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あそびをマジメに哲学すると

最近、社会的諸問題の根本に、あそび心の欠如が在るのではと、ふと、疑問を持ってしまいました。 抽象的で意味不明ですね、不適切な具体例ですが、以下のことからご推察ください。 西郷隆盛は征韓論に敗れ鹿児島へ帰っています、大志を抱いて上京した若者が、夢破れ帰農しました。自己実現の為の競争は、首都と言う競技場の「場」の中「ルール」を守って争われ、戦いに敗れたものにも帰る故郷がありました。ここには、「あそび」や「遊戯」の要素が残っているように思われます(正確には「余裕」かもしれませんが、面白くないので恣意的に{あそび}にしてみました)。 現在、帰農などと言う言葉はほとんど死語となっています、戦いに敗れた者は帰る故郷などありません。私たちは自分の意思に拘らず、全てを賭けた、自由競争と言うルーレットの中に生きざるを得ません。全てを賭ければ「あそび・遊戯」の要素はなくなります、真面目に、一所懸命に成らざるを得ません、こうして、我々は、一度の失敗も許されず、自己実現の精神を押さえ込み、不正に沈黙を守って生きて行かざるを得なくなったのではないでしょうか。 皆さんの、「あそび」についての哲学、私の妄想に対するご批判、その他、雑感、ご意見等ございましたらお教えください。

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回答No.8

そうですね。やっぱり、存在意義とか生活の安全とかをすべて 「負ければ失う」と思ってしまったら、あそんでるひまはないのかな。 どうなのかしら。勝つこと以外は許されないゲームをするしかなくても、 それを楽しむことはできるかもしれないって思う。 失敗したときに帰るところがない。それは、つまり 「そんなおまえでもいいよ」と受け入れてくれる場所がないということですかね。 だけど自分で、負けた自分を高く評価しつづけることができるなら、 帰る場所はなくてもいいと思うんです。 言い換えれば、自分の心の中に帰れる場所がある。 そういうふうに自分を作っていくことができたら、 辛い状況でもその中で最大限に楽しむことはできると思います。 人生の流れをゲームとして考えるなら、 たとえば就職の失敗、リストラ経験、恋愛や結婚生活の挫折などは ひとつひとつで見れば負けといえるかもしれないけど、 勝敗があるとしたら決定するのは死ぬときではないでしょうか。 ひとつ失点があったとしても、それで負けと決まるわけじゃない。 しかも、勝ち方にはいろいろあって、視野を広げ、工夫しさえすれば、 ゲームに参加した全員が勝ちになることだってあると思うんです。 だから、いろいろ挫折の要素が多い世の中と言われていても、 その中でゲームを楽しみたいと望み行動すれば、楽しめる気が私はします。

noname#15238
質問者

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mimosa2001さん、ご回答有難うございます。 >それを楽しむことはできるかもしれないって思う。 私としては、信じられないことですが、背負っているものとの一体感が有れば可能かもしれません。 個人の資質によって差異があることは認めますが、現実の外務省や、ブランド詐称の問題も個人の資質に重点をおいてしまっては、問題の解決になるのでしょうか? あそびとゲームは一寸違うような気がします、ゲームは遊びの一部のように考えています。 個人的な事と社会的なことで問題意識がずれてしまったかもしれませんが、ご回答のおかげで問題点が整理でき感謝いたしています。又よろしくお願いします。

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回答No.6

「あそび」この感覚ないとつまんないです。 世の中っていうのをたまぁ-になんだろなぁ~?なんて、ホヘ-っと、おもいふけることあります。国会のTV中継眺めててもヤイヤイヤイ・ワイワイワイなんか賑やかしいですね。ひろい意味での民主主義と社会主義が小競り合いしているようで、あぁ-なんかしんどそうだなと、傍にいる猫をひょい~っとヒザに乗せ、ついついノミ取りに夢中。ながらく顔をさげたままにしていたせいで、首がだるくなりやっと、あっ!と、日が暮れてきたのに気づくもう、その頃になるとTVでの国会中継もと-っくに終わり、夕方のニュ―ス番組に切り替わっていることよくあります。 なんでしょうね?民主主義が自由と平等をガチガチに推し進めれば軍隊影がチラホラ 社会主義が、他人のため、国民のためをこれまたガチガチに推し進めれば、独裁者の影がチラホラ~ 過去の怨霊たちがただちに今を生きる者たちめがけて憑依してきそうじゃないですか。ちょっと、オカルトぽいですか?わたしどうも怨霊は苦手で、「おぉ-こわぁ-!」怖くって、雷のピ-ッゴロゴロにもすくんじゃうぐらいなんです。そんなとき決まって、「おじいちゃん、おばあちゃん、おとうさん~♪守って!」ってこころのなかで叫んでますね。えへっ、守護霊とかだとホッ-っとするんですがね。 なんか、トンチンカンの回答になってきました。 要は、なんでもガチガチは、美味くないです。(><)マズ-☆ お餅も、ぷにゅぷにゅのやわやわが美味しいです。(*^^*)v美味しい! やじろべいです。バランスゆらゆらしながらバランスとってるかんじがいいかな? あそびもないとつまんないです。

noname#15238
質問者

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littlekissさん、ご回答有難うございます。 ぷにゅぷにゅのやわやわの癒し系の楽しい回答を有難うございます。国会中継詰まらなかったようですね、大雑把に捉えれば、政治は「政(まつりごと)」=「祭り」ですから、遊びの仲間なんですよね、それが詰まらなくなった原因は何なのでしょうかねぇ 懐古的に昔はあそびがあってよかったと思うのではなく、あそびとあそびの欠如を現在的に考えれば、少なくとも過去の怨霊に恐れることは無いのではないでしょうか。 全てはあそびであると考えた人もいますよ(←過去の怨霊?)

  • mcqgogo
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回答No.5

まずはじめに、哲学のジャンルにこの問いが出現したという事が、母性の本質を同じジャンルに問うている#3の方に匹敵する快挙と評価します。 僕はあそびをマジメに哲学すると、「粋」という言葉に行き当たると思っています。 ゲーム感覚の、殺し合いというより一方的な殺戮とも見える現代の或る戦争 自己破産や家庭崩壊に連なる無分別な遊び 目先の金銭に囚われないゆとりへの旅立ち 今日が駄目なら明日があるさ、お江戸ばかりが日本じゃないぞ 粋という言葉に照らすと、あそび心の功罪がきれいにあぶり出されると思います。 ですから、社会的諸問題とあそび心の関係では、粋な計らいの希薄さといったものが、現在のおかしな閉塞感をもたらしているというようにも解釈できます。 原子核の構造を保つ力に、引力と斥力というものがあるようですが、真面目さが引力、あそび心が斥力、そんなイメージも描けます。どちらも必要不可欠なもので、要はそのバランスによって物質が存在する、精神もまた然り。 粋という言葉は、あそび心の側からバランスの妙を伝えていると感じられます。 遊びもいいが、やることはキッチリやれ、頑張れ日本!

noname#15238
質問者

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mcqgogoさん、ご回答有難うございます。 「粋」 いいですね、よい越しの銭は持たない。 なんか一説によると、江戸は火事が多くて、お金をためるより使ってしまった方が得だという合理的精神の現れだと聞いたことも有りますが、自信はありません。 私は、「職人気質」(「ショクニンカタギ」念のため)の欠如も同じ意味合いがあるような気がします、引力と斥力定義に関しては時間が有りませんのでまた今度。 頑張って応援しましょう。

  • aminouchi
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回答No.4

fishbowl66さんがどこにお住まいになり、年齢を含めてどのような経験をなさり、どのような生活をなさっている方なのか存じ上げませんが(まあ、ここのシステムでは知らないのが当然なのですが)ご質問を見る限り、頭の中でのみ考えておられるように感じます。 一つ一つについて書くと長くなりますが、 >帰農などと言う言葉はほとんど死語となっています、戦いに敗れた者は帰る故郷などありません。 まず、これは違うでしょう。少数派ではありますが、都会の生活を捨てて農業に戻ろうという人々もおります。また、現在では各地において定住しようとする人に対する支援の試みが定着し始めておりますから、その気さえあれば都会を離れていわゆる田舎で生活することは可能です。ただし、現金での収入は半減し都会の豊かさを享受することはできません。 >我々は、一度の失敗も許されず、自己実現の精神を押さえ込み、不正に沈黙を守って生 きて行かざるを得なくなった これも違うのではないでしょうか。こういう考え方はひかれものの小唄でしかありません。 とこのように個々の言葉をあげつらうのが目的ではありませんから、本題に入りますが、確かにfishbowl66さんのおっしゃるように現代日本の都会では生活に「あそび」が足りません(無条件ではなくいろいろと限定したことに注意してください)。それを私も「余裕」というよりは「あそび」と表現したいという点では一致します。 ただ、首都を一つの競技場と捉えるとしても、そこでの競争に参加するかどうかは個人の意志によると考えております。そこに問題があるとすれば、首都圏に生まれ育ったものには「別の道」があるということを実感しにくいということでしょうか。生まれてからずっと都会の便利さや富を享受してきている為に、いわゆる田舎に他の豊かさが存在していることが判らないのです。ある意味で経験と知識の無さがそれに輪をかけ自分の選択肢をせばめていくようです。そしてこれこそが「あそび」の無さだと思います。 社会的諸条件が「あそび」を失わせているというのがfishbowl66さんのお考えであるように思われますが、私は逆で「あそび」の無さが社会的諸問題を生み出している様に思えます(私の誤読でしたらご免なさい)。と、ここまで書いて来て気がつきましたが、どうやら「あそび」という言葉の意味するものについて、誤解があるのかもしれません。 端的に言って「帰農する余地」がないことを「あそび」がないと考えるか(fishbowl66さんの説)、「帰農する余地」はあるけれどそのような知識がないことを「あそび」がないと考える(私の説)かの違いではないかとも思えます。 (こう書きながらモノローグの無意味さを感じております。) 結論的に書けば、 現代の社会問題の根底に「あそび心」の無さがあるという見解には賛成。 ただし、その「あそび」という言葉の内容には見解の相違がある。かつ、帰農うんぬんについてはfishbowl66さんの主張の根拠とはならないであろう。 ということでしょうか。

noname#15238
質問者

お礼

aminouchiさん、ご回答有難うございます。 帰農うんぬんは、確かに不適切な喩えだったのですが、具体的な喩えを出さないとこの問題の意味を伝えられないと考えたわけです、最近の都会生活から農村生活への志向も帰農と表現するとは気が付きませんでした。 >「帰農する余地」はあるけれどそのような知識がないことを「あそび」がないと考える(私の説) 確かに遊びは精神的な面が重要ですから、物質面を強調する私の喩えが良くなかった事は認めざるを得ませんね。 私も、あそびの無さが社会的問題の根本だと私も思っていますが、社会の条件があそびをなくしていることも事実のような気がします、原因が結果となり結果が原因になっているのではないでしょうか。このスパイラルを如何に断ち切るか、マジメに考えては答えが出ないのかもしれません。ちなみに、都市部の出身ですから頭の中で考えるだけと言われると反論のしようがありません。

  • chihoko
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回答No.3

●とても感性の高さを感じさせる 存在の本質にかかわる設問だと  人間の感覚の可能性を再認識いたしました。  あそびとはそもそも いかなる存在にとっても必要な要素ではないでしょうか?  ねじはあそびがあるからこそ ねじ穴にはいるわけですよね。  あそびがなければ入りません。またあそびが大きすぎても機能しません。  ほどよいあそびが ネジとネジ穴に その存在の妙を具現させます。  現代社会において マクロにそのあそびを感覚してみると  たしかに「あそび」が希薄である恐怖のような悪寒のような電流が  わたしの脳髄を走ります。  現代のまちがいは fishbowl66さんのご指摘された「あそび」の  希薄化に由来していると 言うこともできるのかもしれません。  ただ その「あそび」をどう世界にしみわたらせるか  その手法とか発見は 並大抵ではできないようにも感じます。  劇的な「精神的革命」のような発露が必要だとも感じます。  考えられる道は 出尽くしていると言える一面もあるからです。  ご回答ありがとうございました。

noname#15238
質問者

お礼

chihokoさん、ご回答有難うございます。 あそびの必要性に関して、ねじの機能を持ち出す感性にはまことに敬服の至りです。 >ただ その「あそび」をどう世界にしみわたらせるか ここを突かれるのが一番の不安でしたが、見逃してくれませんでしたね、この質問が真面目でなく遊びだったことに助けられています。

noname#263444
noname#263444
回答No.2

たかが遊び、されど遊び。 う~む。実に奥が深いです。 余暇、息抜き、歌舞音曲、儀式、祭礼などなど種々の要素を含んでいるように思われます。 というわけで、参考文献を紹介いたします。

参考URL:
http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/socio/jugyo/981hoho/bunken.html
noname#15238
質問者

お礼

nyozegamonさん、ご回答有難うございます。 たたが遊びにあれほど多くの文献があってはお手上げです。 尻尾を振って一目散に逃げることにしました。 卑怯者と責めないで下さい。

  • shibako74
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回答No.1

おはようございます。 えっと、質問はなんだろうと考えていたのですが、 >我々は、一度の失敗も許されず、自己実現の精神を押さえ込み、不正に沈黙を守って生きて行かざるを得なくなったのではないでしょうか。 であるなら、それはYes&Noでしょう。本人がそう思ってる限り、沈黙を破る勇気が無ければそれがその方の答えだし、逆の答えは自己実現の精神を押さえ込まない、または沈黙を破る勇気がある(声を発することにためらいがない人には勇気すら必要ないですね)人にはあなたの言う遊びはどこにでも見出せると思います。 今は帰農がない、ですか...でも戦いに敗れて国に帰った人が余裕があるか、「負けても帰るところがあるかぁ」などと思ったのかなあ。恥ずかしくて帰られない人も、いや負けちゃったよ、と言える人も、当時にも現在にもいたと思いますよ。 こんな回答、ダメですか?失望させちゃってたらすいません...自信はなしです。

noname#15238
質問者

お礼

shibako74さん、ご回答有難うございます。 質問を長々書きすぎてかえって判りにくくしたようです。基本的に質問内容は、頭の2行なんですが、鈴木宗○さんにしても、ブランドの詐称の指示に対して拒否できないことも、外務省の体質が変化しない点もあそび心の欠如のような気がするのです。shibako74さんは家庭や子供を背負っていられるかどうか判りませんが、鈴木○○さんを弁護する気はありませんが、彼にも背負う者が多く必死の判断ではと推察します。簡単に止めれる人は他の道があり、又今度やり直しも可能です、これは遊びの要素だと私は考えていたのですが。 帰農と言う言葉が戦後暫らくは実際に使われていたと言うことは「場」と言う遊び的要素があった証拠のような気もしたのですが難しいところでは有りますね。 ご回答有難うございます、今度はもっと判り易くしなくちゃと反省しています、懲りずにお願いします。