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自己意識。様々な意見を下さい。

僕は、心理学的に言う私的自己意識が多分強いです。いつも世間体と言うよりもすごく身近な周りの目を気にしています。「お前のそんなこと覚えてねぇよ」「お前の事なんかあんまり他人は見てない」僕が気にしているようなことまでは僕は他人を細かく見ません。つまり、他人も僕が思っているほど僕を見ていないでしょう。だから時々上の二つの言葉を自分に言います。なんか周りばかり気にしている小さい自分が嫌です。図太いと言うか我が道を行く。周りのことなんて一%も考えずに行動していく悪く言えば「自己中もしくはまったく協調性がない人」、でも良く言えば「自分を持っている人です」もちろん上記は例ですよ、そこまでとは言わないが自分を変えて生きいきたい。そう思います。何でもいいので色々な意見が欲しいです。宜しくお願いします。

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  • hakobulu
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回答No.3

>悪く言えば「自己中もしくはまったく協調性がない人」、でも良く言えば「自分を持っている人です」 :これは一見正しそうで、ちょっと脆い認識のように思います。 極端な例にしても、自己中や協調性の無さと自立心とは相容れないものです。 本当の自立心は、もっと柔軟なものでしょう。 殻で防御された自立心は本物ではない、ということになります。 では何かというと、自己内面への逃避でしょうね。 格納されている自我が脆すぎるために逃避的に防御せざるを得ないわけです。 ですから、 「>周りばかり気にしている小さい自分が嫌です」とおっしゃるkouutoさんは、ある意味で強い人間だろうと思います。 いみじくも言葉にされているように「周り【ばかり】」だから良くないのでしょう。 周りのことを全く考えられなければ別の意味で困りますからね。 難しく考えずに、自分のことをもっと大事にすれば良いのです。 そうすると「周りばかり」ではなくなりますからバランスが取れるようになります。 ただ、自分を本当に大事にするということは案外難しいものです。 kouutoさんの場合、世界があってのあなたではなく、あなたあってこそ世界があるのだ、と考えれるようになるとバランスが取れるのではないかという気がします。 無論、他者にとっても同様であることはお忘れなく。  

noname#30933
質問者

お礼

僕があってこその世界、そういう自信みたいなものを持ってもいいのかもしれませんね。自立心はもっと柔軟なもの。理解力がないためかあまりここら辺の文は分かりませんでした。申し訳ありません。回答有難うございます。

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noname#194289
noname#194289
回答No.5

あなたは自分を見ている自分と観られている自分とどちらが最初にあったと思いますか。見る自分は観られる自分より後に出てきたものです。だから見る自分は実は観られる自分の部下なのです。自分の会社の社長はみすぼらしいと思わないで社長の為に会社を発展させようと考えればよいのではないですか。なにしろほかのことと違って転職できないのですから。

noname#30933
質問者

お礼

自分の部下ですか。あまり、考えにくいですが。回答有難うございます。

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.4

他人は本当に自分以上に僕のことを気遣ってくれているのでしょうか. 意識が 他人がまず自分に何をしてくれるか 他人が自分をどう思うか にいってしまう. その前に自分が相手をどう思うか考えてみませんか?

noname#30933
質問者

お礼

自分が相手をどう思うのか。回答有難うございます。

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.2

確かに自分が他人を気にしているほど 他人は自分を気にしてはいない. しかし 自分が他人を気遣う以上に 他人は自分のことを気遣ってくれていたりするものだ. 文章から察するに 他人を気にする視点が違う. 同じ気にするという言葉として表されても 相手がどう思うか気にする というのと 相手をどう思いやったらいいのか気にする というのとの違いだと思う.

noname#30933
質問者

お礼

他人は本当に自分以上に僕のことを気遣ってくれているんでしょうか?回答有難うございます。

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.1

自意識 これは、自分が何をしているか、何を考えているかを意識する能力であり、自分が何かを感じている、何かを考えている、ということを見たり感じたりする能力だ。この意味で、自分自身を世界の中のもう一つの物体、或いは主体として表象する能力であろう。しかし、意識の恐らく最も難しい性質は、とどめることのできない反射的な性質にあるだろう。つまり、私達は、自分が意識的であることを意識することができるのだが、ここでは、主体と客体の知識が逆説的に融合してしまう。 ギャラップのチンパンジーは、鏡を使って自分の顔や口の中を調べたが、このことは、彼等が自分自身の像を見ているのだと理解していることを示唆している。ここでギャラップが指摘したいのは、こんなことができるのは、自分自身に気づく能力があればこそなのであり、つまり、自分自身を世界の中に存在するもう一つの物体として表象し、それに自分の注意を向けることができなければならないということなのだ。 自己の社会的性質 面白いのは、隔離されて育てられたチンパンジーは、どれほど鏡の経験を与えられても、鏡のテストに合格しないということだ。逆説的なことに、自意識という、表面的にはきわめて個人的に思える状態が理解できるには、社会的な経験が必須であるらしい。それでも、この発見は、自意識も他の高度な認知能力と同様、深い社会的な根を持っているのだという意識の理論に合致する。この発見はまた、鏡で自己を認識する能力は、単に物理的な物体として自分を認識することだけでなく、自分を、他のエージェントや主体の中にいるエージェント、または主体として、より洗練された表象を持つことによるのだという解釈とも合致する。他者と一緒にいることと、自分の像と向き合うこととには共通点がある。鏡に写った自分自身の像を見つめることは、必然的に、視線の接触、または互いに見詰め合う経験を生み出す。他者と一緒にいることも、繰り返し視線を合わせ、見詰め合う経験を伴う。この両方において、視線を合わせることは、他者によるものであれ、自分自身によるものであれ、自分が注意の対象になっていることを意味する。恐らく、鏡での自己認知に必要なたぐいの自意識 は、自分が注意の対象になっているという経験から生じるのだ。それは、あたかも他者の注意が、私達の注意を自分自身に向けさせるようになるかのようだ。一方、猿類や他の動物達に鏡による自己認識ができないということは、類人猿と人間の心だけが、この特別なやり方でお互いに注意を向けあうことで利益を得る、何かを持っているに違いないということである。 可能な説明の一つは、社会交渉を通じて獲得される何らかの意識──特に、社会的な注目の的となる経験──が、鏡の像を自分自身として認識する能力の基礎にあるのであり、それゆえ、自分を主体として認識できるのだというものだ。この意味で、鏡による自己認識は、意図と注意を理解することに関連した、もっと基本的な能力を必要とするものなのだろう。

noname#30933
質問者

お礼

回答有難うございます。他者の注意が、注意を自分自身に向けさせるかのよう。参考になりました。すいません何を補足すればいいのでしょう?