1) 私の答え
私の考えでは「合格させるべきではない」です。私の注目したポイントは、問題のなかに「どうするべきでしょうか」と「べし」が使用されている点です。
2) 答えの根拠
たいていの答えは、「学生の事情を考えて合格させてやる」か、「学生の事情を考えても合格させてやらない」かのどちらかであると思います。これだけ見ると相対立する答えにみえます。しかし、その背景を考えると、これらの選択肢はそれぞれ、「社会通念としては合格させるべきではないが、学生の事情を考えて合格させてやる」、「社会通念としては合格させるべきではなく、学生の事情を考えても合格させてやらない」ということになりそうです。
そこで、いずれにしても「(社会的通念としては)合格させるべきではない」ということになります。一方、もし問題が「この先生はどうするか」、「あなたならどうするか」といった「べし」を含まないものであれば、答えは上で見たように2つあることになります。
3) 「べし」について
「べし」(当為、Sollen)は、社会通念と同じく、一般的な行動の指針の水準にあると考えます。つまり、個別的な行動の実際の水準とはズレているということです。したがって、社会や世間といったものが、社会を構成する私たちに「こうすべし」と命じているということになります。すると、「私はこうすべきだと思う」というのは、かなり複雑な文で、注意深く取り扱わなければなりません。これは、無意識のうちに社会を私に置き換えた上で推測したものと考えられます(これについては5で触れます)。
そのため、「社会通念としては合格させるべきではないが、学生の事情を考えて合格させてやる」の後半部分を「べし」に書き換え、「合格させるべき」という答えを引きだすのは、誤りであろうと考えます。他方、「合格させるべきではない」という答えだとしても、「社会通念としては合格させるべきではなく、学生の事情を考えても合格させてやらない」の後半部分を「べし」に書き換えた場合は、不十分な答えということになると思います。
4) この答えは言葉遊びではないのか
私のやり方では、「べし」を注意深く、社会通念のレベルに留めることで確実な答えを得ることに成功しましたが、単なる言葉遊びといわれればそれまでです。だから、この答えの妥当性を説明する必要があります。
このように答えることで、「べし」と実際の行動とにズレができます。この問題の答えを「べし」のレベルで「合格させるべきではない」とすることで、このズレはどうなるでしょうか。つまり、先生の実際の行動はうまく説明できるでしょうか。
先生が実際に合格させなかったとしたら、その先生は社会通念ないし道徳といったものを遵守したことになります。この場合、学生にどんな事情があったとしても、学生が卒業も就職もできなくなった責任を問われることはありません。一方、先生が実際に合格させたとしたら、その先生は社会通念ないし道徳といったものを裏切ったことになります。この場合、不正に合格させた責任をとるのは学生ではなく先生のほうです。また、この場合、不正がばれるかどうかにかかわらず、先生には何らかの覚悟があるはずです。
このように、私の答えは、不正な合格に対する責任にも踏み込んで説明できます。これは、「べし」と実際の行動とを分けずに「合格させるべきではない」と答えたときには不可能です。
5) どうしてこれが問題になるのか
これが問題として成立するのは、「私はこの先生はこうすべきだと思う」、「いや私はこの先生はそうすべきでないと思う」と言い出すと、どんどん答えが混乱していくところのせいでしょうか。3で述べたとおり、これは、無意識のうちに社会を私に置き換えた上で推測したものと考えられます。私たちが道徳問題を提示されると、つい無意識のうちに先走って判断してしまうのを利用して、この問題ができているのだと思います。
この場合は、答えを混乱させる原因となっているのかもしれませんが、実際の生活では、社会を私に置き換えることで道徳が守られているのでしょう。小学校で相手の身になって考えるよう教えられることや、カントの「汝の意志の格律がつねに同時に普遍的立法として妥当するように行為せよ」という根本法則なども、同様のことを指しているのだと思います。
6) この答えに穴はあるか
もちろんあると思います。「合格させるべきではない」ということを定めるのは、社会の道徳でもありますが、大学の規則でもあります。上の話はそれを混同しています。もちろん、大学の規則は社会の道徳にもとづいてはいるはずなのですが。
たとえば、この問題は社会の道徳として尋ねているのに、4で責任の有無を決めているのは、直接には大学の規則です。社会の道徳や社会通念と、大学の規則を含む成文法とのあいだの区別について論じなければいけないと思います。たとえば死刑のように、すべきかすべきでないかという道徳のレベルで合意が見られないのに、ある国では刑罰として法制化されている場合があるからです。そこで、上の話は、社会通念と成文化された規則とにほとんど違いが見られないときにだけ主張できるものなのだと思います。