端的に言って どうしたら大勢の人が善人になれるかという設問は人間にとって切実な問題です。
だから善と悪の因果を知ることは、誠実な心の人にとっては無意識からの心の要求ともなっているのだと思っています。
やはりfireball1さんも、その意味での誠実な心からこの二つの「説」をめぐる議論にモヤモヤを感じているのだとお返事から察せられました。
こんなふうに考えられないでしょうか。
性善説は、子供の頃の純粋無垢な新鮮な特に昔の我々が森や太陽の光とともに暮らしていた頃の思い出からの自然な感覚から善を連想して、もともと仁儀礼智は備わっていると本気で感じ、それを、そういう民衆が信頼できる統治者のあるべき姿と結びつけたもの。 それに類すると言われている西洋のペスタロッチなどの教育理論も、そこから子供たちの長所を見つめることがいかに大事かを発見していったもの。 歴史的には、大いに人生に役に立ってもきた「説」だったのですが、仁にしても特に自然から離れた生活の文明人にとっては自然なままでそこに最初からあるというのは
甘い幻想となってしまう。
本性というのならば、性悪説の言う本来だれにも欲望がありそのままでは
争いが主となり礼も何もなくなってしまうとうほうが、本来そなわった性質の部分(部分ですが)をよく言い表しているのではないか。 でもなんです。 この欲というのは、切実な貧苦や病苦等にあえいでいる時はとくに争いの方にのみ発展しますが、欲があるからこそ切々と心が通じ合えたり、それが元気のみなもとになったり、だからこそ精力善用を説いて争いそのものの中に武道の道を追求したりするように、 経験上からはその「(部分)」をもって性悪説とするのは半賭けだ。
人間にあたえられた最大のもともとの能力は「自己や自分たちの状況を見つめ反省する能力」だし、それこそ大人がともすれば忘れがちな新鮮な五感の世界、星や川の流れやその光の世界、またそうした新鮮な「感受する側の心」の世界をさらに発展せせてくれる本物の芸術の世界による、心ゆとりが、初めて貧困さへ超えて人間の中に「まごころ(善のふりを自分の名誉保全などのためにいくらでも仮面をかぶってしまえばすることのできる能力を人間はもっている。その能力を純粋に善のための想像力として生かすのも、嘘の無いまごころが前提とならなければ真心自体が存在基盤をなくしてしまう。それも嘘かもしれないですからね。)」の可能性を生んでくれる。
これは こんなふうに多くの経験を通した多くの知恵を学んで、その中から中途半端な論議は卒業されるべき ほんとに切実なこれからの社会の課題だともいえるのではないでしょうか。
わたしは 知識はけっこう貧しい肉体労働者ですが、むかし知恵はそんな人たちの中に大きなものがあるときがあると学校の先生から聞いたことがあり、n 自分も歳食ってすこしそうなれたのかなとか思ってます。
でも知恵は知識があってよりいっそう役立つとも聞いてます。
こんなふうに おおきな観点 おおきな度量から研究をされにつづけられてあなたのような誠実は研究者が これからの社会のリーダーとなられんことをお祈りしています。
がんばってください。期待しています。
お礼
大変親切にご回答くださいましてありがとうございます。 人間が形成するこの社会の維持・発展を願えば、たしかに人間の本質を知り、生き方を考えることは我々の宿命なのかもしれません。 まだまだ私の経験や考察の乏しさから問題の本質を捉えきれることが叶いませんが、近づくことができたと思います。 見ず知らずの私に手を差し伸べてくださったarayata333さんのような“善人”こそ社会は求め、多くの思想家はそこを狙ったのでしょう。 本当にありがとうございました。