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今日の天声人語の短歌の意味。「子を育み居らねば」って?

今日の朝日新聞の天声人語に「身に沁みて思ふ夜のあり 戦場に曝すべく子を育み居らねば」という歌が紹介されていました。戦後にある母親が読んだものだそうです。〈育み居らねば〉の所がしっくり来ません。どのように現代語にしたらいいのでしょうか?「育てたけれどもう戦死して居ない」では変な感じだし、「戦場にさらすように子供を育てたわけではないのに・・」なのかな?文語体はよく分かりません。お願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • ANASTASIAK
  • ベストアンサー率19% (658/3306)
回答No.2

意味としては、 しみじみとわが子のことを思う夜がある 戦場に送るために産み育てたのではないのだから (何もなければ一緒にいるはずなのに) でしょう。しかし、用法は間違っていると思います。 本来は、「育み居らねば」は「育み居たのではない」という 現実とは反対の仮定を表わします。 ま、しかし、意を汲むことが大切なのでしょうが。

その他の回答 (7)

  • Ishiwara
  • ベストアンサー率24% (462/1914)
回答No.8

「居らねば」には、やや不満を感じます。「育(はぐく)みたるにあらねば」と言いたいのでしょうが、字数の関係で、やむを得ずこうなったものでしょう。その意味では、作者も「完全作品」にするために、悩まれたと思いますよ。作歌技法の観点から言えば「身に沁みて」を他の語に置き換えることは可能ですが。 意味は、すでに100年前に「けものの道に死ねよとて二十四までを育てしや」と歌われているとおりです。ただし、この妹は兄を戦場で失いませんでしたが、この母は息子を失いました。この回答を書いているだけでも胸が痛みます。

bufobufo51
質問者

お礼

有難うございました。正直、文法はよく分からないのですが何となくはわかりました。

回答No.7

#5ですが質問者さん、どうぞ御返答もしくは御裁定を願います。

bufobufo51
質問者

お礼

有難うございました。作者が戦争の時点で独身だったという設定はちょっと無理があるように思え、六番さんが言われていることがもっともらしいように思います。

  • OKAT
  • ベストアンサー率38% (247/639)
回答No.6

 質問者の意図に反する回答も出てきましたので、愚考を述べておきましょう。この短歌を評価するような質問ではなかったので、他の回答者も素直に回答していらっしゃいます。  「天声人語」の筆者がこの短歌を「戦後ほどなく」と言ったのが嘘あるかのように、また真意を読み取れず「ミスリ-ディング」であるかのように書かれていますが、時代を知らないが故の誤解です。戦後「ほどなく」は、自分が育てている子どもが戦場に送られるなど、考えられない時代であったはずです。「身に沁みて思ふ夜」があったとはとても考えられません。イラク派兵や「憲法改正」のことが問題になっている今の時代なら、このような歌を詠む人があるかも知れませんが、多分それは少数の人間でしょう。  この歌に過去や完了を表す語が欠けていることは、わたしも気づいていました。だから、正確な訳にはならないことを承知の上で、「育てていたわけではないので」と「た」を入れて置きました。  「育み居らざりしかば」とか、「育みしにあらざれば」のようにすればよかったのかも知れません。しかし、歌の「調べ」を考えた上でこのような表現に落ち着いたのではないでしょうか。  繰り返しますが、質問者はこの歌の評価を問うているのではありません。

回答No.5

これは文語だから分からないのではないでしょう。 原文では「戦後ほどなく、愛知県のある母親が詠んだ歌だ」となってます。この「ほどなく」が肝腎なところで。つまりこれが誤解のもとです。引用のしかたが不適切、というか不用意です。 「~居る」は日本人相手にあらためて云うのも妙なものですが(だって今だって使うでしょ。「しょんべん垂らしよったあ」とか。)、「~している」ということで、あえて英文法に対応物を求めるなら進行形です。完了形じゃありません。完了形の意味合いなら「していた」や「しよった」の「た」が担う、文語ならそれなりの完了の助動詞がふんだんにある、ここにはない、とだけ云えば十分でしょう。 この「母親」は現役の、新米の母親です。子供はまだ小さい。そうじゃなかったら「育てている」などとは云いますまい。戦争が終わってから産んだんです。 「育み居る」は、この「育てている」をダイレクトに、安直に文語めかしただけの代物でしょう。もしも実際に息子に戦死されていてこう云ったのなら、それは単純な間違いです。 もちろん戦争は実験している。だけどそれは気楽な一人身のことで、子供を生んでみて、育てつつあって、あの戦争のことを回想しているのです。ようやく今「身に沁みて」いくさが恐ろしく感ぜられるようになったと云っているのです。 いちおう意味はちゃんと通じます。でもくだらない歌です。歌と呼ぶのも気が引けるくらいのもので。 念のため、繰り返しますがこの歌は「育てた」とは云ってません。「育てている」と云っているのです。「戦後ほどなく」がミスリーディングなのです。

  • OKAT
  • ベストアンサー率38% (247/639)
回答No.4

 「育み居らねば」の部分は、「育み居り」という複合動詞の「未然形」+「打消」の助動詞「ず」の「已然形」「ね」+接続助詞「ば」が付き、この場合は「順接確定条件」で「原因・理由」を表します。(ので・から)  「育てていたわけではないので」となるのでしょう。  「ね」を「仮定形」とせず、「已然形」としたのは、この短歌は文語調で読まれている(短歌の場合は、現代でもその傾向が多い)からです。

  • Parismadam
  • ベストアンサー率65% (2756/4211)
回答No.3

はじめまして。 1.「育み居らねば」の部分には、文法的用法に間違いはありません。仮定の用法でもありません。下記のように分解できます。 育み:マ行五段動詞「育む」の連用形で、意味は「養い育てる」 居ら:動詞の連用形に付く接尾語で、ラ行上一段動詞。用法は接続している動詞の、動作の結果の残存・継続を表します。英語の現在完了にあたる用法で、意味は「ずっと~してきた」となります。 ね:否定の助動詞「ず」の仮定形(古典の已然形にあたる) ば:係助詞で、この「ば」が否定の助動詞「ず」の已然形につくと、上記の事実に反する意を表し、「~のに」という意味になります。この「ば」は仮定「~ならば」ではありません。仮定の「ば」は未然形に接続しますが、ここは仮定形(已然形)に接続しています。 2.従って「育み居らねば」の意味は、ご想像の通り「育てたわけではないのに」となります。動作の継続を表す接尾語「-居る」の用法をさらに明確に出すと、「育ててきたわけではないのに」となります。 3.「戦場に曝すべく」は下記のように分解します。 曝す:サ行五段活用の終止形。ここでは、江戸時代の刑罰が語源の晒し刑と同じ意味合いをもち、「辱めること」「死」を予感させる動詞として、使われています。 べく:助動詞「べし」の連用形で、ここでの用法は「話し手の意志」を表し、意味は「~するつもりで」と、下の句にかかっていきます。 4.以上を踏まえ、後半の句の全体の意味は 「戦場に送って無駄死にさせるために、わが子を育ててきたわけではないのに」 となります。 以上ご参考までに。

  • Reffy
  • ベストアンサー率32% (1317/4014)
回答No.1

「戦地に送り(ある意味)無駄死にさせるために(苦労して)子供を育てたわけじゃないのになぁ」と読んでいいと思います。

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