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大昔の人々は世の中のことを知っていたのですか?
新聞など普及する以前のことですが都などの大都市ならともかく 地方などの人々は世の中のことをどれくらい知っていたのでしょうか? 例えば天皇や将軍の名前とか、明治以前には数年毎に変わっていた元号の名称とか 赤穂浪士の討ち入りみたいな大事件とかですが、もし知っていたとしたら どういう経緯というか伝達方法で知るのでしょうか?
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NO.3です。 NO.3の回答文を見て、誤解されている方がいらっしゃるかも知れませんので、もう少し詳しく説明させていただきます。 質問者さんの質問の趣旨は、「江戸時代における地方の人々の情報の入手方法と認知度がどうであったのか」であろうと推測します。 そして、個々の例すなわち「天皇や将軍の名前」「元号」「赤穂事件」を挙げて、わかり易い説明を求められたのだと思います。 情報の伝わり方についてはNO.3で申しております通り「情報の伝わり方はNO.2さんのおっしゃる通りです。」です。 江戸時代の田舎のお百姓さんは「天皇や将軍の名前」は知らないでしょう。 今の天皇陛下のお名前は明仁ですが、現代人でも100%知っているとは言い難いでしょう。またご承知のことと思いますが、平成天皇という呼称は存在しません。○○天皇という呼び方は、お亡くなりになった後の追号(おくり名)です。ですから、ご健在のうちに、そのように呼ばれることはありません。正式には今上天皇ということになります。 江戸時代には多くの天皇が即位されましたが、後年我々が○○天皇とお呼びしていますものは、これは亡くなられた後につけられたものです。 江戸時代の庶民が天皇をどうお呼びしていたかは知りません。明治時代の庶民は「天子様、天子さん」と呼んでいた実例を知っていますので、天子様であったのかも知れません。江戸時代の京の庶民が「禁裏はん」と呼んでいた例があるようです。 まあ、時代や場所によっていろいろ呼び方はあろうかと思いますが、片田舎の百姓にとっては「天子さん」、「禁裏はん」くらいを知っているのが関の山で、名前まで知っているということはないと思います。 将軍についても同じです。「公方様」くらいは知っていたでしょうが、「源朝臣綱吉」の「綱吉」を片田舎の百姓が知っていたとは思えません。また、エライ人の名前を下々が口にすることには憚りがありますし、知っておく必要性もありません。 元号については、片田舎の百姓でも読み書きのできる人は、知っていた可能性が強いですが、当時の地方の百姓の識字率を想像すると、知らない人の方が多いでしょう。知っていなくても、普通の百姓仕事には差し支えありません。 赤穂事件については、片田舎の百姓でも「話好きの人」は知っていた可能性があります。 片田舎で瓦版を売っても儲かりませんので、恐らく口コミで伝わったんでしょうね。話好きでこういうものに興味のある人は聞き入ったことでしょう。興味のない人は聞いても右から左でしょうね。 以上です。 >忠臣蔵が、田舎では、インテリじじぃしか知らないなんて、考えにくいですね。 ・・・こんなことは、NO.3では一言も言ってません。大体赤穂事件がニュースとして、当時の国民の何パーセント知っていたか、わかるわけがないでしょう。私はどれくらいなんていい加減な回答はできません。 赤穂事件のニュースと後年発行上演の「忠臣蔵」とは内容も時期も違います。 >私の結論。江戸時代の情報の伝わりは、電信、電話が発明されていた、明治並だと思います。 ・・・これは感情の入った文学的表現だと思いますが、もし本当にそうだと思っていらっしゃるのであれば、大きな間違いでしょう。おおせの電信電話、それに新聞、学校教育、識字率の向上、廃藩置県、交通機関の発達・・・情報のボリューム、伝達速度、国民の理解度、これらは元禄と明治では文字通り「隔世」です。 まあ、「元禄時代でも今の我々が想像するよりは意外とマシ」という意味であれば納得します。
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- xxa31a
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#6:追記 書き足しですが、江戸時代中期からは、農村から都市へ、出稼ぎ・奉公に行かせることが一般化してきたことも、文化の伝達ルートとして重要な役割を担ったかと思います。跡取り以外の子女が都市へ長期間派遣されるようになっています。出稼ぎがその高い死亡率によって人口抑制の意味を持っていたという速水融の見方にも言及しておきます。公衆衛生発達前の都市は疫病が多く寿命が長くありませんでした。このようにいうと残酷に聞こえるかもしれません。しかし、人口の増大を防ぐことは、余剰を生むことで文化の発展に寄与しています。 なおムラの中には自治的な組織があり、ムラを中心とする意味での「世の中」の事はここらで出回っていたのではないかと想像できます。むしろ今日まで受け継がれた「世間」という考え方自体にムラ社会の影響がありますまいか。
- Pinhole-09
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同じような質問が前にもあり、それにも書きましたが、 有名な神坂次郎著「元禄御畳奉行日記」を見ると、尾張藩の200石格の畳奉行が赤穂浪士の討ち入りを知る迄に、十日前後掛かっているようです。 江戸の事件については尾張藩に関係ないものは、殆ど書かれていないようです。 藩の上層部は知っていても、下まで伝わらないのでしょう。 京都の有名な堀川の女敵討ちで、6月初めの事件を知るのは29日です。 ただ藩内の事件を知るのは早いです。 一般の庶民も同様で、神坂氏は「この時代人々はいつも情報に飢えていた。城下の裏長屋の片隅で起こった、小さな事件にでも、目の色をかえてとびついた。」 と書いている通り、身の回りに近い情報には詳しいが、遠方の話はあまり知らなかったと思います。 町屋の瓦版の普及もまだまだだったからです。 他地方の話は商人、旅人の話に頼るしかありません。 時代が移り、後期から幕末になると出版物の普及、寺子屋、識字率の増加で情報の伝播は飛躍的に広く、早くなりました。 初期には、藩の役人から伝えられた庄屋や大百姓しか知らなかった、天皇、将軍、年号等も知れ渡り、全国の情報も少なくとも主要な町村には、行き渡ったと考えられます。 ただ幕末の江戸の情報屋の「藤岡屋ばなし」には江戸近辺の情報がほとんどで、地方に庶民の関心が少ないのは元禄と同様のようです。
度々すみません。 もうひとつ、ついでに。 三内の流し、旅回りの役者、地方興行の力士、富山の薬売り、近江の商人こんな人たちは、レポーターであり、ニュースキャスターでもありだと思います。 必要な薬を求めながら、「ときに、お江戸は、どうだった?」の会話は、必然かと、思います。
2及び4です。 例えば、将軍様のご崩御の最中にお祭りをしてたら、あとで、どんないちゃもんをつけられるかわからないでしょ。 と、いうことです。 江戸で、大火事があった。 じゃあ、木材を売りに行こう・・商いの基本です。 赤穂浪士の事件は、一ヶ月もしないうちに日本中が知っていたと思います。 戦国の智将、策士は、噂を流す作戦をよくとりました。 例として「○○は、,●●に寝返ろうとしている」と。 これが、また、あっという間に広がります。 疑心暗鬼になった殿は、○○を疑い、せっかく、手の内にある片腕を自ら葬ってしまう。・・・とく聞く逸話です。 天子さまが、どなたであろうと、生活には、直に響きませんが、領主の次に将軍は、関心事です。 赤穂討ち入り事件のような、一見勧善懲悪、お上のなされることにあてこすり、前代未聞の47人パーティは、江戸だけだったら、数日もしないうちに、洟垂れ坊主まで、知っていますね。
- xxa31a
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たとえばフランスでも、19世紀辺りの教育普及より前は、国土が六角形の形であるとかいうことは庶民は知らなかったし、フランス語といえる言語を大部分の人間が使っていたわけでもなかったということです(ホブズボーム参照)。 情報伝達力が上がり教育環境が整備される前の庶民にとっては、農民から領主までの狭い社会が世界観だったとは聞きます。言語も狭い社会で変化を遂げますから、日本でも藩が違うと会話が通じないこともあったようです。しかし地方でも江戸時代でも中期以降は藩校や寺小屋で教育が普及してきます。内容は儒教色が強いです。頼山陽の日本外史など、国家としての歴史教養が広まったことが倒幕運動の下地にあったとも解釈されます。
カイワレの風評被害というのは、文明の利器、電話などの利用ではなく、「ねぇ、カイワレって、恐いらしいね」が、広まったものです。 ひとりの女子高生の何気ないうそ「○○銀行が危ないらしいね」が広まって取り付け騒ぎも同様、人の口というものは、早いものです。 「将軍さま、ご逝去」の早馬、早飛脚が、街道を駆け抜ければ、人々は、「何事だろう」と、情報の内容を知ろう、知りたいと思うものです。 細部、難しいことまでは、ともかく、かなりのスピードで、伝わった説をとりたいと思います。
情報の伝わり方はNO.2さんのおっしゃる通りです。 そこで、江戸時代の片田舎のお百姓さんが、どの程度のことを知っていたかと想像して見ました。 天皇や将軍の名前は知らんでしょう。知っておく必要はまったくなかったと思います。 天皇や将軍という呼び方もしていなかったはずです。また、その地位に関する認識の程度もぼんやりとしたもんだったと思います。 将軍は「公方様」ということで殿様よりエライ人。 天皇については、地方の庶民がどういう呼び方をしていたか、知りませんが(明治には天子様と呼んでいました)、神様に近いような人くらいなものでしょう。 元号についても、読み書きできる人は知っていた可能性は強いですが、知らない人は多かったと思います。 赤穂事件については、話好きのお百姓さんは知っていた可能性はありますね。
伝播ということですよね。 例えば、赤穂浪士討ち入りのような大事件は、江戸で、「瓦版」という、新聞の記事になり、あっという間に江戸中に知れ渡ります。 字の読めない人は、伝え聞きで知ります。 ニュースソースが限られて書き手の心理そのままがダイレクトにつながります。 綱吉の圧政を快く思っていなかった人々は、赤穂を支持し、(どう考えたって、赤穂の殿様が悪いし、仇討ちという名のテロ行為なのに)吉良側を悪と断罪します。 流通、旅人によって伝わります。 テレビ、ラジオが普及する前は、旅人にお茶を出して、最近のニュースを聞いたりして、情報を取り入れるのです。 世の中が不安な時は、特に、人々は、情報には、敏感です。 聞き出すという行為で、積極的に情報を入手しさらに近隣に伝えたのです。 各大名には、江戸の屋敷があり、常駐員がいます。 国許に知らせる事態が起きたら、馬の乗り継ぎなどで、案外速く伝えられます。
すいません、質問に対して的を得た回答ではないんですが、 その土地の方言・その土地の料理・その土地の風習etc・・・、 マスコミや交通の便が不便で全く他の土地の情報がシャットアウトされているからこそ生まれたその土地の独特な文化が生まれたんだと思います。 余談ですが水戸の光圀なる水戸黄門様は日本全国の人が知っていますがなぜでしょう・・・(笑)
お礼
全国の人々が将軍どころか副将軍も知っていることになりますね でも天下の副将軍を水戸のご隠居と山奥の老婆がどういうルートで知っているのでしょうね?
お礼
皆様、ご回答ありがとうございました だいたい疑問が解けました