- ベストアンサー
パレスチナとイスラエル
パレスチナとイスラエルとの間に歴史的などのような問題があったかを調べたいのですが、どのような本を見たら良いですか? また、そのような内容が載っているサイトはありませんか?
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
授業で習ったことなのですが参考にまで・・・ ヨーロッパ史に、特権的な扱いを与えたのは、ヨーロッパの地理的な条件が関係していると考えられる。ヨーロッパの主導性こそが全世界のすべての地域に、密接な関係を樹立し、新しい利益と機会をもたらした。 cf・ヨーロッパ文明の唱えるグローバル化は、確かにその他の地域に、利益と機会をもたらしたが、文明を受け入れる準備のできてない国は、後進国となり資本主義経済の受け皿となった。 1942・コロンブスアメリカ大陸を発見。 アメリカ大陸は、ノルウェー、イングランドのバイキングによって11世紀初頭に発見されていた。アメリカ大陸本土でも、実際にバイキングが生活をしていたとされる遺跡が発見されている。では、コロンブスのアメリカ大陸の発見はどんな意味を持つのだろうか? コロンブスの発見は、ヨーロッパ文明にとってのアメリカ大陸の発見と言い換えることができると思う。しかしインディアンは、そこに住んでいたわけだから、いい迷惑である。土地を奪われ、虐殺されその上アメリカという国まで勝手に建国されたのだから。こういった歴史の裏側にも私たちは目を向けないといけないと思う。 1948・バァスコ・ダ・ガマ喜望峰発見。 ヨーロッパ文明の基層 (1) 地理的環境 1小さい 2多様性 3気候がマイルド しかしこの事はどの地域においても同じことがいえる。そう日本においても。 ↓ 小国家と都市国家これはヨーロッパの歴史を語る上で欠かすことができない。 ギリシアで生まれた地域共同体と住民自治の考え方が、現在世界の主流となった、民主主義の元となった 都市国家ベネチアは、16世紀に地中海全域を支配した。 民族とは同じ言語を用いる共同体である。 しかし民族の定義は17世紀あたりからおかしくなる。 国家(最初に始めたのはフランスだと言われている)が国語を用いて民族の統合 を考えたからである。 生物学的に民族を見た場合民族間に違いはあるのだろうか?たしかに、人種というも のは、存在する。しかし民族間に生物学的な違いは認められない。 ヨーロッパの言語 インド・ヨーロッパ語族 1.ロマンス語系(ラテン語の方言) イタリア(トスカーナ)、スペイン(カスティリア)フランス(パリ) 2.ゲルマン語系 ドイツ、オランダ、英語 3.スラブ語系 ロシア、ポーランド、セルビア 4.その他 バスク(スペイン)、フィンランド、ハンガリー ◆ローマ法王(Pope)〔世界文明史〕 日本語では、「ローマ教皇」ともいう。イエスの使徒ペテロが、ローマにおいてキリスト教会の指導性を確立したことにちなみ、カトリック教会ではローマ司教を、最高の司祭とみなす。実際には、六世紀のグレゴリー一世のころから実質をもちはじめ、中世を通して世俗世界にも圧倒的な権威を誇った。宗教改革によって、プロテスタントからは拒絶されたが、近代のカトリックにあっては依然として、強い求心力を示し、現代世界でも一〇億人の信徒の首長として、隠然たる影響力を誇る。枢機卿の集会で選挙され、バチカン市国を本拠とする。 ◆大航海(Grand Navigation)〔世界文明史〕 一五世紀以降にポルトガルとスペインによってリードされた、世界の海洋に向けた探検・交易の航海。ヴァスコ・ダ・ガマのインド航海とコロンブスの大西洋横断を契機に本格化した。イギリス、フランス、オランダなども後を追い、アメリカ大陸やインド洋、東アジアや太平洋へのヨーロッパ人の大規模な進出を促した。産物や宗教の交流、技術や地理知識の増大を促して、世界史の一体化を促進したが、反面、植民地化や疫病の伝播などの負荷をもたらしたのも事実である。 ◆インディオ(Indio, Indian)〔世界文明史〕 南北アメリカ大陸の先住民の総称。大航海の初期にヨーロッパ人がアメリカをインドと誤認したことによって、かれらは「インド人」とよばれる。一五世紀までにすでに高い文明を建設していたが、ヨーロッパ諸国によって植民地化され従属的地位に追いやられた。一九世紀に中南米諸国が独立した際にもインディオの解放は実現せず、北アメリカのインディアンも白人によって居住地を奪われた。ようやく二〇世紀になり、先住民の権利保護の名のもとで、地位の回復と文化の復興が着手された。 ◆ユダヤ人(Jews)〔世界文明史〕 セム系言語を使用するヘブライ部族のことだが、中世以降については一般にこの名称でよばれる。古来、パレスチナの土地に居住していたが、ローマ帝国の迫害によって離散(ディアスポラ)を強いられた。しかしその悲運にもかかわらず、固有のユダヤ教を軸としながら民族的アイデンティティを保持してきた。「ユダヤ人」とは、そうした人びとに対する他称語である。ヨーロッパにおいては商業や金融業に進出し、「裏切りのユダ」にかこつけた、キリスト教徒による抑圧や憎悪をうけつつも(反ユダヤ主義)、地歩をかためていっ た。ナチズムによる迫害と大虐殺、シオニズムによるイスラエル国家の建設など、二〇世紀においても現代政治の深刻な側面にかかわるところが多い。 ◆イスラム文明〔世界文明史〕 信仰としてのイスラム教を核として、文化と生活原理を包含した巨大な文明。七世紀に成立したイスラム教は、またたくまに西アジアに大帝国をきずき、のちに地中海からサハラ砂漠、イラン・インドにまで及んで、共通の宗教文化を建設した。ダマスカス・バグダード・カイロそしてのちにイスタンブールなどは信仰ばかりか政治、学問、技術、芸術の中心となり、きわめて高度な水準に到達した。古代のオリエント・ギリシャ文明の遺産をうけとり、東方との交流からも刺激をうけて、当時にあっては世界史をリードする役割を果たした。西欧の近代化のなかで後進的地位に甘んじたが、二〇世紀後半になって自己意識に覚醒し、独特の信仰儀式やイスラムとしての連帯感のもとで、現代世界に強いメッセージを発するに至った。 ◎21世紀への視点〔世界文明史〕 文明の価値感、日本からの発信 ●二一世紀を迎えて、人類は、そして日本人は、確かに新しい課題に直面しつつある。二〇世紀のある時点まで、世界の諸国はかなり共通の価値観によって、自分たちの進路を設計してきた。もっとも、その普遍性といえども、ほんの一〇〇年ほど前に確立されたものだったが。 ●つまり、一九世紀以降の世界をリードした西欧文明の価値観を基礎とし、いかにしてこれを発展させるか、もしくはこれに接近できるかを激しく競ってきた。もちろん、日本はその競争の優等生だった。発展途上国はといえば、成功と失敗の交錯のなかで苦悶してきたというのが実状であろう。他方で、西欧文明の祖国であるヨーロッパ諸国は、アメリカ合衆国とソ連という超大国のはざまで、みずからの道のゆくえを模索していたようである。 ●ところが、世紀末から新世紀にかけて事情が変化した。冷戦の終焉もあって、世界中の諸文明・国家は、それぞれの存在意義や展開の方向について、自前のポリシーをみつけださざるをえなくなった。国家や社会のあり方、言語や宗教、そして生活のスタイルまで、異なった価値基準を、あらためて意識の表面にはっきりと表示する必要が生まれたと思われる。この事情から、二一世紀は「諸文明の衝突」の時代になると予測する人もいる。諸文明は衝突を繰り返すのか、それとも共存を実現できるのか。いまはまだ、予断を許さない状況にある。 ●ここでは、世界史上に登場した諸文明の概略を通観したうえで、それらを比較して、個々の文明の特質を確認するかたわら、またその文明が相互に接触と競合を演じてきた図柄を、追求してみたい。それらはみな、一見すると過去の事象であるかにみえるが、実は過去から現在を通して未来にまで貫通する、人類文明史上の局面や焦点を表すものであろうから。 ●これらの追求が二一世紀の開始にあたっての、日本からのメッセージになれば幸いである。これからの日本人は、ただこの列島の姿だけに注意を集中しただけでは、世界の重要な一員として生存していけるわけはないのである。世界文明史への視点が、ことさらに求められるゆえんである ★対アフガニスタン国連制裁〔中東問題〕 国連安全保障理事会は一九九九年一一月一五日、アフガニスタンの八割を実効支配するイスラム原理主義勢力タリバンに対する経済制裁に踏み切った。制裁の内容は、アフガニスタン領内での国際旅客便の離着陸禁止と在外資産の凍結。タリバンが、九八年八月に起きたケニア、タンザニアのアメリカ大使館同時爆破の首謀者とされるオサマ・ビンラーデン( 別項)をかくまい、国連の身柄引渡し要求に応じなかったため、制裁を科されることになった。安保理はまたタリバンに対し、イスラム原理主義の国際テロ組織へのキャンプ地の提供や武器・訓練などの支援の即時停止も要求した。 国連制裁発動の背景には、中央アジアで影響力を拡大するタリバンの封じ込めをはかるロシアや中国の隠れた思惑もある、と指摘され る。タリバンの最高指導者ムハンマド・オマル師は九九年一一月、読売新聞の書面インタビューに答えて「制裁を受けても(ビンラーデンを引き渡さないとの)立場は変わらない」と述べた。 中東に真の平和はいつ訪れるのか ●二〇世紀後半、世界最大の地域紛争となったアラブ・イスラエル紛争の解決は、世紀末ぎりぎりのところでパレスチナ国家独立の可能性を残しながら、二一世紀に持ち越された。三唯一神教の共通聖地「エルサレム旧市街」、なかでも「神殿の丘(イスラム側呼称はハラム・アッシャリフ)の帰属問題がネックになった。もっとも、紛争の中で最後まで交渉がもたついたシリア・トラックも、妥協を拒否したアサド・シリア大統領が世を去り、その息子で三〇代前半のバッシャール大統領が登場したことから、早期に解決に向かいそうだ。問題は、アラブ世界の民主化の遅れだろう。パレスチナ国家にしても、アラファト議長の専制政治が早くも懸念されている。共和制アラブ諸国では、まずシリアにみたように専制的指導者の終身支配体制が固定化し、その権力が子弟に世襲される「王朝化」が一般化しはじめている。イラクやリビアだけでなく、民主化が比較的進んでいるエジプトでも、ムバラク大統領の息子による権力世襲が噂されはじめ た。一方、イスラエルはパレスチナ人社会の民主化の遅れをきらい、同社会(国家)を当面イスラエルから「隔離」する方向だ。 ●一九八〇年から八年間のイラン・イラク戦争と九一年の湾岸戦争をまねいた真因は、世界の最重要戦略地帯、ペルシャ(アラビア)湾の「力の真空状態」にあった。この「力の真空状態」はまず一九七一年イギリス軍のスエズ以東撤退で出現した。域内軍事大国イランのパーレビ王政がこれを埋めようとしたが、七九年のイラン革命で同王政そのものが崩壊した。これにつけいったのが、湾岸の覇権奪取に野望を抱く、もうひとつの域内大国イラクのサダム・フセイン政権だった。同政権はイランに侵攻してイラン・イラク戦争を引き起こした。さらに、九〇年クウェートに侵攻したが、湾岸戦争でアメリカ軍中心の「多国籍軍」と戦って敗れた。ペルシャ湾の「力の真空状 態」は湾岸戦争を経て、新たな湾岸の「警察官」アメリカの軍事進出でいちおう解消した。しかし、キリスト教・ユダヤ教国家アメリカの湾岸内軍事プレゼンスに、域内イスラム勢力の反発は日増しに強まっている。対岸のサウジアラビアを抱き込んで域内諸国によるペルシャ湾の安全保障体制構築をめざすイラン、これに近く国際社会に復帰するイラクがからみ、アメリカとの間で三つ巴のつばぜり合いが展開されよう。 ◎21世紀への視点〔ロシア〕 ロシアの外交戦略と旧ソ連構成国のゆくえ ●ウラジミル・プーチンが、二〇〇〇年五月、正式に二代目ロシア大統領に就任した。プーチン首相の後任にはミハイル・カシヤノフが選出された。初代ロシア大統領エリツィンは八年間大統領を務め、六カ月の任期を残して、一九九九年一二月三一日突然辞任。後任にプーチン首相を指名した。大統領代行である。そして二〇〇〇年三月の大統領選を経て、プーチン大統領代行が正式に大統領になり、五月にクレムリン内で盛大な就任式を挙行した。 KGB出身のプーチン大統領には謎の部分が多く、早くも「プーチンノロジー」という研究方法がもてはやされている。 ●二一世紀、ロシアおよび旧ソ連構成国は、どのような国になっていくのだろうか。九一年一二月にソ連邦が崩壊する前後に各構成国はいちおう、独立国になった。そのなかで、ロシア民族を中心とするロシア連邦は、ほかの旧構成国の宗主国としての地位を占め続けている。旧ソ連邦に暴力的に組み込まれたバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)は、早ばやとロシアから離反し、CIS(独立国家共同体)に加わる意思はみせていない。他の一二の共和国はロシアを中心にCISを形成しているが、中央アジア五カ国も民族的な違いとイスラム教という宗教の違いから、徐徐にロシアから離反しつつある。ザカフカーズ三国(アゼルバイジャン、グルジア、アルメニア)もソ連邦崩壊後、ロシアと距離を隔てつつある。特にアゼルバイジャンは石油の利権争いから、ロシア離れを早めている。スラブ民族系の三国ウクライナ、モルドバ、ベラルーシは、以上の国と比べると、離反度がやや小さい。特にベラルーシは、経済的、特にエネルギー面で自立が難しいところから、ロシアに再接近し、単一の経済・防衛システムをめざしている。 ●対外的にはNATO拡大に反対して、近隣のベラルーシ国と共同の防衛戦略を組み、バルト三国やウクライナがNATOに加盟しないよう外交戦略を展開している。プーチン大統領は是是非非的な対アメリカ外交を展開し、対中国、対北朝鮮、対中東外交に取り組み、軍事大国としての勢力の保存に傾倒するようになってきている。日ロ関係については、エリツィンがクラスノヤルスクで約束した北方領土を解決しての平和条約の締結は二〇世紀中には不可能となり、二一世紀にずれ込むことになった。 ★2001年の新語〔ロシア〕 ★プーチノロジー(Putinology)〔ロシア〕 プーチン学のこと。プーチン大統領がKGB出身であるところから、「謎」の部分が多く、グラスノスチ(情報公開)の時代になって も、クレムリノロジー的な研究が必要になってきた。アメリカではそれをプーチノロジーとよび、ロシアではプーチノミカといっている。 ソ連時代には情報が少ないので、儀式証明法というクレムリノロジーが使われたり、推測をふんだんに取り入れたソビエトオロジーが使われたりした。 ★七管区制(Seven large federal districts)〔ロシア〕 就任まもないプーチン大統領は、二〇〇〇年五月一三日、全国の共和国や州などのロシア連邦構成体八九を七つの「行政管区」に分けて管轄する新たな行政管区を創設する大統領令に署名。中央の統制強化策で、反抗的な地方自治体の首長を抑え込むのがねらい。 七つの行政管区は次のとおり。(かっこ内は中心都市)。中央(モスクワ)、北西(サンクトペテルブルグ)、北カフカス(ロストフナドヌ)、沿ボルガ(ニージニノヴゴロド)、ウラル(エカテリングブルグ)、シベリア(ノボシビルスク)、極東(ハバロフスク)。管区の新任者七人中四人がKGBまたは警察の出身者。 ★クルスク原子力潜水艦事故(Kursk submarine disaster)〔ロシア〕 二〇〇〇年八月一二日、コラ半島沖三五キロメートルの北緯六九度四〇分、東経三七度三五分のバレンツ海で沈没したロシア原子力潜水艦(オスカーII型、全長一五四メートル)。一九九四年に就役。魚雷部分での内部爆発という説が強い。乗組員は一一八人で絶望。八九年四月にはノルウェー沖でコムソモレッツ(乗組員四二人)が、さらにその前にもロシア原潜の沈没事故が起きている。 ★コムナルカ(Kommunarka)〔ロシア〕 共同住宅の意味から転じて共同墓地のこと。一九三七年前後のスターリン粛清で犠牲になった人びとのゲットーの意味。ソ連邦が崩壊して、各地のコムナルカがやっと発掘されはじめた。スターリン粛清の犠牲者は、その数四〇〇〇万近くで、スターリン暗黒時代に射殺されて、公式に記録されている犠牲者が八〇万人である。KGBの当時の秘密警察NKVD、現在のFSBが、この追放にたずさわってきた。ふつう、殺害はFSB(ロシア連邦保安局)の前身KGBビル(ルビヤンカ)の地下で行われたが、一日数百人の殺害を行った三〇年代のピーク時には、モスクワ郊外のNKVDの土地で行われ、そのまま埋葬された。その代表はブトワ村である。九九年になって、コムナルカの管理はFSBから教会に移された。その時の長官がプーチン現大統領。 ★カシヤノフ現首相(Kasyanov, M.Russian Prime Minister)〔ロシア〕 一九五七年一二月、モスクワ州ソンツエヴォ市に生まれる。モスクワ自動車・道路大学卒業後、旧ソ連国家計画委員会(ゴスプラン)勤務を経て、九五年に大蔵次官に就任。対外債務畑を歩む。九九年ステパシン内閣で蔵相に抜擢され、二〇〇〇年一月のプーチン大統領代行兼首相によって、蔵相兼務のまま第一副首相に就任。プーチン大統領就任により、後任の首相に指名され、五月一七日下院により正式に任命された。 ★マネージ地下モール(Manezhnaya Square Mall)〔ロシア〕 クレムリン横のマネージ(調馬場)に、七万平方メートルの敷地に地下三階の巨大なショッピング・センターが一九九七年一一月に出現した。九四年からモスクワ市が当初予定の八億ドルを大きく上回る総工事費をかけ、シャネルやグッチなどのブランド店から高級レストランや外食店まで整っている。総店舗数一三〇。九七年九月のモスクワ建都八五〇周年の一大イベント会場になった。九九年八月、爆破事故が起こり多数の負傷者をだした。 ▲ロシア政界のキーパーソン〔ロシア〕 ◆エリツィン前大統領(Yeltsin, B.Former Russian President)〔ロシア〕 ロシア連邦初代大統領。一九三一年生まれ。ウラル工科大学を卒業後、六一年に共産党に入り、七六年スベルドロフスク州党第一書記。八五年四月中央政界入りし、八五年一二月モスクワ市党第一書記。八七年一〇月党指導部を批判し、市党第一書記を辞任。政治局員候補からもはずされる。八九年の人民代議員選挙で返り咲き、九〇年ロシア共和国最高会議議長に就任。同七月には離党。九一年六月ロシア共和国大統領に当選。九六年六月の第二回大統領選にも勝ち、約八年間大統領を務めた。病気がちで政治生命が危ぶまれながら、エリツィン皇帝(ツアーリ)とよばれたこともある。九九年一二月三一日、エリツィンは任期満了前に退任を決意。「退任した大統領および家族の保障について」の大統領代行令を要求し、大統領の不可侵権、いわゆる不逮捕条例を獲得して、プーチンに権限を委譲した。二〇〇〇年四月の調査(対象一五〇〇人)では「ロシア史で果たしたエリツィンの役割」について、六八%が否定的、一八%が肯定的、一四%がどちらともいえない、であった。エリツィン一家の汚職問題では、スイスのゼネコン会社マベテックスとアメリカの銀行ボニー (Bank of New York)との関係が報告されている。特に次女のタチアーナ・ディアチェンコはユーロ・カードの使用が発覚し、ファミリー(ロシア語ではセミヤー)の賄賂がとりざたされている。タチアーナは九七年六月からエリツィンの大統領顧問(イメージ担当)となり、二〇〇〇年一月三日解任された。 ◆ゴルバチョフ(Gorbachev, M.)〔ロシア〕 初代で最後のソ連大統領。一九三一年三月スタヴローポリに生まれる。小さい時から働きはじめ、五二年に入党。党の推薦でモスクワ大学法学部に入学。卒業後、共産主義青年同盟で働き、党専従になる。スタヴローポリ地方の党第一書記を経て、七一年党中央委員に選出された。七九年政治局員候補、八〇年政治局員となり、八五年三月、チェルネンコ書記長の死去にともない、書記長。ペレストロイカ ( 別項)とグラスノスチ( 別項)の政策を推進。九〇年三月初代ソ連大統領。九一年八月の「三日間クーデター」以後、急速に政治勢力を失い、九一年一二月事実上失脚。 ◆レベジ(クラスノヤルスク知事)(Governor of Krasnoyarsk region, Lebed, A.)〔ロシア〕 一九九六年六月のロシア大統領選に出馬し、エリツィン、ジュガーノフに次いで第三位の支持票を獲得した退役中将。エリツィン陣営の説得で決選投票ではエリツィン側にまわったレベジは、大統領特別顧問に任命され、またロシアの軍・治安関係を統括する安全保障会議書記に任命されてチェチェン紛争終結に努めたが、九六年一〇月一七日解任された。レベジは一九五〇年生まれ。フルンゼ名称軍アカデミー出身。九二年六月から九五年六月までモルドバ駐留第一四軍事司令官。九六年の解任後は在野で「ロシア国民共和党」をつくり、九八年五月に地元マフィア、ブイコフに招かれてシベリアのクラスノヤルスク地方知事選に出馬し、当選を果たして中央政界に復帰。弟のアレクセイも隣のハカシア地方知事。クラスノヤルスクは、東シベリアの軍事地域で、九七年一一月、エリツィン=橋本龍太郎首相 (当時)の「ノーネクタイ」会談のクラスノヤルスク合意で一躍有名になったところ。面積二四〇万平方キロメートル。人口約三〇〇万人。 ◆ジュガーノフ(Zyuganov,G.A.)〔ロシア〕 ロシア共産党委員長。一九九六年のロシア大統領選でエリツィンの対抗馬となる。四四年、西ロシア・オリョール州生まれ。オリョール国立教育大学卒。六一年から農業高校の教師を勤め、六七年から党専従。八九年から九〇年までは党中央委員会宣伝部副部長。九〇年、ロシア共産党創設に参加。九三年から現職。九六年と二〇〇〇年三月の大統領選では第二位の票を獲得。 ◆ステパシン(Stepashin, S.)〔ロシア〕 一九五二年生まれ。旧ソ連邦内務省高等政治学校、軍事アカデミー卒。七三~九〇年、旧ソ連内務省治安軍勤務。レニングラードの内務省政治学校で教壇に立つ。九一年にロシア共和国連邦安全保障局副局長、九二年からロシア連邦安保省次官、議会「左派」連合調整官、国家安全保障機関検討委員会委員長など歴任。九五年四~六月、ロシア連邦保安局長官。九八年四月からキリエンコ、プリマコフ内閣で内相。九九年四月から第一副首相を兼務。九九年五月一二日、プリマコフ首相が突然エリツィン・ロシア大統領によって解任され、かわって首相に任命される。しかし、九九年八月九日に解任となり、わずか三カ月のロシア首相。現在は下院議員。 ◆プリマコフ(Primakov, Y.M.)〔ロシア〕 一九二九年一〇月二九日生まれ。プリマコフは、学者、評論家、情報マン、スパイマスターである。モスクワ東洋学研究所卒、モスクワ国立大学大学院に学び、経済学博士。最後は旧ソ連邦(九一年からロシア)科学アカデミー正会員。著書も『アラブ諸国と植民地主義』『ナセル時代のエジプト』など、アラブ・中東関係が多い。中東の専門家。 九八年九月首相に任命される。九九年五月一二日、エリツィン大統領によって解任された。後任の首相にステパシンが任命された。九九年八月にルシコフ・モスクワ市長の要請を受け、プリマコフ元首相は「祖国・全ロシア」の代表に就任し、二〇〇〇年の大統領選の候補に推薦されたが、辞退した。現在は下院議員。 ◆チェルノムイルジン(Chernomyrdin, V.)〔ロシア〕 約五年間(一九九二年一二月~九八年三月)、エリツィン大統領のもとで首相を務めて、九八年三月二三日に解任された。一九三八年四月生まれ。クイブイシェフ専門学校卒。石油・ガス関連企業に勤めた後、旧ソ連ガス工業省次官(八二~八三年)、チュメン・ガス企業連合長(八三~八五年)、ガス工業相(八五~八九年)、ロシア天然ガス企業「ガスプロム」社長(八九~九二年)。九九年、古巣の 「ガスプロム」へ戻り、会長。 ◆ベレゾフスキー(Berezovsky, B.)〔ロシア〕 オリガルキのひとり。数学の専門家から車の販売会社「ロゴヴァス」や自動車会社「アフトヴァス」、石油会社「シブネフチ」や航空会社「アエロフロート」を所有する大財閥。マスメディアもORT(公共テレビ)、TV-6、「新イズベスチア」「独立新聞」などを所有。エリツィン前大統領一家とも親しく、政界にも深く関与し、自らもCIS(独立国家共同体)事務局長。九九年三月、逮捕の決定がなされ、事務局長を解任される(逮捕は取り下げ)。マスメディアの獲得には熱意を示し、ロシア公共テレビの株式を四九%所有し、実質的にはオーナー(残り五一%はロシア政府所有)。「独立新聞」紙も九九年には「コメルサント」紙も所有した(株式の一五%保 有)といわれている。九九年一二月の選挙で北コーカサスのカラチャイエヴォーチェルケッシアから下院議員に当選したが、プーチンの方針に反対して、二〇〇〇年七月下院議員を辞職。 二〇〇〇年四月にはベレゾフスキーが最有力株主とされる航空会社「アエロフロート」の資金を不正に流用した容疑で逮捕状が発行されたが、逮捕はとりやめになった。 ◆グシンスキー(Gusinsky V.)〔ロシア〕 新興財閥のひとり。一九五二年生まれ。独立系メディア・グループ「メディア・モスト」社の社長。二〇〇〇年六月一三日、国家財産 (一〇〇〇万ドル相当)の横領罪で逮捕され、四日間身柄を拘束された後、釈放。検察当局は起訴を「証拠不十分」として、突如取り下げた。 「メディア・モスト」は、テレビNTV、ラジオ「エホー・マスクヴィ(モスクワのこだま)」、新聞「セヴォードニャ」、週刊誌『イトーギ』をもち、ロシアで最も反エリツィン、反プーチンの路線を貫く。チェチェン戦争では批判的な報道がめだつ。特に、NTVの人気の風刺人形劇「クークルイ」は、反プーチン、反エリツィン的で、チェチェン報道でも辛辣な政府批判を繰り返し行っていた。 ◆ブレジネフ(Brezhnev, L.)〔ロシア〕 一九〇六年一二月、ウクライナのカーメンスコエ(現ドニェプロジェルジンスク)のロシア人家庭に生まれる。小さい時から働きはじ め、三五年にドニェプロジェルジンスク冶金大学を卒業。冶金工場の技師になったが、政治の道に進み、地方・州の党書記などを経て、五四年カザフ(現カザフスタン)共産党第一書記。六〇年最高会議幹部会議長。六四年フルシチョフを失脚させ、党第一書記。六六年に書記長と改名。非フルシチョフ化を推進。八二年一一月死去。二〇世紀最大の葬儀でレーニン廟のそばに葬られた。九九年にブレジネフの孫アンドレイ・ブレジネフが「全ロシア共産主義運動」を結成。 ◆フルシチョフ(Khrushchev, N.)〔ロシア〕 一八九四年四月にクルスク県カリノフカ村に生まれる。小学校卒で炭鉱や工場で働き、一九一八年に入党。党組織を登りつめ、五三年三月のスターリンの死去後の八月、中央委員会第一書記。五六年の第二〇回党大会でスターリン批判をし、中ソ仲たがいの要因をつくっ た。六四年一〇月一四日、後継者のブレジネフらのクーデターで解任され、七一年九月失意のうちに死去した。息子はアメリカで政治評論活動。 ◆スターリン(Stalin, I.)〔ロシア〕 一八七九年一二月、グルジアのゴリ市で生まれる。ゴリの神学校で学び、トビリシの中等ロシア正教神学校に進学するが、学生運動に加わり、放校処分。逮捕と逃亡を繰り返し、一九二二年にレーニンに推されて党書記長に選ばれる。レーニンの後継者として、約三〇年間旧ソ連を支配。特に三七年ごろの恐怖政治で、人びとを暗黒の淵に追いやった。五三年三月五日死去。第二次世界大戦で旧ソ連を勝利に導いた指導力は評価されている。九九年にスターリンの孫エフゲニー・ジュガシビリが「労働ロシア・ソ連軍将校(通称スターリン連 合)」を結成。 ◆レーニン(Lenin, V.)〔ロシア〕 一八七〇年四月生まれ。カザン大学中退。シベリアに流刑、のち海外亡命。一九一七年の二月革命後に帰国、一〇月革命を成功に導き史上初の社会主義政権を樹立。初代の人民委員会議長(政府首班)。「ソ連社会主義の父」。 レーニンは一九二四年一月二一日、アテローム性動脈硬化で死去。一九二九年から三〇年にかけて「赤の広場」に黒の斑岩と赤の花崗岩でつくられたレーニン廟(Lenin's Mausoleum)に現在も安置されている。下院議会でレーニンの遺体をサンクトペテルブルグにあるレーニン家の墓地に葬ろうという意見が出されたが、下院第一党の共産党(ジュガーノフ委員長)が反対して、実現していない。 ◆ロシア正教(Russian Orthodox Church)〔ロシア〕 ギリシャ正教の一派。革命前のロシアではほとんどの人がこの信徒。九八八年にキエフのウラジミル公が正教をロシアの国教と定めた。一九八八年には、ロシア正教会はモスクワやキエフで一〇〇〇年祭を盛大に祝った。ロシア正教の教会は現在、旧ソ連全土で約七五〇〇もある。モスクワが最も多く四六、キエフが六、サンクトペテルブルグは四。信者数は約四五〇〇万人。ロシア正教会の総主教はアレクセイ二世。 ●ロシアの多数政党(multi-political parties in Russia)〔ロシア〕 ソ連邦時代は共産党の一党独裁であったが、ソ連邦崩壊直後多数の政党が乱立、一九九三年一二月の第一回下院議員選挙時(議員の任期は暫定的に二年)には、約一〇〇〇の政党・組織(うち二一が候補者名簿を提出し、一三が参加資格を獲得)が結成された。九五年一二月一七日の第二回選挙(この時から通常の四年任期)では四二の政党・組織が届け出を出した。この時点から定着した党は、「ロシア共産党」(ジュガーノフ)、「ロシア自由民主党」(ジリノフスキ ー)、「ヤブロコ」(ヤブリンスキー)、「ロシア農業党」(ラプシン)など。このとき、エリツィン大統領の肝煎りで、中道右派連合の「我が家ロシア」(チェルノムイルジン)と中道左派連合「調和」(ルイプキン)がつくられ二大政党化への調整がはかられたが、左派連合はまとまらなかった。九九年一二月の第三回選挙を前に、反エリツィンを掲げた「祖国」(ルシコフ)と「全ロシア」(シャイミエフ)の中道左派連合、「祖国・全ロシア」が勢力をもたげ、元首相プリマコフを担ぎあげている。これに対し中道右派は「新勢力」(キリエンコ)、「正義」(チュバイス)、「若きロシア」(ネムツォフ)が右派連合を結成している。この派が「我が家ロシア」や「進めロシア」(フョードロフ)を誘ったが、拒否され、大同結合は棚上げ。下院選挙直前にロシア共産党(ジュガーノフ)とロシア農業党(ラプシン)の左派連合も分裂したが、エリツィン、プーチンの肝煎りで「統一(メドヴェージ)」党(ショイグ)が結成され、この与党が九九年下院選で野党ロシア共産党に次ぐ票数を獲得した。 ◆カトリックの教会現勢〔現代宗教〕 カトリック中央協議会は一九九九(平成一一)年一二月末現在の現勢を発表した。信者数は漸増し、九〇年と比較して一万四八一四人増えて四四万三六四四人となったが、逆に聖職者・修道者・神学生数は七六六人減って九三五八人となった。聖職者・修道者・神学生数の減少は、外国の宣教師の死亡や本国への帰還によるもので、日本籍司祭の増加が追いつかないためという。 ◆チベットの活仏、出国〔現代宗教〕 二〇〇〇年一月七日、チベット仏教カギュ派の最高位の活仏カルマパ一七世が中国チベット自治区を離れ、インド北部に亡命政府をおくダライ・ラマ一四世のもとにいることが明らかになっ た。ヒマラヤを越えて徒歩でダラムサラに到着した。 活仏とは生まれ変わってきた生き仏を意味する言葉で、最高の仏教者は菩薩の化身である。そのために解脱の境地に達しても衆生救済のためにあえて解脱せず、すべての衆生が解脱するまで何度でも生まれ変わってくるという思想に基づいている。 ダライ・ラマ一四世も活仏であるが、ダライ・ラマ一四世の所属するゲルク派がチベット仏教における最も優勢な宗派であるのに対して、カルマパ一七世は四大宗派のひとつカギュ派の支派カルマ派の最高位に位置し、チベットにあたえる影響は、ダライ・ラマと比較すると小さいと考えられる。 出国の理由は明らかではないが、自由を束縛された、とするものから、より高度な仏教教育を受けるため、西洋にチベット仏教をアピールするためなど、さまざまな説がみられる。中国政府は政治的な配慮から批判を控え自発的な帰国を待つとしている。 ◆神の十戒復古運動信者の大量焼死事件〔現代宗教〕 二〇〇〇年三月一七日、ウガンダのカヌング村で神の十戒復古運動の教会に火がつけられ、五〇〇人余りの信者が焼死した。 教団は、この世が終わり別の日に引き継がれ、神の十戒を抱いた者だけが新たな世に移ることができると説き、一九九九年一二月三一日にこの世の終わりが来ると予言した。しかしながら聖母マリアが火の化身として迎えに現れることはなく、信者の間に不満が噴出し、寄付した財産の返還を求める声が高まっていた。 信者は黒と緑の服を着て、広い敷地にサトウキビやトウモロコシを栽培し、牛やニワトリを飼っていた。九八年、地方行政府の立ち入り検査を受け、教団の学校の閉鎖命令を受けていた。 カヌング村以外の拠点でも遺体が発見されており、死者の数は一〇〇〇を超えた。 ◆東京モスク新築〔現代宗教〕 二〇〇〇(平成一二)年六月、東京都渋谷の住宅街に大規模なイスラム教のモスクが新築され た。戦前日本に定住したトルコ人の施設が老朽化し、大モスク再建を条件に跡地をトルコ共和国に寄付し、新たに東京モスクが建築された。最大収容人数は二〇〇〇人ほどで、金曜日には集団礼拝が行われている。モスクは一般にも開放されており見学することができる。 ◆キリスト教(Christianity)〔現代宗教〕 イエスを神の子キリストと信ずる宗教。西暦紀元直後のパレスチナに、預言者たちが待望したメシア(救世主)が、いまここに出現したと信ずる集団が登場した。メシアとして崇拝されたの は、人びとの病を治し、当時のユダヤ教のあり方を厳しく批判した若き宗教家イエスだった。この初期キリスト教の中心信仰は、はりつけによって死んだ後、復活した神の子キリストによる救いということであった。キリスト教の教えは、このように救いをもたらすものであるために、福音(悦ばしき知らせ)とよばれる。 ◆聖書(Bible)〔現代宗教〕 キリスト教の聖典は新約聖書(New Testament)と旧約聖書(Old Testament)である。新約とは、新しい契約のことで、神がイエス・キリストを通して、まったく新しく啓示した人類救済の誓約の意。旧約とはイエス以前に神がイスラエル民族を通して啓示した救済の誓約の意。しかし旧約は、また、ユダヤ教の聖典でもあり、神ヤハウェが、いかにイスラエルに対して恵みを与えたかを、書きつづったもの。 ◆預言者(prophet)〔現代宗教〕 旧約聖書の重要な部分を占める預言書には、それぞれの預言者の言葉が集録されている。元来、ヘブライ語やギリシャ語の預言者とは、神の言葉を耳にして、それを人びとによばわり告げるもの、という意味をもつ。旧約の預言者の歴史は古く、また預言者にはすべてエクスタシー(恍惚・忘我)現象がみられるとし、カナァンから伝播したとする説がいちおう有力ではあるが、むしろこれは全人類的現象で、地域・文化・歴史にまったく関係がないともいう。旧約の預言者のうち、早い時代の者はいずれも、神を正義の神とみて、神の要求する正義をイスラエルが実行しないならば、神はイスラエルの求める救いと栄えとをもたらさず、死と亡びの禍いを与えるであろう、と警告した。しかし他方、神よりの恵みを求めてやまない願いは、その恵みをもたらす者の出現を待ち望む預言者をはぐくむに至った。メシア(救世主)待望の思想を説いて悲運のイスラエル民族を慰め励ます後期の預言者たちである。 ◆黙示録(アポカリプス)〔現代宗教〕 Apocalypse(黙示文学、啓示文学とも訳される)の思想的構造は、(1)世界の終末、(2)新しい世界の二つからなる。民族、教団等の危機に際して、その集団を包む「世界の終末」を告げることによって現在の苦難に耐えしめ、将来に次元の異なる「新しい世界」が出現することに、未来の希望をもたせるための記述である。一般にその集団に属する者のみが理解でき、属さない者には難解な言葉がつづられている。旧約聖書の『ダニエル書』、新約聖書の『ヨハネ黙示録』などが代表的なものである。 ◆ギリシャ正教(東方オーソドックス教会)(Greek Orthodox Church)〔現代宗教〕 キリスト教はパレスチナに発生して、主として当時のローマ帝国の領土に広まったが、七世紀になるとパレスチナはイスラム教徒の手におち、それに先立ちローマ帝国も三九五年に東西に分裂して、教会の統一もくずれだした。その後多くの曲折を経て、一〇五四年にローマ教会の指導権から分離したのが、ギリシャ正教である。この分裂は、教義・教会制度上の問題のほかに、地理・政治・文化的原因によるところが大きい。はじめはコンスタンチノープル(ビザンチン)を中心としたが、一四五三年、東ローマ滅亡に際してロシアに移った。現在主にギリシャなど東欧諸国に分布し、カトリック教会、プロテスタント諸派と並んで、キリスト教界を三分する。日本ではハリストス正教会とよび、ロシアのニコライによって一八六一(文久一)年に伝えられた。東京のニコライ堂で知られている。東欧の社会主義体制の崩壊によって、勢力回復が著しい。世界中に一億六〇〇〇万人の信徒がいるとされている。 ◆カトリック(旧教)(Roman Catholic Church)〔現代宗教〕 ローマを中心とし、古代末期から中世にかけて主に西欧に広まってきたキリスト教。カトリックとは普遍、公の意味で、それだけがキリストの教えを継ぐ唯一の正しい教会であると主張する。ローマの司教は、早くから教義、教会行政のうえで優位に立っていたが、しだいにその権限を伸ばし、やがて教皇(法王)とよばれて、現在では完全に中央集権的な教会体制をつくりあげた。バチカンの教皇庁は枢機卿(cardinal)などをおいて一種の宗教国家をなしており、全世界のカトリック教徒を統治している。概して保守的傾向が強く、儀礼を尊重し、マリアや聖人の崇拝も行っている。世界中に九億を超える信徒がいるとされる。日本へは一五四九(天文一八)年に、フランシスコ・ザビエルによって伝えられ、天主公教会、一般に、吉利支丹(きりしたん)といわれた。 ◆解放の神学(theology of liberation)〔現代宗教〕 中南米諸国では人口の約八五%がカトリック教徒であるといわれるが、そのうちの尖鋭な進歩派の思想が解放の神学とよばれている。ペルーのグスタボ・グチエレス神父によって一九七一年にリマで出版された書物の題名からきている。単に精神面での救済だけではなく、悲惨な境遇にあえぐ民衆を非人間的な社会条件から解放し、物質面でも救済しなければならない。それが、被抑圧者の友であり解放者であったイエス・キリストの道だ、と主張する。また、抑圧された民衆の生活に密着した宗教生活を営むため、キリスト教基礎共同体の構築が試みられている。法王ヨハネ・パウロ二世は、解放の神学はマルクス主義に近いとみて、一時禁止の方向をとろうとした が、その後、部分的容認の方向に転じている。 ◆ローマ法王(Pope)〔現代宗教〕 全カトリック教会の最高位の聖職、かつバチカン市国の元首。ローマの司教として、使徒の頭ペテロの後継者でありキリストの歴史的代理者であるとされる。原語は、「父」を意味するが、一〇七三年、グレゴリウス七世がローマ司教の特称であるべきことの宣言を行った。現在の法王は一九七八年に選ばれたポーランド生まれのヨハネ・パウロ二世である。日本カトリック教会の公称では教皇という。 ◆プロテスタント(新教)(Protestant)〔現代宗教〕 一六世紀にルーテル、ツビングリー、J・カルビンらの宗教改革で、ローマ教会に反抗(プロテスト)して成立した教会。カトリック教会の教義(ドグマ)中心主義に対して、個人の信仰に中心をおく。また、儀礼を簡素化して聖餐と洗礼だけにした。アメリカに伝わり、多くの教派に分かれた。ルーテル派、カルビン派、英国国教会派、再洗礼派、メディスト派およびユニテリアニズムなどに大別できる。全世界に約四億人の信徒がいるとされている。 ◆英国国教会(Church of England)〔現代宗教〕 イギリスにおける宗教改革は国王ヘンリー八世の離婚問題を契機として、ローマ教皇の宗教的、政治的支配権を拒否するという形で進められた。一五三四年の議会において首長令が成立、エリザベス一世の時代には、国王は「聖俗両域の至上の統治者」とされ、改革された国家教会が確立した。現在では、カンタベリーの大主教が首位聖職として国王の戴冠式を執行し、国政上の発言力も強い。 この系統に属する世界各地の教会をAnglican Church(日本では聖公会)とよぶ。ローマ教皇の教権と統治にそむいた点ではプロテスタント的であるが、使徒継承の信仰を護持する点ではカトリック的である。日本の聖公会は一八八七(明治二〇)年に組織・成立し、立教大学、東京聖路加病院なども経営している。 ◆ピューリタン(清教徒)(Puritan)〔現代宗教〕 一六世紀後半、英国国教会の宗教的圧迫に反対し、また同時に、社会の腐敗堕落を嘆いて、プロテスタントの精神を徹底させようとした人びとをいう。教会や社会を清浄にしようとはかったところから、この名がある。一六〇二年に独立教会を創立したが、英国国教会から迫害されたの で、信教の自由を求め、一部はオランダに逃げ、メイフラワー号に乗ってアメリカ大陸に渡っ た。ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)とよばれる人たちである。彼らはあらゆる辛苦に耐え、開拓を行い、アメリカ合衆国建国の基礎をつくった。感謝祭(Thanksgiving Day)はこの人びとの労働をたたえることに始まったといわれる。イギリスでは、O・クロムウェルが熱心な信徒で、クロムウェルが共和政治をしていた時代には、信仰が許されたが、王政復古するとまた迫害され、ついに国教会から分かれて組合教会、長老派、バプテストの諸教会をつくるに至った。 ◆エキュメニズム(ecumenism)〔現代宗教〕 教派、教会の相違を超越し、全キリスト教徒が、一致結束をはかろうという、世界教会主義。このような主張をもった世界教会運動(ecumenical movement)は、いろいろな形で展開されている。プロテスタント各派の合同やカトリック教会とギリシャ正教の和解促進もこの運動の成果といえるし、YMCA、YWCAなどの活動もそのひとつとみられる。一九四八年にWCC(世界教会協議会World Council of Churchs)が結成された。最近完成した日本語共同訳聖書も、この運動をいちだんと促進することになろう。 ◆YMCA(キリスト教青年会)(Young Men's Christian Association)〔現代宗教〕 キリスト教の信仰を中心にして、青年の精神的、身体的向上をはかる団体。創始者はイギリスのジョージ・ウィリアムスという洋服屋の青年。世界各国に急速に発展し一八八〇(明治一三) 年、日本にも伝来。世界各国の青年を結ぶ国際的運動である。 ◆YWCA(キリスト教女子青年会)(Young Women's Christian Association)〔現代宗教〕 YMCA同様イギリスに起こり、クリミア戦争によって、勇気と犠牲的精神に目覚めたイギリス婦人によって提唱された。婦人の精神的、身体的向上をはかる。日本では一九〇三(明治三六)年に成立。 ◆洗礼(バプテスマ)(baptism)〔現代宗教〕 キリスト教の入信の儀式。その起源はイエスが「バプテスマのヨハネ」により洗礼を受けたことに始まる。「父と子と聖霊との御名により」罪を清め、キリストと結び、新しい生命に生きる聖式。バプテスマの語は、「水に浸す」という意味のギリシャ語に由来し、その方法は全身を水にひたすもの、首に水滴をたらすものなどがある。 ◆統一教会〔現代宗教〕 世界基督教統一神霊協会をさす。韓国人の文鮮明が「創始者」。宇宙の根本原理(神)はひとつであり、この原理を説き明かして、全宗教を統一し、平和世界を建設すると主張する。この布教活動から原理運動ともよばれる。日本では一九六四(昭和三九)年、宗教法人の認可を受け た。特に大学、高校生の間に研究会組織が結成されて活動に熱中するので、「対策父母の会」も結成されて社会問題化した。また韓国で「合同結婚式」を挙行し話題をまいた。この原理運動・統一教会は、反共産主義の国際勝共連合と連携しており、KCIA(韓国中央情報部)からの資金援助を受けたと報道されたこともある。八四年七月には、文鮮明教祖がアメリカ連邦最高裁の脱税容疑有罪判決(懲役一年六月)に基づき、連邦刑務所に収監されたという。これを、信教の自由を侵害する宗教弾圧だとして抗議する運動も、日米その他、世界各地で展開された。 ◆エホバの証人〔現代宗教〕 正式名称は、「ものみの塔聖書冊子協会」(Watch Tower Bible and Tract Society)。旧 教、新教のいずれにも属さないキリスト教系の一派。一八七〇年ごろアメリカで成立、日本には一九一二(大正一)年に入っている。キリストはすでに再臨しているとして終末の到来を説き、独特の聖書解釈を行う。兵役拒否、刺激物の摂取方法など、世俗生活となじまない厳格な倫理規範を強調する。また、輸血の拒否などでしばしば話題になっている。世界で約四〇〇万人、日本では、一七万人以上の奉仕者が戸別伝道にあたっているという。 中東和平とアフガン 私は、先生の講義を聞いて、少なからず歴史や世界に対する認識が変わりました。 今世界では、テロのことが取り立たされています。確かにテロそのものは憎むべき行為であると私自身考えています。しかし、アメリカやイギリスのアフガンに対する攻撃は納得できません。アフガンは、貧しい国だと聞いています。一概には言えないと思いますが、貧しい国は、ヨーロッパの作り出した、資本主義システムの副産物だと思います。世界ではグローバル化が叫ばれていますが、これは果たして正しいことなのでしょうか?グローバルの名の下にさまざまな文化が、追いやられています。こうした中ニューヨークで起きたテロは、本当に悲惨な事件ではありましたが、授業を聞いて学んだことは、ある面では正しいことが、必ずしも全てではないという事です。
その他の回答 (2)
サイトよりも本を読んだほうがはっきりします。まずは高校のせかいしの教科書でも読んでみてそれから始まると思うよ。そうしないとわからないことが多くなるから。あるいは世界がわかる宗教社会学入門という本でユダヤ教やイスラム教のきげんをまなんだほうがよりいっそうわかるはずです。
- Tirelo-Setshaba
- ベストアンサー率35% (28/79)
検索サイトで検索すればヒットします。 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/1670/ 一字一句違わない質問をしている人がいるので(No.256150)、その人への解答を参考になさってもいいと思います。
お礼
お礼が遅れてしまいもうしわけありません。 長々と返答ありがとうございます。