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学校制度改革の必要性と期待される効果
最近の子供達の発達の段階は時代と共に変化し、現在の義務教育の6・3制は合わないという考え方から、4,3,2年で区切るという試みが行われる小中一貫校ができました。 他にも道徳と特別活動を一つの科目に統合した「市民科」という授業をつくった学校もあるようです。 子供達の発達の段階が現在の状況に合わない、という考え方からのような改革が行われたり新しい取り組みがされているようですが、それらがふまえている「現在の子供達の状況」というのが、具体的にどのように考えられているのかがいまいちよくわかりません。 そして、改革はそのような子供達にどう影響すると期待されているのでしょうか? まとまっていなくて申し訳ありません。答えづらい質問だと思うのですが是非よろしくおねがいします!
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以前塾の講師をしていて思ったことですが、小学高学年と中学一年生は、私にとって一番教えやすかったです。中学二・三年生は中途半端に大人びたところがあって、屁理屈で我侭を補強しようとするところがあって、扱いにくかったです。 4・3・2で区切るというのは、私の感じる、子どもの扱いやすさの程度の区分にあっています。小4以下はまだ幼く依頼心が残っています。自主的なことは期待できません。小5は自信があって元気です。小6は自信が落ち着きに変わっているようです。中1は自信のなさがあって、比較的素直に言うことを聞きます。中2では自信が過信になっているような気がします。反抗的です。中3は自信があるだけでなく反抗したってしょうがないというところにいるようです。極めて主観的ですし、一面的ですが、ざっとこんな印象が私にはあります。 しかし、6・3の体制の中で、彼らはそのような成長の段階を表現するのであって、肉体年齢に依存しているのではないと思います。つまり、区切られた中での高学年のものが主体的で自信を持っており、低学年のものは依存的で自信にかけるところが生じるのだと思います。 体制を変えることで、成長の度合いは、小4↑、小5↓、小6↓、中1↑、中2↓、中3→と感じられるようになると思います。行政が教育問題に手をつけるときには、その仕組みをいじる以外にないのでしょうか。もちろん表面的には違った結果が現われるでしょう。何かが改善されたように見え、何か新たな問題が発生するように見えるものです。 ベテラン教師が何十年も毎年毎年同じ項目を教えるということを繰り返しながら、その教育効果が向上しないでいるというのは、どういうことなのでしょう。時代の変化によって子どもの質が変わったからということを原因とすべきでしょうか。教育とは、時代に即して授けられるものでしょうが、本質的には何か普遍的なものを社会が伝えていく行為なのではないでしょうか。 個人の幸福と社会の幸福が一致するような方向に、社会を構成する人々がそれぞれの能力を高めあい、お互いの違いが社会をうまく機能させるように、根底では互いの共通点が認め合われていなければならないと思います。普遍的なもので私が思うのはこんなところですが、時代の影響は、後者の共通意識の低下ではないかと思います。ですから、他者と競い合うのが切磋琢磨して自他共に向上することにあるのでなく、他を出し抜いて勝つことに注意が注がれてしまうのです。 ですから、もっと思い切った改革をするとなると、全教育課程を完全義務教育化し入試競争を無くします。その中には、収入の得られる職業体験カリキュラムも含みます。コンテスト形式の活動が活発に行われて切磋琢磨する機会が十分にあります。グループ参加もあれば、個人種目も有るというものです。全員が住んでいる所に一番近い学校に通うのが原則ですが、これらのコンテストで極めて能力の優れたものは選抜されて、特殊な教育機関への道が開かれます。 ドラスティクな教育改革は、政治家も国民も不安に陥れるので好まれないものです。ですから、みかけは変わるが本質的な改革とはならないはずなのに、もっともらしい理由をこじつけながら、改革すると唱えているように思えます。現在のような子どもたちの状況を生んだ社会は善いのか悪いのか考えて、社会が変わらなければいけないのではないかと思います。排他的競争原理を根底にもつ企業活動の是非を問いたいところです。
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- Ama430
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子どもが変化してきているのは事実です。 例えば、対人関係が希薄になり、コミュニケーション能力がかなり低下しています。 学力の国際比較では「単純な記憶には強いが、表現力や問題解決能力は弱い」「学力は高いが学習は嫌い」という傾向が読みとれます。 教育問題は、かなりの長期にわたって、トピックを変えながら、ずっと改善を求められ、少しも良い方向に進んでいないという感覚を多くの国民がもっています。 6・3制に原因を求めるのは、「いかに予算を削減しながら改革の印象を残すか」という発想からのように感じられてなりません。 本来であれば、そのような「一か八か」という大改革に頼らず、「せめて欧米より少し劣る程度の30人学級」などの、圧倒的に支持されている方法で問題解決をめざすのが普通でしょう。 しかし、銀行の営業の失敗を税金で埋め合わせても、大企業のために減税はできても、赤字必至の大型施設をゼネコンにつくらせても、それでも教育・福祉予算は削減したいのが、現在の「構造改革路線」です。 行政の学校制度改革は、おそらく担当する官僚でさえも何割かは、うまくいかないことを予期しつつ、イエスマンを演じているのだと思います。 イザナギを超える景気に満足しているごく少数の人々がいます。 その陰で、「痛み」ばかりを押しつけられている多くの国民がいます。 私たちにとって、見通しのない単なる打ち上げ花火で、その後、学校現場がどれだけぐしゃぐしゃに混乱しようとも、誰も責任をとらない、という制度改革は、迷惑以外の何物でもないと思うのです。
- jk7
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「4,3,2年で区切るという試み」については、勉強いや大学受験のことしか考えていないシステムですよ。 要するに、今まで小学校6年間で学習させていた内容を4年間で済ませ、次の3年間で4年分の総復習と中学3年間分の勉強をさせ、最後の2年間で3年分の総復習と高校1年生分の内容を詰め込ませるのです。 すると、そのまま系列の高校に進学した時、高校2年までに受験に必要な教科書学習が終わり、最後の1年間は、現役受験生を最も悩ませる演習時間の確保にまわすことができるのです。 同時に学校内に縦割り社会を作り、社会性を身に付かせると言いますが、これはどうなのか私にもよくわかりません。 大学受験のために勉強するなら良いかもしれませんが、つぶれる生徒もたくさんいるでしょうね。 それと頭でっかちな人間も社会にたくさん輩出されるでしょう。 だいたい学校教育とは何か?と考えれば、何かおかしい気がします。 大学へ行くだけがすべてなのでしょうかね? 中学でいう部活動はどうするのですかね?