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物理学の基本法則
物理学の基本法則は、古典力学、一般相対論、量子力学すべて微分方程式で表されています。ということは初期条件が与えられると、この宇宙の全未来と全過去が決まってしまうということです。たとえばモーツアルトの音楽はモーツアルトの誕生以前の初期条件の中にすでに存在していたこのになる。したがって我々の創造性も倫理も意味をなさなくなってしまう。 物理を勉強している皆さん、あるいは生業にしている皆さん、そんなことが信じられますか。ご意見をお聞かせ下さい。 因に、量子力学の不確定性原理は単に微分方程式に従う実態が数ではなくて、演算子あるいは波動関数だと言うことを主張しているだけですので、演算子に対する物理学の基本法則のこの初期条件による決定論的性格は変わりません。 また、フォン・ノイマンの観測の理論は物理学の基本法則の枠外の理論ですので、これを認めてしまったら、そもそも物理学におけるの基本法則の概念も無意味になってしまいます。
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#9です。 (1) 決定論だったらどうしよう? 再び > 確率論的世界だけが、我々がこれから来る未来の構築に参加できる世界・・・ 申し訳ありませんが、これに対する応えは保留したいと思います。恐らく相容れない立場と思いますが、「構造主義的思考は常に、現象学の地平の中にある」とだけ言います。 (2) 数学で宇宙は解明できるのか? 再び >時々はあるエージェントが出てきて、惑星の運動の法則からのズレを修正しながらこの惑星系を安定に保ってくれるのだと主張した・・・ そのように聞いています。言葉が足りませんでした。数理原理の存在が信じられだしたのは、少なくともフランス啓蒙主義以降の事です。そこに至るまでに、ニュートンの力学ではなく、ニュートン力学は活躍し過ぎたわけです。 余談ですが、あるガス雲が与えられた時、万有引力の法則だけからガス雲は、太陽系が今あるような姿へと変化するのだ、という数値実験は、1980年代にやっと目処が立ち、確認中であるのが実情です。それまでは、根強い仮説に過ぎなかったとも言えますし、現在でも検証中です。保江先生はノーベル賞を取っても良かったんじゃないか?、と時々思います。 (4) 自然は確率的か? 再び 「そこが重要なんだ!」と言われれば退散せざる得ませんが、リウビル方程式やフォン・ノイマン方程式は、鉛筆を持って追いかけた事がないので、シュレーディンガー方程式に話を絞ります(これもちょっと怪しいですが)。 ベルの不等式やアスペの実験結果が、シュレーディンガー方程式から決定論的に予想できるのはわかります。しかしそれは波動関数のレベルであって、その先に確率性が現れるのではないか?と思っています。例えば、波束の収縮です。その先を誤解しているのでしょうか?。その先は、次のように考えています。 「何故自然は非局所性を持つのか?」とか「何故波束は収縮するのか?」や「何故自然は確率的か?(のように見えるだけかも知れませんが)」の機構はさておき、「自然は無目的で乱雑好きだ」という前提のもとに、コヒーレンスの自然散逸を導き、観測に「ほぼ」左右されない実在の姿を確定させれば、それは経路積分法の結果に恐らく一致し、経路積分法の結果は古典的描像に一致するであろう。これが、デコヒーレンス理論のシナリオだと考えています。 これは違うのでしょうか?。
- tohoho2
- ベストアンサー率23% (16/68)
#8のtohoho2です。とりとめもなく書いた文章にお礼を頂きありがとうございました。私は、質問者様のような物理を生業としているものではなく、一介の物理ファンに過ぎませんが、もう1つこの話題に関係しそうなことを思い出したので、書いておきます。 学生時代に、日経サイエンスに載っていた、Mathematicaというソフトの開発者のウルフラムが書いていた「セルラ・オートマトン」についての論文です。その内容は、初期条件が完全に既知(例えば、015672654433416のような7以下の任意のゼロを含めた自然数の列)であり、法則も既知(例えば、n番目の数字の列は、n-1番目の数字の列に対して、自分自身と両隣の数字を足して8の剰余求める)であるにも関わらず、時間発展を予測できないパターンが発生する、といった内容だった思います。 大学の1年か2年の頃だったと思いますが、この論文を読んで、すごく感動した憶えがあります。こんな簡単な規則だけで、周期現象、指数関数的な発展、ランダム現象といった物理現象が再現されるんだなあと。数学的な深みとか物理学的な深みはその頃は持ち合わせていませんでしたが(無論、今でもありませんが)、8ビットマイコンにプログラムして、初期条件を変えたり、規則を変えたりして、グラフィック表示を楽しんだものです。 これなんかも、物理的自然観に対して何か示唆してるのではないかと思ったしだいです。
お礼
有り難うございました。
補足
この欄はお礼のつもりで書いているのですが、字数が多すぎたので、補足内容欄に掲載します。 「物理的自然観に対して何か示唆してるのではないか」とのご意見は、相変わらず、核心を突いたものだと思います。 これは、カオスとか力学の非可積分性の問題という近代物理学および非線形数学の大テーマの一つです。この現象の驚きは、貴方の言うように、大変単純な規則から、想像を絶するような複雑な現象なりパターンなりが出て来ることがあり得る、ということに尽きます。 この問題に関わっているだけで一生充実して生きられる程、内容が豊かな学問領域です。ただしこの問題を通して、私が見ていて危険な物の見方に入り込みかねない側面を紹介しましょう。カオスの理論を勉強した人で、興奮のあまり、経済活動等の人間の営みまでこの立場で説明できるのではないかと言う方が時々います。このことに関して、カオスに造詣の深い、物理学者で超一流の私の友人が以下の警句を私に言ってくれたことがあります。 「カオスの驚きは、単純な規則から複雑な現象を導き出すにある。しかし、人間の営みは、複雑な規則から複雑な現象が出て来ることが本質である。そのところを取り違えて、カオスの理論を人間の営みに適用してしまうと、しばしば漫画的な結論を導いてしまうことになるから、気を付けるように。」 因に、貴方が例に引いた、時間発展を予測できないパターンが何故発生できるかの理由は、以下に説明しますように大変簡単です。 貴方の例示した数を2進法で書いてみると、多分20桁なり30桁なりの0と1の列で書けるでしょう。コンピューターはその最後の桁より後の数の情報を持っていません。これに既知の規則を導入して、次々に新しい数を対応させるとします。この規則は、四則演算で表せますが、それを分解すると、0と1で出来たその数の列を、ただ単に例えば左へ左へと移動させる規則と、左右に行ったり来たりさせる規則に分解できます。このようにただ一方方向に移動させる規則が、その規則の成分の一部として存在していない場合、この規則では周期運動が現れます。この場合この規則は「可積分的」だと言います。しかし、そうでない場合は、「非可積分的」だと言います。 非可積分的な場合には、振動しながらも、全体として数の列が例えば左へ左へと移動してしまうので、上で述べ得た20桁なり30桁なりの数の右側にある、コンピューターには前もって知られていない数がこの規則の中に入り込んで来てしまいます。そして、その知られていない数を0と選ぶか1と選ぶかは、コンピューターのハードウエアやソフトウエアーが違うごとに異なります。 20桁なり30桁なり100桁なりの数はあまりにも短い数の列ですので、たった数十回なり数百回の規則の適用で、初期条件には全然含まれていず、コンピューターが勝手に作り出した情報だけで出来上がった数の列に到達してしまいます。ですから非可積分系では、時間発展を予測できないパターンが発生してしまうのです。 自然界の認識で何かおもしろい考えに出会したら、他にももっと教えて下さい。
面白そうなので、入れて下さい。まずは、人文的反応を・・・。 (1) 決定論だったら、どうしよう? 言ってしまうと、それならそれで、しようがないと思っています。私には同じ問いに聞こえるのですが、「人間は目的を持って生まれて来たのか?」というのがあります。私の答えは「偶然に生まれたに決まっている」です(まぁ、宇宙開闢時に決定済みだったのかもしれませんが)。では自分の人生に何の意味もないのか?と問われれば、そうは思っていません。偶然に生まれたにしたって、そこでの思いには価値があると思っています(もちろん最終的には、自分で付けた価値です)。 (2) 数学で宇宙は解明できるのか? このような事が本気で信じられ出したのは、デカルト,ニュートン以来の比較的最近の事だと思います。それまでの数千年間にわたって、数理原理の存在は数学的神秘主義の一言で片でけられていたはずです。しかも近代以降の科学は、その事について公言しないという立場を取っているので、非常に歯切れが悪いです。でも、ニュートンの大成功の影響で、数理的に宇宙は解明できそうだという雰囲気は続いています。もちろん現状のまま、どこまで行けるかわかりませんし、既に一定の限界も見えています。近代科学は「何故」という疑問を積極的に却下し、「どのように」ばかりを追及してきたという意見は正しいと思いますが、近代以降も決定論が支配的だったのは、デカルト,ニュートンの影響と思えます。 (3) ファインマンの仕事 フォン・ノイマンではないのですが、ファインマンはコペンハーゲン解釈を理解できなかったと、聞いた事があります。彼は、観測に左右されない実在の存在を信じていたのですが、実験事実からは、コペンハーゲン解釈を受け入れざる得ない。そこで彼が取った逆説的な行動は、ボーアの裁定を受け入れても古典論が破綻しなければ良いというものでした。それが、経路積分法だと思います。 (4) 自然は確率的か? 以下は本の受け売りです。有名なシュテルン・ゲルラハ実験のような実験結果の類に関してアインシュタインは、実在が非局所性を持つ事と、確率的存在に「見える」事とは不可分のものであると思っていました。観測に無関係な実在の存在、つまり因果的決定論を守るために彼は、漫画チックに言うと、宇宙は自然なワープ機構を備えているとまで考えていたと、個人的には思っています。ここでの文脈は「確率的存在」=「観測に依存する」=「実在が危うい」です。ここまで来ると、決定論はなかなか無視し得ない重みを持つように感じます。そのようなトンネル機構を説明できない量子力学は、不完全であるというのが、その結論だったと思います。 現状では、アインシュタインの望みを再起不能にしたのが、ベルの不等式とアスペの実験だったと認識しています。なので、あくまで現状ではですが、自然は確率的だと実証されたのかな?、というのが本音です。 とりとめなくて申し訳なかったですが、以上です。
お礼
有り難うございました。
補足
No.9さんをはじめとして、回答して下さる方々の質の高さを味わっています。 No. 9 さんの(1)について: 決定論的世界に合い対する世界が確率論的世界ですが、この確率論的世界のもっとも重要な性質は、今現在この時点の中に未来がまだ与えられていない、ということでしょう。与えられているのは、未来に起こりうる可能性(例えば今生まれた子供が、将来総理大臣になるか、ホームレスになるかなどの)だけです。したがって私は貴方とは反対に、この確率論的世界だけが、我々がこれから来る未来の構築に参加できる世界だと思っており、したがって「自分の人生に何の意味があるか」という問が意味を持つことのできる唯一の世界だと思っております。 (2)について: 私は常々「数学は自然を記述するための言語である」というガリレオの言葉に感心しております。微分方程式なぞ一切知らず、四則演算とユークリッド幾何学しか知らなかったガリレオが、なんの神懸かりで、こんな気違いじみたことが言えたのかと。しかし、物理学を極めれば極めるほど、この言葉の重みを感じております。 余談になりますが、ラプラスを待たずとも、ニュートンが彼の法則を発表した直後からこの決定論的な側面は気付かれており、ライプニッツおよびその弟子とニュートンの間で、この決定論的性質に付いて論争の手紙のやり取りがあったそうです。 面白いことにニュートンは彼の法則にある決定論的な性格を信じることができず、時々はあるエージェントが出てきて、惑星の運動の法則からのズレを修正しながらこの惑星系を安定に保ってくれるのだと主張したのですが、ライプニッツはニュートンの法則の決定論的性格がこの宇宙の本質だと主張したそうです。ライプニッツはニュートニアンであったが、ニュートンはニュートニアンではなかったという落ちです。 (3)について: ファインマンは彼の本の中で「我々の存在を保証するような奇跡的な初期条件が過去ただ一度だけ選ばれた結果として、時間に向きが現れた」との趣旨のことを言っています [R. Feynman, “The character of Physical Law,” MIT Press, Cambridge, Masatusettes (1967)]。明らかに彼は決定論者でした。 (4)について: 量子力学のシュレーディンガー方程式は、時間の向きの反転に対して対称な、決定論的方程式です。ベルの不等式は、このシュレーディンガー方程式の帰結として出てきます。したがって、アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンの主張に関連した、この不等式やアスペの実験を根拠に自然は確率的だと実証されたというのは誤りです。これによって実証されたのは、物理系は、位相空間の関数が従う古典的なリウビル方程式(これは確率という言葉は使っていますが、時間の向きの対称性を破っていない決定論的な方程式です)によって記述されているのではなくて、量子相関を表す非対角成分を持った確率密度行列が従うフォン・ノイマン方程式(これも決定論的方程式です)によって記述されている、という事実です。 フォン・ノイマンの観測の理論は、シュレーディンガー方程式から出てくるものではなく、それとは独立な原理の存在を主張しているものです。観測の理論が数学を使って表されているからと言って、フォン・ノイマンのような多元論的な論理展開を受け入れてしまったら、一元論的世界を信じている物理教信者が、キリストの復活を信じないキリスト教信者みたいな、あるいは、カレー粉抜きのカレーライスみたいなものになってしまいます。 この物理教の教理を信じているということが、同じ数学を使っているにもかかわらず、物理学者を、数理科学者や応用数学者や工学者などから分け隔てているのだと思いますが、どうでしょうか。
- tohoho2
- ベストアンサー率23% (16/68)
俺も面白そうなので、ちょっとコメントを。 #5でchiezo2005さんが書いていた 「パソコンにしても,内部で起こっていることは完璧に物理法則で把握されている範疇(数字で表現可能)ですが,」 というのが気になりました。 実は、コンピュータの中では、0と1の論理演算が整然と行われ、正確にビットストリームが流れているように思われていますが、「メタステーブル」という状態(0でも1でもない状態)が稀に発生します。しかも、これは、いつ起こるか、どの程度持続するのかは、完全に確率的な現象で予測できません。ソフトウェアの不具合や外来ノイズなどの外的な原因以外で、コンピュータが誤動作することはないじゃないかと思われるかもしれませんが、それは、「メタステーブル」が発生しても0と1が入れ替わらないような仕組みを導入しているからです。ここで、重要なのは、「メタステーブル」状態が発生するのは、本質的に確率現象であり、予測不可能ということです。 量子力学にしても、「確率量子化」という定式化があり、決定論ではなく、この世の中は、「最初に確率あれ」と神が言ったと考えても、特に違和感がないと考えるのは俺だけだろうか。
お礼
いきなり核心に入って来る反応をして下さって、有り難うございます。 メタステーブル状態に着目したのは、的を射ております。この他にも、原子の中の励起電子が光りを出して基底状態に遷移する、いわゆるボーアの仮説も同じ範疇に入ります。 メタステーブルも、原子による光りの自発放出も、共に場と粒子の相互作用の結果起こるシュレーディンガー方程式の解の中にある力学過程として理解できることが分かっています。 一方において、シュレーディンガー方程式は時間の向きの対称性を破っていない決定論的方程式なのに、他方において、自発放射は我々の時間の未来に向かってのみ起こる現象なので (すなわち、自発崩壊は起こっても、自発励起が起こったという報告はまだ一度もされていないので)この問題を探ることが、時間の向きの存在を理解し、また、確率論的世界の現出の根拠を探る入り口ではないかと考えている研究者が一杯います。 もちろんこの現象は、我々が普段遭遇する現象(例えば、今朝うちの家内が怒っていたなどという現象)とは桁違いに単純な現象ですので、原子の自発崩壊が理解できたから、熱力学第2法則の主張する時間の向きの存在や確率論的世界の出現を理解できるようになったというのは、言い過ぎしょう。ただし、どうやらこの現象がこの問題の適切な入り口になっているようだということです。 私が「教えて!」で、この質問を提示した理由の一部は、皆様がこの問題を普段どう捉えており、また、初耳の方は、どう反応するかを知りたいというものですので、このような回答をして頂けると、大変参考になります。 重ねて、有り難うございました。
- goma_2000
- ベストアンサー率48% (62/129)
ちょっと面白そうなので。 質問者様回答を幾つか引用させていただきます。 -------------------------------------------------------------- 物理学の基本法則が宇宙のあり方を表しているわけではなくて、我々人間の認識能力の限界を表しているのだということを主張しているわけではないでしょうね --------------------------------------------------------------- --------------------------------------------------------------- そもそも物理学の基本法則の中からどのように確率という概念が出て来るかを明らかにすることです。確率の根拠をわれわの測定能力の不完全性においてしまったら、物理学ではなくて人文科学になってしまいます --------------------------------------------------------------- まとめると、物理法則ありきでは無く、宇宙(自然)ありき、ということになるかと思いました。宇宙を記述できない(更に言うと観測過程を記述できない)のは我々側(物理学)の問題で宇宙が確率的だとは限らないということですね。 しかし、これは逆に言うと、宇宙(自然)が確率的ではないともいえないということにはなりませんか。質問者様は物理法則が未完成であるというような主張をされていながら、何故決定論的であると思われたのでしょうか。 なので、決定論的宇宙観の問題は、『確率的である』ということが宇宙(自然)の本質であるかどうかということになりますね。これに関しては、現在は解明されていないにしろ、自然の本質に確率的な側面があるとすれば、それは決定論的な未来像にはならないと思いますが如何でしょうか。 ちなみに、最近の物理学では初期条件さえ理論から決めてしまおうなんて考えている人たちも居るようですけどね。
お礼
有り難うございました。
補足
的を突いた反応をして下さって、こちらも楽しんでいます。 先ずあらゆる学問の進歩は、始めに仮説ありきです。これを導入するには、優れたソフトウェアー(一頃は頭脳とか能力と言っていたようです)が必要で、その仮説が出たら、後は優れたハードウエアー(一頃は数学や論理の強い人と言っていました)を持っている機械とか人間に、その仮説が正しいか正しくないかを検証してもらうことによって、学問が進歩して来ました。 したがって、あらゆる学問では、それがまだ実証される前に、そうに違いないという、確信なり、信仰なり、神懸かりが始めになくてはなりません。始めからどこに答えがあるかが分かっているものは学問の対象にはなりませんから。 私の知人が「学問の中で一番重要で、かつ難しいのは、仮説を提案することだ」と言っていました。 物理の発展の歴史を振り返ってみると、ガリレオやニュートンの神懸かりのもとに、始めて、ニュートンの法則という決定論的な自然把握の仕方が提案されて、目覚ましい成功をその後に見ました。 その後の、この法則に適用限界が見つかりましたが、西洋人達がこの限界を超えて力学を拡張する過程で、不思議なことに、相対論も量子論も共に、決定論的な側面をかたくなに保持しながら物理学を発展させて来ました。この西洋人達のかたくなな思い込みは何を根拠に、どこから出て来るのでしょうか。なにか理由があるはずですね。 日本人だったらどう拡張していたでしょうか。それとも、物理学とは客観的は事象を対象とする学問なので日本人だろうが西洋人だろうが同じ結論に到達するものであり、また科学とはちょうど今まで誰も見たことがない島を発見するように、誰が見ても同じものを発見するものなのでしょうか。それとも、我々は発見しているのではなくて、自然の認識の仕方を発明しているのでしょうか。 相対論や量子論を使いこなせないために、今でもまだ説明のできない現象は数限りなくありますが、今のところ相対論の限界を示す証拠も、また、量子論の限界を示す証拠も、まだ一つも見つかってはいません。 ローゼンフェルトという量子論黎明期の頃の偉い先生が言った言葉に「もしまだ適用限界が確認されていないなら、その理論を理解したと言うべきではない」というのがあります。彼に言わせると、人類はまだ相対論も量子論もその意味を理解してはいない、ということになりますね。
- corne
- ベストアンサー率37% (3/8)
僕は、質問者さんほど物理学を極めてはいませんが、 高校物理を習って決定論に気づいたとき、かなり衝撃というかショックを受けた記憶があります。 人間の思考さえ物理法則に支配されているわけですから、 僕が生まれてくることも、この何秒後かに僕が何を考えているのかも、 10年後何をしているのかも、宇宙が誕生した瞬間にすでに決まっていたということになります。 ただし、これを正確に予測するにはスーパーコンピュータが∞個必要ですね(笑) でも、そう考えた方がピンとくるのは確かですよね? まったく同じ初期条件の二つの宇宙が、違う歴史を辿ると考えるほうがナンセンスだと思います。 そう考えると、すべて無意味ですよね。 人間自体の存在も無意味です。 創造性や倫理も、人間が作り出したただの言葉ですから、これもまた無意味です。 すべて、物理法則に支配された粒子の運動の結果です。 しかし人間は、自分の意思や思考が独立なものだと本能的に感じてしまうから、こういう疑問が生じるんではないでしょうか。 思ったままを書いてしまったので、期待する回答になっていなかったらすみません。
お礼
高校のときにこの問題を意識して衝撃を受けたとは、大変早熟な方だと感心しました。 もっとも基本的な所で問題意識を持ち続けることは、深み、あるいは高見に到達するための必要条件だと思います。これからも思索を続けて、意見が出て来たら教えて下さい。
補足
No.9さんに対して書いた回答補足の内容が、貴方の回答とも重なると思いますので、読んで頂けたら幸いです。
- chiezo2005
- ベストアンサー率41% (634/1537)
#2です。 私は,微分方程式で記述されるようなもので,生命活動などを記述するのは無理だと思っています。 また,時間的な発展を記述するのに微分方程式は単純すぎて,表現できないことが多すぎます。 表現できるのはせいぜい,原子,分子,素粒子の運動くらいでしょう。 つまり数字で表現できるものしか表現できないのです。 宇宙のすべてが数字で表現できるなんてことを考えること自身が無茶でしょう。 パソコンにしても,内部で起こっていることは完璧に物理法則で把握されている範疇(数字で表現可能)ですが,私がキーボードから入力を始めた瞬間に画面に文字が出ること自身が全く物理法則で説明できない現象になってしまいます。
お礼
有り難うございました。
補足
1970頃にプリゴジンによって非平衡熱力学に革命的な進歩がもたらされ、生命現象や社会現象までもが物理学の問題として把握し得ることが確認されました。これは「散逸構造理論」というもので、プリゴジンはこの業績で1977年にノーベル賞を受賞しています。 この理論の本質をかいつまんで言うと、次の3つの要件に集約されます: 1)熱力学第2法則が主張しているように、時間には過去から未来に向かう向きがあること。専門用語では「時間の向きの対称性が破れている」と言います。時間の向きは系のエネルギーや情報の散逸として表現されるので、「散逸構造」の言葉の由来になっています。 2)着目している系が開放系であること。そのため上の第2法則で主張するエントロピー生成ばかりでなく、系の外部からの正にも負にもなり得るエントロピー流が可能になり、部分系のエントロピーを下げることが出来るようになる。 3)その系が、熱平衡状態から十分離れた非平衡状態になっていること。その結果、現象を記述する方程式の中の非線形項が重要な役割を演じるようになって、大変複雑な構造なり振る舞いが可能になる。 この3つの条件を満たすと、系は始めに空間や時間的に均質で構造がない状態から出発しても、時間発展と共に自発的に非均質性ができて来て、様々な分岐現象を繰り返しながら、いくらでも複雑な構造が物理学の原理と矛盾するこのなく現れて来ることが示され、また実験でも確認されました。 この理論は、物理学が通常扱う現象ばかりでなく、化学反応系で起こる空間や時間での規則的なパターン現象(それには、朝になったら目が覚め夜になったら眠くなるというような、生物内で起こるあらゆるバイオリズムも含まれる)、生物学での粘菌類の集団がエサの過不足の違いによって空間的に描き出す渦構造や輪形構造の波動構造の伝播、アリのエサの捕獲とその情報の伝達行動、魚の捕獲船の行動の様式の分析と予測、都市の発展の分析と予測、等々、数え上げれば切りがないほど多くの分野で、その正しさが確認されています。 地球に生命が散逸構造系の具体的な例として自発的に発生し得たのも、物理学に矛盾するわけではなくて、太陽からくる熱および光りの流れによって、この地球が熱平衡状態から十分に離れた非平衡定常状態に保たれているからだ、との見解が学者の間での共通意見となって来ています。 現在では、物理学者達は生命現象の質的特性まで数の概念を使って分析しています。
- jyunk2006
- ベストアンサー率66% (2/3)
面白いテーマでしたので、考えてみました。 そもそも全宇宙の現象を何らかの方程式で記述できるという前提に疑問を感じます。 物理法則は人間が観察、仮説、検証を繰り返して確立してきたものであり、果たしてそれが本当に真理なのかどうかは、だれにも分かりません。 また、人間の考える法則(方程式)の通用する限界、範囲はどこかに存在すると思います。 宇宙創成期にこれらの物理学の基本法則が通用するのでしょうか。 宇宙のあらゆる位置でも因果律が成り立つと考えてよいのでしょうか。 というわけで、 初期条件を設定すれば微分方程式が解けるからといって、初期状態が決まれば宇宙の中で起きる全ての時空の出来事が決まると考えるのは、 無理があるのではないでしょうか? 方程式は人間が現象を理解するための一手段に過ぎません。 今後、人間の能力がより大きく(観測方法の技術的革新や新理論の構築など)なれば、光速やプランク定数の扱い方が変わってくるかもしれません。
お礼
有り難うございました。
補足
#3さんへの補足事項が貴方の回答とも重なっているので、お読みになって下さい。 また、方程式の役割に付いては、直接的ではありませんが、#5さんへの補足事項に少々触れてありますので、それもお読みになって頂けると幸いです。
- hiro2pzbt
- ベストアンサー率46% (6/13)
このような話題における「初期条件」というと、 やはり宇宙創成期の話になるのでしょうか。 個人的には、もしも全く同じ初期条件が与えられたのなら 全く同じ歴史を辿ることになってもそう不思議はないかな、と思います。 大した根拠があるわけではありませんが。 創造性や倫理が意味をなさなくなるとおっしゃいますが、 そうは思いません。 創造性や倫理が意味をなすのは我々人間にとってのみであって、 その我々人間には10の何十乗個もの成分を持つ方程式を解けない (=未来予知などはできない)のなら、充分に意味をなすと思うからです。 何が言いたいかと言うと、 この宇宙が、初期条件が与えられると全未来と全過去が 決まってしまうようなものだとしても、 それを知ることが出来る存在が誰もいないのなら、 すなわち、全未来過去は決まっていないことと同義ではないか、ということです。 人間原理的な物言いはお嫌いでしょうか。
お礼
有り難うございました。
補足
「この宇宙が、初期条件が与えられると全未来と全過去が決まってしまうようなものだとしても、それを知ることが出来る存在が誰もいないのなら、すなわち、全未来過去は決まっていないことと同義ではないか、」 とおっしゃいますが、もし物理学の基本法則が主張しているように、初期条件が与えられると全未来と全過去が決まってしまうようなものだったら、自分が知ろうが知るまいが、自分が何故そのような行為をしたのかは決定論的に前もって決まっていたのですから、どうしてその行為に対して人間が責任を取ることが出来ましょうか。 アインシュタインがタゴールへの手紙の中で次のような趣旨のことを言っております: 「もし誰かが『月が地球の周りを巡っているのは、月の意思がそうさせているのだ』と言ったら、貴方はお笑いになるでしょう。人間は自分の意志で行為をしていると思っていますが、実は人間も物理の法則に従っているのです」 物理学を自ら造り上げて来た西欧人の中には、この例の他にも、宇宙観ないし物理学観について深刻で徹底したものを持った方が過去にも現在にもしばしば見られます。それに対して、彼らが達成して来たものを勉強して学んでいる日本人には、工学的応用面でのご利益に目が行き過ぎていると思われるのですが、どうでしょうか。 そもそも物理学は工学ではなくて、また、単に目の前に起こっている現象を合理的に説明しようと言うだけのものでもなく、自然の中の全ての現象が「基本法則」と言う概念で統一的に理解できるものだと言う、この学問だけが持っている独特の世界観に基づいて、自分たちもその一部を成しているこの宇宙を、自分たちの存在をも含めて理解しようとする学問である。物理学のもっているこの深刻な自然哲学としての側面が、日本人の多くの方々の中から大きく欠落しているように感じるのですが、思い過ごしでしょうか。
- chiezo2005
- ベストアンサー率41% (634/1537)
物理の基本法則は初期条件が与えられると未来の現象がすべて記述できるという意味で,未来は過去の結果ですべて記述できるということを意味します。もちろん,量子力学のように確率的に記述されるものもありますので,未来のすべてが確定してしまうものではありませんが・・・ さて,生命などが絡むはなしに物理を適用しようとするとすぐに,例に挙げているモーツアルトのような話が起こりますが,これは間違いです。 生命や,我々が機械を作るなどと言った現象はすべて,エントロピーが減少する方向の出来事です。もちろん,宇宙全体のエントロピーは増加しているのですが,少なくとも,生命の誕生の瞬間,鉄の塊から車ができる,作曲するなどといったことはエントロピーが減少していることは確かです。 また,その現象が決定論的に過去から決まっていたとはとても思えません。 ひとつの問題は,生命が関与するととたんに物理現象が情報に左右されるようになります。 たとえば,ライオンが遠くにいた獲物を見つけて猛然と追いかけるという現象を考えると, 物理的には獲物から出た光がライオンの目の網膜に像をつくる,ここまではよいのですが,そのあと,猛然と獲物を追いかける行動にでるのは,ライオンの脳のなかで獲物という像が情報に変化し,追いかけるという行動に走ることになります。 物理量が情報に変った瞬間に情報処理ということが行われ,これはきわめて少ないエネルギーや化学変化に過ぎないのですが,その結果は大きな物理現象として現れます。 また,そのライオンは獲物を見ても追いかけないという判断をするかもしれません。 物理法則の単純な因果律が生命が関与した瞬間に,情報処理をともなってとてつもなく複雑なものになってしまうのです。 したがって,物理で規定できる因果律はかなり限られた範囲でしか有効でなく,生命が絡むような現象には少なくとも現状は無力であると考えたほうが良いでしょうね。
お礼
有り難うございました。
補足
はじめの質問に明確に指摘しておきましたように、量子力学の不確定性は量子力学の決定論的な性格を否定するものではなくて、単に観測量が演算子であることを主張しているに過ぎません。 またコペンハーゲン派の確率解釈を正当化するフォン・ノイマンの観測の理論は物理学の基本法則と両立することができないので、物理学者の間でいまだに論争の耐えない未解決な問題です。したがって、量子力学は確率概念を使っているから問題がないというのは、答えになっておりません。問題は、そもそも物理学の基本法則の中からどのように確率という概念が出て来るかを明らかにすることです。確率の根拠をわれわの測定能力の不完全性においてしまったら、物理学ではなくて人文科学になってしまいます。 エントロピーに関する議論は現象論的な議論であり、今のところ物理学の基本法則とは矛盾するものと考えられているのが物理学者の間の主流を占める意見です。 また、貴方の言うようにもし物理学の適用範囲が限られているとしたら、自然にはいくつもの原理があることになります。もしそうなら、自然はどこからどこまでをある原理にまかせ、またどこからどこまでを他の原理に任せるのでしょうか。このような多元論的な認識の仕方は、自然を記述するというよりも、自然の理解に対する人間の認識能力にこだわった人間中心的な意見だと思えるのですが、どうでしょうか。 あるいは物理学とは、そういう人間の認識能力を探る人文科学なのだと主張なさっているのでしょうか。
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お礼
有り難うございました。
補足
質の高い反応、有り難うございます。雑用に追われ返信が遅れることもありますので、ご辛抱ください。また、内容が物理学とは何かという大枠に関する議論ですので、お互いに噛み合ない遣り取りがあるのは、いたって自然ですので、逆にその噛み合ない則面を通して新しい問題点を認識できるかもしれないという、生産的な立場で論じているつもりです。 (3)について: 保江先生の業績は第一級の仕事として讃えられるべきでしょう。 私の友人の数値計算の分子運動論の専門の人で、粒子間の相互作用にはニュートンの法則に従う力だけを仮定して、対流が起こることを示した人がいます。個々の粒子の運動は乱雑でしたが、粒子の位置と速度の平均値を場所ごとに描くと立派な対流が起こっていました。 (4)について: 観測による波束の収縮は今のところシュレーディンガー方程式の解からでてくるものではなくて、それとは独立な原理から起こるとしているのがフォン・ノイマンをはじめとした観測の理論の主張です。これを認めてしまうと、この宇宙には幾つもの独立した原理が存在するという多元論信者になってしまいます。#2の補足内容のところのでも述べましたが、それを認めてしまうと、自然はどこからどこまでをどの原理に任せるのかをどう決めているのか、という問題が起こってしまいます。そして、それを理解するための統一原理が必要になり、したがってまた一元論にもどってしまうという、堂々巡りになってしまいそうです。#9での補足内容でも述べましたが、物理学者とは一元論を信じる物理教信者のことを言いうのだ、というのが私の持論です。 今のところ、波束の収縮によって確率の概念が確立したと、確率に、いや間違えた、確実に言うわけにはいかないと思います。 波束の収縮を部分系と熱浴との力学的相互作用の結果として説明しようという試みもありますが、何故熱浴が熱平衡状態という、軌跡や波動関数の概念では説明できない確率的な分布をするかという、一番難しい問題を避けて通っています。 デコヒーレンスについて: 私の理解ではデコヒーレンスの理論には2局面があり、一つは励起原子の基底状態への自発遷移が指数関数的に起こる現象を指す場合と、二つには、熱浴などとの相互作用で、部分系の情報が失われることを指す場合があります。 前者の自発遷移はシュレーディンガー方程式の厳密解として記述されますので、この過程で全体としてエントロピーは増えず、何の情報も失われていません。 後者の場合には、先ず熱浴ありきとの仮定をしますので、上で述べた一番難しい問題を避けて通っています。そしてこの場合、例えば、パウリのマスター方程式などの、はじめから非決定論的な運動論的方程式を解いて、デコヒーレンスの現象を論じています。従ってこの過程ではエントロピーが増大してしまい、物理学の基本法則とは相容れない結果になっております。 デコヒーレンスを論じる場合、熱浴を仮定した後でハミルトン形式で力学として解く方法も時々見かけます。その場合、熱浴が大きいので熱浴の時間変化は無視できるという近似を使って計算するので、力学の決定論的側面の重要な概念である、いわゆる記憶効果が無視されてしまい、厳密にはやはり物理学の基本法則から現象が説明できたと言うわけに行かないと思います。 何れにしても、デコヒーレンスの現象が量的に説明でき、それが実験で確認された場合にはそれで十分ではないか、という人もいるでしょうが、それは典型的な工学者の立場だと思います。#3の補足内容のところのでも述べましたが、物理学では、個々の現象が量的に無矛盾に計算され、かつ、実験で確認されればそれで良しと、満足できません。その現象がどう物理学の基本法則と関わり合っているかまで認識できたとき、はじめて、満足できるのだと思っています。