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日本史 問題が解けません
次の問題が調べても分かりません。 1.長屋王について誤っているのはどれか。 (1)この人物は、位階に相当した官職として左大臣に任命され、庸・調などが免除された上に、職田・職封なども得ていた。 (2)奈良市のこの人の邸宅跡と考えられるところから発見された木簡によれば、全国から鯛や鮑などの産物も貢納されていた。 どちらかだと思うのですが・・・ 2.改新の詔について誤っているのはどれか。 (1)日本書紀に前文が載っている。 (2)原文のままではなく、大宝令などをもとに書き直されているといわれる。 どちらが違うのか、また何が違うのが教えてもらえたら嬉しいです。
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「庸 正丁(21~60歳の男性)・次丁(正丁の障害者と老丁(61歳以上の男性))へ賦課された。元来は、京へ上って労役が課せられるとされていたが(歳役)、その代納物として布・綿・米・塩などを京へ納入したものを庸といった。京や畿内・飛騨国(別項参照)へは賦課されなかった。現代の租税制度になぞらえれば、人頭税の一種といえる。」wikipedia ということで貴族階級に人頭税を考えること自体がナンセンスと 考えますが・・・
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- straker505
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《国の下に置かれるのが郡だが、郡とは701年の大宝令以降の呼称であって、大化当時は評(こおり)と呼ばれていたことが判明している。つまり、日本書紀は明らかに詔の記述に手を加えているのである。これを発端として、日本書紀に残る「改新の詔」の内容について、どこまで信頼できるのか、長年にわたる議論が続いている。》wikipedia ということで、全文かどうかは不明ですが 日本書紀に改新の詔が 記載はされていたということですが・・・ 2については題意・文意がやや不明ですのでそちらで考えて下さい
- straker505
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《その後も律令編纂の作業が続けられ、特に日本の国情へいかに適合させるかが大きな課題とされていた。そして、700年(文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、701年(大宝元年8月3日)、大宝律令として完成した。律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原不比等・粟田眞人・下毛野古麻呂らである。大宝律令の完成は非常に画期的な出来事であり、これを期に「日本」という国号が法的に確定した。すなわち、大宝律令の成立は、新たな国家創立と捉えられたのである。》wikipedia ですが、前後関係が逆では? 大化改新の詔が大宝令に先行するのでは?