格とか声質といった個人差による差こそ生じるかも知れませんが、こういった言語間の差は存在しえず、動物の感情表出のごとく、皆同じ声を発することになってしまうはずなのです。かような歴然とした事実がある以上、言語が全面的に自然的なものであるとは言えません。 それでもなお、言語は自然的なものを根源にしていると言えます。ウィトゲンシュタインは、『哲学探究』Iにおいて、子供が「痛い」という言葉をどのように覚えるのかを考察しています。子供が転ぶなりケガをするなりしたとき、その子供がどのような民族の生まれであれ、泣き叫んだりするなど、ある一定の反応を示します。これを「根源的自然的表出(urspruenglicher,natuerlicher,Ausdruck)」と言います。そして子供が痛みについての根源的自然的表出を発したとき、大人は、どこが痛いのか、もう痛みは引いたか、などと何の変哲もない言葉をかけることによって、子供が本来持っていた根源的自然的表出を、「痛い」という言葉による新たな表出に置き換えるのです。かような着眼点から、言語は飲み食い遊びなどと同じく人間の自然史に属する、とウィトゲンシュタインは述べています。実際、人間という生物が、その身に起こっている事象に関しての反応、すなわち、根源的自然的表出に、ある程度の恒常性を持っていなければ、人間は、子供に言語を獲得させることができないでしょう。なぜなら、その言語に相応しい事象が子供を取り巻いているのか否か、言葉を使えない子供から聞き出すことはできないからです。 しかし、自然な表出から言語による表出への移行は、自然の表出が少しずつ性質を変化させて言語となるような連続的なものではなく、自然だった表出が恣意的な、それゆえに制度的な、言語体系から来る言葉の使用に置き換えられるという不連続な移行なのです。ですから、言語はその根源を自然的なものに持つがためにある程度自然的なものである、と言っても、表出説が唱えるのとは異なり、言語が自然な感情の表出からのみ形成されるということにはならないのです。 実際、ルソーも言語の発展と社会の発展とに相互作用を見ていたところがあるようで、構造主義以降の哲学者が解釈するほど、ルソーの言語観も表出説としての側面しか持たないというわけではなかったようです。
- fishbowl66
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おはようございます。 うわ~補足とお礼、拝見しました。 回答しておきながら、逆に勉強に成りますね。 たまたま、夏休みに入りますから、普段読まない分野の本を借りてきたのですが、その中の心理学系の本をパラパラ眺めて、うんざりしていた所です。 特に、私には「無意識」が曲者なんです。 で、ストロースの無意識の合目的、ふむふむ。 無いものが、目的に合っている・・・回答者としては白旗。 お礼の「人間的自然」もこの言葉だけでははっきりしなくて、他の概念と比較が必要だったり、自然を最大限広義に解釈すれば、すべて自然という、無意味な応答になってしまいます。 「本性」「感情」「欲求」この中で「感情」は他の二つと違うような。 生理的=自然的・意識的=人間的という区別もできるかもしれませんが、状態の移り変わりを、言葉で区別している可能性もあるのかも。 そんな訳で、言語の体系は、個々の言葉の意味より、文法の体系に賞賛するとともに、その成立過程を想像すると楽しそうですね。 大変勉強になりました。
お礼
>「本性」「感情」「欲求」この中で「感情」は他の二つと違うような。 生理的=自然的・意識的=人間的という区別もできるかもしれませんが、状態の移り変わりを、言葉で区別している可能性もあるのかも。 他に動機説もあるようですね。 詳しいことは分かりませんが。
補足
>大変勉強になりました。 ホントですか。 一応構造主義では言語体系は社会的制度として捉えているようですが。 いずれにしろ、(構造の発見など)に到るまでの操作があまり明確とはいえないようですね。 構造主義言語学だろうがなんだろうが所詮仮説ですからね。
- fishbowl66
- ベストアンサー率29% (36/121)
お邪魔します。 ルソーは確か、自然と人為・人工を区別するときに、ホモ・ファベルの「作る人」とかいってなかったでしょうか。 その際、人為・人工を動物の営巣等の作業と区別する為に、意図というのでしょうか、結果的に出来る物を想定しているかどうかで区別していたのではないでしょうか。 そこで、言語体系は、その他の何かですね、きっと。 経済学者のハイエクの言葉を借りると「自生的秩序」 これは、人間が計画したわけではないが、結果的に出来てしまう。 まったく自然でもないし、意図した人為でもない秩序が 意図した以上に、驚くべき秩序を作り出すこともある、という意見。 同様な体系に、貨幣やある種の共同体があるのですが、 現在では各々ある程度完成してしまって、痕跡が見え難いですが、 例えば新しい言葉を作ろうとすると、いまある言葉の関連から作り出しますから、その面影は残っていませんが、例えば「流行語」なんかは、残るものと消え去るものに、誰かの意図が大きく関わるとは考えられませんから、かすかに「自生的秩序」の面影が残っているのかもしれません。 ルソーの件は、未確認ですから、ご注意下さい。 もちろん、「自生的秩序」を含めて、自然と制度をはっきりと区別することは、無用な誤解の元ですが。
お礼
ところで人間の本性、感情、欲求などは人間的自然と呼ぶべきものでしょうか?
補足
>経済学者のハイエクの言葉を借りると「自生的秩序」 自生的秩序というのはレヴィ・ストロースの言う精神の無意識的な合目的性ということかもしれませんね。 観念の客体化された体系は無意識的なものであり、この無意識なものとは単に本能的なものではなく、むしろ自らを規制し組織化するもの、そして自己と他者を媒介するもの。
- nabayosh
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言語未遂(?)の段階というのがあり、それは意味のわからぬうめき声や叫び声、そしてわけのわからぬ音素の連続であったりします。 その音声に対して、これはこういう状況で発せられる音声である、とか、これはこういう意味を持つ音声である、とかいったことを定めていきます。こうして言語は体系化されます。 というのが、シニフィアンとシニフィエの考え方……と雑な説明でわかってもらえるか。 自然発生の音声は素材です。それを体系づけるのは制度のはたらき。 だとすれば、どちらかであるというよりは、どちらでもあると言った方が適切だし、両義性を持つというのも理にかなっています。 そうして素材と解釈が組み合わさって、「ことば」がひとつでき、さらにそれを応用して新しくいくつかのことばが派生し、といった具合に、にょきにょき生える側面があるのです。 そう考えると、言語は体系を持ちながらも、固定化せず流動的であるので、「言語体系」というものの考え方を見直す必要が出てきそうです。 ルソーの時代より言語学は発展しています。というよりルソーの頃にまともな言語学はありませんでした。間違っているというよりも、言語観が雑なのです。ソシュール以降の言語学を学んでいただければある程度納得いただけると思います。
お礼
>だとすれば、どちらかであるというよりは、どちらでもあると言った方が適切だし、両義性を持つというのも理にかなっています。 これは「制度」自体が両義的な側面を持っているんですよ。 つまりルソーらの言う自然と対立する側面、そして単に人間の恣意的な意思によるものではない自立的に持続する側面です。
補足
レヴィ・ストロースなどは言語体系について、観念の客体化された体系は無意識のなものであり、無意識的な心理構造こそがその基礎にあり、それを可能にしている、と指摘していますがね。
- ringouri
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「自然」の定義が難しいと思います。「自然」を人間が存在しなくても存在する客観的な実在と定義すると、人類がいなければ少なくとも現状のような言語体系は存在しえないわけで、言語体系は自然ではないことになりますね。(こんな単純な立場の哲学者は皆無かもしれません) 「自然」の中に人間を含めて考えると、ややこしくなります。 社会的存在としての言語体系は、生物的自然としての人類の存在があって生じたもので、ある意味では「自然発生」を起源としているわけ(歴史的存在!)です。もちろん、現代においては、制度としての大きな側面を持ちます。 結局、このテーマの焦点は「自然」の概念あるいは定義をどう捉えるか?ということだと思います。「自然」に「人間」が含まれると考えると、ラッセルのパラドックスに似た状況が生まれそうです。 人間の知的活動により(狭義の)自然を材料とした人工物や自然とは直接関係無い社会制度や言語体系が含まれた人類社会が構築され、その結果として、それらの反作用(?)が今度は自然に影響を与える。その影響され変化した自然の中で、またそれに応じた人類の活動ループが回る。 これら全体を「自然」の範疇と考えるべきか?否か。 非常に深遠な問題ですね。 「地球温暖化」、環境汚染問題、核兵器問題、みな絡んでくるように思います。そのとき、哲学者は問題解決の指針を示すことが出来るでしょうか?(個人的には現代の「哲学者」にはほとんど期待していませんが)
お礼
ところで人間の本性、感情、欲求などは人間的自然と呼ぶべきものでしょうか?
補足
>「自然」の定義が難しいと思います。「 本当にそのとおりですね。 ギリシャの神が内在した自然、古代中国の儒学の説く自然、キリスト教的な中世の自然、機械的な近代の自然。 たいへんです。
人間は遺伝によって言語を獲得するのか それとも環境によって言語を獲得するのか?といえば その両方だと考えますし 言語体系も自然と制度の両義性を持つと思います。 (若干ロジックが飛躍してますが大目に見て下さい。) 仮に制度と自然が対立項だとしても 制度的な説明と自然的な説明のどちらか一方によって 他方が排除されてしまうと考えるのはおかしいと思います。 ある体系が対立する両義性を内包していたり 対立する系の相互作用によって形成されるという例は いくらでもあると思うのですが。 (人の心は生得的なものか、環境によってつくられるのか?とかさ。)
お礼
ところで「制度」というのは外延的に何処までのものを含むのでしょうね?
補足
>言語体系も自然と制度の両義性を持つと思います。 そう思われる根拠は何でしょうか? >対立する系の相互作用によって形成されるという例は いくらでもあると思うのですが。 どのような例がありますでしょうか? 補足ばかりですみませんが宜しくお願いいたします。
- mrsara
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自然といえば自然 制度の部分もあります。 親子は制度ですか、自然ですか? という質問の答えと同じです。 どちらでもあると思いますが。
補足
ルソーなどの十八世紀のフランスの思想家たちは制度を自然に対立するものとして捉えているようですね。彼らの考え方からすると、>どちらでもあると思いますが。というのは何か矛盾しているようにも思えてくるのですが。 ルソーらの考えは間違っているのでしょうか?
補足
デュルケームは歴史の盲目的な性格と意識の合目的性を説いていますが、レヴィ=ストロースはこの二つの間に精神の無意識的な合目的性が見出されると言っているようですね。