- ベストアンサー
江戸時代の大地主
鶴岡藩というと坂田の本間家が大地主として有名ですが、ウィキペディアの記事では、肥後熊本加藤家の子孫が羽州鶴岡酒井家の領内で、五千石相当の大庄屋として存続したとありました。 当時、本間家の他に、万石・数千石クラスの大地主(商人・豪農)はどれくらいいたのでしょうか? 本間家に匹敵、準ずる大地主となると誰になるのでしょうか?
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
noname#49020
回答No.2
その他の回答 (1)
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1
お礼
山林は今でこそ価値がない山も多いですが、昔は樵さんもいて立派な財産だったのでしょうか。私の実家も山を持ってるみたいですが、手入れを全くしていないので価値はゼロに等しいと思います。 十万両を藩に貸すというのもすごいですね。 3、40万石クラスの大大名の総収入に等しいお金を一商人が成せたものなのですね。 山林は農地改革にかからなかったのですね。 >このようなお宅は、江戸時代は郷士だったかも そうでしょうね。 本間家は藩政にも関与し、三百石の士分とされたようですから堂々たるものですね。 生駒家はおそらく途中までは交代寄合ではなく普通の旗本だったのではないでしょうか。1780年に家治より領地の矢島に赴くことを許され、以後参勤交代をしたとウィキペディアにありましたから、私の想像ですがこの時から交代寄合になったのではないかと思いました。 備中浅尾一万石の蒔田家も分知により1万石を割って普通の旗本となっているようです。 幕初の頃は交代寄合という家格・地位はまだなかったようで、1万石未満の小名が大名並みに江戸に参勤していたという既成事実から後に大名に准ずる交代寄合という家格が生まれたといった感じなのでしょうか。 交代寄合は伺候席も与えられて「1万石未満の大名(小名)」という扱いだったようですね。ただ交代寄合には官位は与えられてなかったようですし、大名との細かな差異もあったようです。ただ例外的に、家康の命で代々、久能山霊廟の門番をしていた榊原家(駿河久能1800石)は交代寄合ながら従五位下に叙任されていたようです。 >玉虫色にしておけば、武家は見る箇所次第では満足感が得られるでしょう。 おっしゃるようにそこが幕府の武家統制の妙味なのでしょうね。 わざわざ名門の家々に高家という特別の家格を与えて、禄は少ないながらも国持大名以上の官位を与えることで名門のプライドを満足させて儀典を取り仕切らせているところなども流石だと思います。 ありがとうございました!
補足
過日の生駒家についての質問、また早く締め切りすぎていたようですね。すみませんでした。