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神、幽霊、魂を否定する心理の底には
魂、幽霊、神、は存在しますか? という質問をすると、ものすごく断定的に否定する人がいますが、その心理のベースにあるのは恐怖でしょうか、或いは憎しみでしょうか、それとも何か別の心理でしょうか。 魂、幽霊、神、が存在するかはどうでもいいのですが、判らないことを判る(存在しないことが判る)と言い張る心理はどこからくるのでしょう。
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おっしゃる中で言えば、憎しみというよりは恐怖の方ではないかという気がします。 神を信じる人は、(違うかもしれませんが)世界は必然であり、我々は生かされているのだと主張するように思います。 神を否定する人は、世界は偶然により成り立っていて人生は自らの力で切り拓いていくものと考えるでしょう。 いずれの場合も、「信じる信じない」がアイデンティティ確立のための大きな要因のひとつになっているように思います。 それを崩されることへの怖れのために「>ものすごく断定的に否定する」といったような解釈になるかと考えます。 私は「神とでも呼びたいもの」の存在、というか摂理は認めますが、やはり人格神となると「>ものすごく・・・」の口ですね、どちらかといえば。
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- mojitto
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この質問は逆も然りですね。 (ムキになる肯定派もいる) その根底は『目玉焼きに何をかけるのか』と同じだと思います。 ソース派(僕)、醤油派、少数意見ならケチャップ、中には塩コショウで十分など、色々いると思います。 そしてこの議論では2タイプの人間に分かれます。 意地でも自分の調味料を押す人と、「どっちでもいいじゃん」と言う人です。 心理ベースとしては、自分の価値観を否定されたことによる、相手への怒りと解釈します。つまり神などの肯定派、否定派ともに、相手の価値観を変えるのに十分な根拠や証拠がなく、自分の価値観を相手にぶつけ気味です。 そうすると『お前の価値観はおかしい』『間違っている』などと無根拠で言われるのでムキになるのでしょう。 よって言い張る心理は、『ムキ』でしょうね。 (神も目玉焼きも結局、自分の立場が変わることはない) 個人的に、(特に科学的土俵で)神の有無を議論するのは、無意味だと考えています。(結局は価値観のぶつかり合いで、科学的でない) 信じたい場面で、信じたい人が信じればいいだけです。(『目玉焼き、何かけてもいいじゃん』的考え) 科学的議論における肯定派は科学というものを知らないと思いますが、科学的に存在しないとする否定派も科学の面汚しだと思います。(『悪魔の証明』の件もあるし、なにより科学で論じるものでもない)
お礼
「ムキ」というのは自分の意見の正当化という事ですね。他人を納得させられるかは別として。 目玉焼きがおいしいのと同じように、生というものに価値があるという点では両者とも同じ意見のはずですね。とすると、こだわりの点は思想も含めてどのように生きるかというところでしょうか。これはある種、美学(生の美学?)ともいえるのかもしれませんね。 ご回答ありがとうございました。
kaitara1です。自分が採用している前提からして妄想であるということに気がついているひとはそのことを恐怖すると考えれば、貴方の推理は正しいのではないでしょうか。またすべてが妄想であっても前提から発した体系に矛盾がなければそれは妄想ではないと思います。問題はそうであってもその前提が妄想であり続けることには変わりがないということで、このことを恐怖するひとは案外多数いるのではないでしょうか。
お礼
それゆえ哲学が面白いということかもしれませんね。 再度のご回答ありがとうございます。
- mijinco
- ベストアンサー率25% (87/346)
別の側面からも考えてみる必要があります。 質問する側、話し始める側の心理も見落とせません。 おうおうにして、質問する側・話し始める側は「魂、幽霊、神」を存在しているという前提で、あるいは押しつけ気味に話すことが多いという印象を持っています。 その、アクションへの反動形成もあるでしょう。
お礼
あーそれはありますね。 質問の仕方で受けての印象はだいぶ違いますよね。明らかにバイアスがかかっているとわかると必要以上に否定したくなるのは良く分かります。 ご回答ありがとうございました。
簡単にわかりやすく回答してみると。 (多くの回答が、あるので、簡略化しますが。) 結論をいうと、やはり恐怖でしょうね。 何に対する恐怖かというと、"死"が、いつか訪れることを、認めない、認めたくないという気持ちからくるもの。これは恐怖を背景と思うのですが。 もっとも、世の中は変わっていて、「俺は、いつ死んでも良い・・」と言うひとも中にはいますが、そうではなく、"真剣に"いつか本当に死が、おとづれると感じるひとは、信じるものと。 これは挫折を経験し、人生の苦しみを経験したら、ある意味理解できるのでですが、ただし、良い意味で。 ですから、人間として心の内側に向かうひとは、死が、いつかおとづれると感じるので、神等の存在に興味を持ち、信じようとするが、そうではなくて、まだ現世的な快楽、つまり外側に意識が、向かうひとは信じない傾向が、あるものと感じます。 なお、この回答、"異論"に感じるかもしれません。 ちなみに、私は肯定派。幽体離脱等も経験しているので。 以上
お礼
なるほど、 すると否定派の中には、死からの逃避行動の一つとして魂の存在を否定する、という事があるかもしれませんね。 おっしゃるように死とどう向き合うのかがポイントかもしれませんね。 ご回答ありがとうございました。
- tosikipi
- ベストアンサー率40% (6/15)
神と一口に言っても、キリスト教ではニュアンスが違うように思います。ヨーロッパの伝統的な考え方である合理主義を背景として発展した自然科学には、キリスト教の影響が大きく残っているように思います。 また、キリスト教圏の科学者が神を否定するとは限りません。 回答ではありませんが、少し気にかかったので書かせていただきました。
お礼
なるほど、利口な科学者は自分の科学的なポジションと信仰とを別と考えるかもしれませんね。或いはいいとこどりなのかな。 ご回答ありがとうございました。
人間が考えている事はすべて妄想だという説があります。この説に同意するか否かは別にして、自分が考えていることが妄想でないということを相手にきちんと説明することは意外に難しいです。相手と同じ前提を持っていなければ相手から妄想だと言われても反論できないはずです。幽霊などの場合は前提すらあやふやですから、普通の人はそういう対象について議論することを嫌がるだろうと思います。それが極端に表現された場合ではないでしょうか。幽霊は妄想の産物と言わないだけそのひとは奥ゆかしいのではないかと思います。
お礼
なるほど、 自分が見たそれが現実かどうか説明のすべがありませんね。 だから人は納得しないので、妄想だというのかもしれませんね。 霊的なものを嫌がる気持ちは良くわかります。 それと、ちょっと突っ込んでいいですか? 考えていることがすべて妄想だとしたら、それを妄想だといっている者は妄想なのでしょうか。或いはそれ以外なんでしょうか。 ちょっと矛盾がでてしまいそうですね。 ご回答ありがとうございました。
- test_
- ベストアンサー率28% (15/52)
No.4ですが、質問者さんが何かを知っていて 嘲笑うかのように反される感じがして・・・。 この質問で、何かわかったことがありましたら、 教えていただきたいのですが。上辺だけでも。 自分もひとつのセオリーに自分だけが気がついたときに、 同様の質問をすることがあります。ネタを伏せて・・・。
お礼
あれ、そうですか。そんなつもりなかったんですが気に障ったらすみません。 ただ、哲学的なことが好きなもので、つい突っ込みたくなっちゃうんです。 この質問で知りたいのは”答え”じゃなく”気持ち”ですので軽く読み流してください。 ご回答ありがとうございました。
補足
一つ隠れた意図がありました。 この質問をすることによって、極端な否定派も実は奇異な目でみられているんですよ、と示したかったと思います。
>信じているという意味ではどちらも曖昧なものですね。 便宜的であることを曖昧というのならそうなりますね。 >信じるという心理のベースには恐怖があるように思います。 >死への恐怖、霊感商法にだまされるのではないかという恐怖がその元でしょうか。 そういった要素も一部あるかもしれませんね。しかし、「~を信じる」という表現は、「~が好き」という表現に変えてみても大きな間違いではありません。そうすると恐怖という表現には違和感がありますね。感情を単純に分類して、この行動をとる場合はこの感情・・というふうに当てはめてゆくのにはちょっと抵抗があります。 >判らないものは判らないと言えるのはある意味度量があるといえるかもしれませんね。 厳密に言えば100%断定できることは世の中に存在しません。でも全てのことを判らないと言っていても生きていけないので、TPOに応じていろいろ断定するということは必要でしょう。度量ということを言うなら、つまり、そのバランスがうまくとれている人のこととでも言えるでしょうか。私のように偉そうに知ったかぶりをしている人は勿論その範疇には入りません。
お礼
人の心理とは厄介なものですね、結局はこういった一連のプロセスや心理の構造をきちんと把握しておくということが重要という事でしょうか。 再度のご回答ありがとうございました。
- avrahamdar
- ベストアンサー率17% (40/224)
第一に宗教的に認めない人です。現代科学万能教においては証明されてないものは存在していないことになると教義に定めてありますから。 この世のことを研究し見出したのが物理法則であって、物理法則に従ってこの世が出来ているわけでないと理解する知能もない非科学的思考論者です。 また同じように、論理的思考を至上とする人間にとって論理的思考をすっ飛ばしてオカルトを語る人間も存在自体が知性の冒涜であり知的生命体である人間に喧嘩を売っていると同意義ですので、お前はバカだと言いたくなるのでしょう。 ただ、無いと証明することは論理学的に不可能ですのでその点は考えを改めてください。
お礼
科学は宇宙が誕生するプロセスを説明できても、なぜ宇宙が存在するのかは説明できませんね。 そもそも、科学で扱うものではないものを、科学的でないと否定するのはナンセンスという事でしょうか。 哲学的回答ありがとうございました。
人間が見たり感じたりすることで100%断定できることはありません。例えば誰も、いま自分がQ&Aを読んでいる行為が夢や幻覚ではないと断定的に感じているでしょう。でもそれが夢や幻覚であることを完全に否定することはできないはずです。つまり断定という行為は信条という言葉で置き換えてもよいのです。神が存在すると断定する人も、存在しない断定する人も、そう断定することで色々なことがうまくいくと「感じて」いるから便宜的に断定しているのだと言えます。しかし便宜的にすぎないからといって一概に断定という行為を非難することはできません。それは生きてゆくために必要な行為だからです。目の前のパソコンが実はマスクメロンかもしれないなどと想像しながら生活してゆくのは難しいですね。 ご質問の内容は断定の背景にある心理についてですが、あらゆる感情が人によって様々な割合で作用した結果、断定(または信条)が形作られると考えるのが最も間違いのない考えかたでしょう。そういう意味でおっしゃるような恐怖や憎しみも一定割合含まれているとは言えます。
お礼
信じているという意味ではどちらも曖昧なものですね。 信じるという心理のベースには恐怖があるように思います。死への恐怖、霊感商法にだまされるのではないかという恐怖がその元でしょうか。 判らないものは判らないと言えるのはある意味度量があるといえるかもしれませんね。 ご回答ありがとうございました。
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お礼
なるほど、そうすると信念或いは信条がアイデンティティの一部分という事になりますね。神の存在がアイデンティティの存在にかかわる場合に強い否定が起こるかもしれませんね。 話は変わりますが、それが神であると認識するためには神についての知識が必要ですよね。つまりその人は神を認識する前から神とは何かを知っていたということになります。そんなことはありえるんでしょうか?その人は本で読んだ知識かもしれませんが、その本を書いた人はどうやってその知識を得たのだろうという疑問がわきます。神と神の概念が一致するのだろうかと。 個人的には神が存在したとしても認識することは不可能と思っています。 ご回答ありがとうございました。