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真理

真理について語ろうとする時、すでに真理について、認識していることになる。もし、まったく知らなければ、知ろうとしない。しかし、もし知っているなら、知る必要もない。 とするなら、真理は知りえるのでしょうか。

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  • nisekant
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回答No.15

真理とは太陽である。 直接見るには耐え難い、近づけば近づくほど熱くなる。

その他の回答 (14)

noname#80187
noname#80187
回答No.4

真理について語ろうとする時、すでに真理について認識していることになる。 僕もそうだと思います。 まったく知らなければ知ろうとしない。 僕はそうは思いません。 真理とは、何でしょうか?真理とは事実の法則、道理、存在だと私は思います。 人間は、知を持ち、考えを持ち、研究をしてきて、今の自動車や飛行機、医療、その他様々なことを解明して、それを上手く活用してきました。 まったく知らなくても、それが必要となった時、それを欲した時、それを悟るために、研究をします。頭の中で考え、実際に行動してデータを取ってみたり、とりえず物事を信じてやってみたりして。  その中で、普段は気付きもしなかったことが気付くのではないでしょうか?その時、1つの真理を感じ悟ったということではないでしょうか? 初めは、それに対し、まったく知らなかった訳ですが、自分の中で必要と感じた時、それを知ろう、いや見つけようとするのではないでしょうか? 最近の科学技術で解ったことはたくさんあります。新しい栄養素などが代表的です。  人間は、いつかすべての真理を知ることができるかもしれない。でも、それにいきつくには長い長い年月が必要だと私は思います。  また、真理を感じ悟るには、それ相応の感覚や要求されます。職人などのような研ぎ澄まされた感覚がなければ感じれないことあると思います。その職人さん方も初めからそういった感覚を持っていた訳ではなく、長い年月の修行で養ったものだと思います。  真理を感じ悟るには、それを感じ悟るように努力をしなければならないと思います。 以上、参考になれば幸いです。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.3

>真理について語ろうとする時、すでに真理について、認識していることになる。もし、まったく知らなければ、知ろうとしない。 「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属するものはみな、私の声に聞き従います。」 真理の証をする使者だというこの人は、その真理というものがなんなのか知っていたのでしょうか。 真理だ 自分は絶対的に正しいと訴える人に、相手は「真理とは何ぞや」と聞きます。 絶対的な自信を持って「我こそは真理の使者なり」というからには、知っているはずだと思って答えてみろとしたのでしょうか。 それとも諭したのでしょうか。 それに対して真理の証をしにきたという使者は、どう答えたでしょう。 無言でした。 今までスラスラ答えられたのに、ここにきて肝心のこの場面で答えられなかった。 つまり相手は諭したわけですね。 Quid est veritas? 真理とはなんぞや。 ある人は「Est vir qui adest」と答えればよかったのに と言いました。 アナグラムです。 一つも欠けておらず足されてもいない名答。 意味は「あなたの前に立つ人なり」だそうです。 この宗教においてとても重要な教義というか神の存在の証みたいなものなのに、肝心の神の存在の証であると主張するものが、決定的な場面で証せなかった。 まるでジャンヌ・ダルクの裁判みたいです。 >真理は知りえるのでしょうか。 無理など思います。 何故なら人間は相対的にしか物事をみれないから。 フィルター無しに直接触れることは不可能だから。 ということは、人間は絶対的な義を知覚することはできない、にもかかわらず裁判をして人を罰する。 多数決などで選び抜かれた人が、その他大勢の代表の知覚として、てんびんをどちらに傾けるか決めているわけです。

  • crew21
  • ベストアンサー率26% (58/222)
回答No.2

真理という言葉を、例えば富士山と置き換えてみるといいのではないでしょうか。 富士山について語ろうとする時、すでに富士山について、認識していることになる。 もし、まったく知らなければ、知ろうとしない。しかし、もし知っているなら、知る必要もない。 ところでその認識や知識が、遠くから富士山を眺めたり、写真や書物で見ただけの認識や知識であるならば、まだそれを体験していないということになる。 富士山は自分の足で苦労して登って初めて、本当のすばらしさや、誤った登山をした場合の危険性を知ることになる。 それは写真や書物からの知識では決して得ることができない知恵である。 なのでほんとうに真理を知ろうとするならば、真理を体験することである。 体験を伴えば、それに付随する知識や認識は自ずと伴うでしょう。 また体験することが、ほんとうの意味で「真理を知る」ということだと思います。

  • cozyskt
  • ベストアンサー率28% (99/343)
回答No.1

真理はどこか別のところに存在するものではなく、真理とはそこに到達しようとする目標であると考えてみてはいかがでしょう。 「自分が真理であると信じるもの」は知りえ(というか想像しえ)ますよね。

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