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抵抗勢力の殲滅は可能だったのか?
織田信長は長島攻略にあたり一揆勢2万余を皆殺しにしたといいます。 長島は3つの大川の合流するデルタ地帯ですから多くの島から形成されていました。 このような地勢で2万余もの虐殺を行えば無人地帯となったでしょう。 当時の農本社会で農耕人口の消滅は生産の断絶を意味したと思いますがこれらの土地が生産に復帰したのはどのようにして可能だったのでしょうか? なんらかのシステムのようなものがあったのでしょうか? 強制移民などは当然考えにくいのですが・・・ 自然な人口移動では長時日を要したとおもわれます。 同様に坊主の持ちたる国加賀の平定時、1万余の一向宗徒を皆殺ししていますが、この場合は近所の山野に逃げ込み隠れる道があったでしょうが、農耕の復活には時間がかかったでしょう。 領主の前田氏は収入減にどう対処できたのでしょうか? 戦争に殺人は付き物ですがこのような徹底殺人が繰り返されたからにはそれに対するシステムが存在したのではないでしょうか?
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お礼
ご回答有り難うございます。 確かに信長は既存宗教に憎悪ともいうべき思想を抱いていた事を感じます。 兼如がそれに対し恐怖を感じたのもどうりです。 信長が皆殺しという手段を見せしめとして執ったことは理解できます。 土地の生産力を無くしてもあえて実行したのですから。 やはり復旧のシステムはなかったのですね。 放置して自然に任せる方法をとったのですか。 太閤検地帳の記載で確認できるとよいのですが・・・ その後この地の領主となった人は頭を悩ませた事でしょう。 有り難うございました。