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わたしは、いかに生きればよいのか
この質問は、aster が行うものです。回答文中では、呼ぶ場合は、aster を使ってください。なお、コメント欄を参照してください。 --------------------- そこで、質問ですが、わたしは「生きる意味」が見出せません。生きていることにかつて、夢や野望や期待があったのですが、いまや時は過ぎ去り、わたしは生きてあることに希望や未来へのプロジェクションが持てません。 元々、頭が悪く馬鹿だとは思っていたのですが、どういう訳か、自分自身の価値を過大評価していた若い時代がありました。いまや、自己の総合的な能力とか知性とかは、非常に低いものでしかないと実感しています。 もとより、わたしは社会に何かの貢献をしようというような、殊勝な考えはないのですし、きわめて利己的で、自分のことしか考えていないのが実状です。このGOOで、何か回答していることは、何か誰かの役に立っているのかとも思うのですが、あまりに失意が多いとも思います。 質問者のことを思って回答を書いているのではないのですが、幾分か、そういう場合もあるでしょう。 人は、わたしが現実的にいかに馬鹿で無能なのか、知らないとも思います。わたしは孤独に生きてきて、孤独に死んで行くでしょう。生きて、何を得たのか、何を成したのか、「空しさ」しかないというのは極論かもしれないでしょう。 わたしは、慰めが欲しいのではなく、いかにすれば「意味」があるのか、いかに残された時を生きればよいのか、参考意見を聞きたいのです。また、貴方は、いかに自己の人生に意味を感じられるのかです。生きていることに意味がないとは思いませんが、しかし、この世界は、わたしにとって故郷であると同時に、異邦であるのです(これは「哲学的問題」になるのです)。 わたしについての質問は、答えられれば答えます。
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人生に手ごたえを得たいなら、無意味に感じられる行動でも徹底的に貫くことで達成感を得る、という方法があると思います。 どうやら人は己の限界に挑戦したり、全力を尽くして事にあたると、その行動がなんであれ達成感を得られる生き物のように思えます(ギネスブックはそんな例を、ただたくさん集めた本にも見えます)。「思考」がたとえ、それは無意味だ、と異議を唱えたとしても、自己という存在はそれだけでも満たされてしまうのではないでしょうか。 その他には、美しい人生にするという手もあるかと。 美しいと実感させられる価値観をお持ちではないでしょうか。私は、公平や、義理や、愛や、献身や…等々の概念で示される行為を、意味があるのないの以前に、実感として美しく感じてしまいます。そういった概念に積極的に従って生きていった場合、いつか自らの人生を概観した時、美しい人生と認めざるを得ないと思うのです。美しさに彩られた人生を前にして、なおその価値に満足できないということは無いと思います。 私には「実存の要請」とやらは自覚されませんが、もしそれを感じた時には、言葉では抗えない実感を大事にしていくことで、切り抜けられるのではないかと思っています。
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- _hiroya_
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笑)まちがえた。かも。 とまれ、って、ともあれちゃうん?もしかして。 道路に敷いてある「止まれ」標示と勘違いしたかも。 とまれ、←この句点がとまれを名詞っぽく感じでしまったんやけど、どうなん? ぐるぐる回ってるのを「止まった」? 止まれば行ける。 なぜに、ぐるぐる回って「点」の「見え方」が変わるのか? なにはともあれ、変わるという事は事実だ。 何故変わる?ぐるぐる点の周りを回りながら点を見て、何故見え方が変わる? 点なのに。何故変わる? >わたしは、ぐるぐる回っているあいだに、実存の状況が変化して行き、「自明の理」が見えなくなっていたのかも知れません。 止まったってことか?自明の理が見えるって事は。 とまれ、応援してるから。
- _hiroya_
- ベストアンサー率5% (2/34)
哲学で解決できるかできないかというより、これは考える難問であり、俺には、この人(質問者ね)がもう行けると言う事しかわからん。すでに行ってはいないが、もう行けると言う事しかわからん。 阪神の応援よりも、こっちの応援の方をさせてもらおう(笑。 で、アポリアってなに? 補足いいかな? >人はアポリアの特異点の周りを、ぐるぐる回っているとも云えるのです。しかし、旋回によって、アポリアの「見え方」が違って来るという「真理」があるのです。 >とまれ、助言に感謝します。 「止まれば行ける」
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
asterさん~♪$(^-^)$/こんばんは~♪ 「生きる意味」お題をあげられてますねぇ?ここを読んでわたしも一緒に考えてみました。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――― (*^^*)>゛゛゛ニャハハ゛゛゛つらつら考えてみましたが、頭ん中がこんがらがってホイ!になりますぅ-。ただひとつわかったことがありますぅ-。答えがみつかんなくても、ほら~♪こうして笑えます―☆悩んでるわたしが、可愛くなってきますぅ。いろんなわたしに出会える、出会うために生きてるのかもしれないなぁ~♪なんて思ってみたりしています。『かくれんぼ』で、だれにもみつけられないままずぅ-っと、物陰に隠れてるとはじめはいいんですが、時間の経過とともに忘れ去られてゆく。さみしいですよねぇ!さみしいのは嫌なんです。いつも気持ちいいわたしでいたい。だから、まだ会ったことのないわたしを探すんです。出会えるかどうかわかんないけど、探すことをやめてしまったら気持ち悪いんですぅ-。わたしが気持ちいいってかんじられるわたしでいたいから「ここだよ!、ここにいるよ!早く見つけて!」って声のなるほうへおぼつかない足で一歩一歩踏みすすめて、歩いています。歩くのあまり速くないけど、ゆっくり歩けば行く道すがらいろんな景色が見えて素敵です!気持ちいいんですぅ―。それにねぇ、(*^^*)ニッコリ笑うと緊張もほぐれますぅ~♪気持ちいいんですぅ~♪ただひとつ欲をいえば、微笑む先にだれかがいるともっと気持ちいいです。微笑返ししてくれるとなんだかとっても気持ちいいんですぅ~♪「意味や・価値」を考えられるのもけっこうですが、こんがらがってホイ!ってなったとき、鏡をみてください。難しい顔したasterさんが鏡の中に映ってます。しばらく鏡に映るasterさんとニラメッコしてみたらどうでしょうか?きっと、笑みがこぼれますよ―☆(*^^*)vあとは、口笛吹いてラララララ~♪おためしあれ~♪CHU-☆
お礼
回答ありがとうござます。 三石琴乃(セーラームーンのうさぎの声優)のアルバムCDのなかに、「お喋りガールフレンド」だったか、お喋り仲間の歌があって、段々歳を取って行くのですが、最後は、「白髪をピンクに染めて」となります。 そんな総白髪になるおばあさんになってまで、髪をピンクに染めて、おしゃべりしようと、いうのは、凄く元気のいい、楽しい話だなとも思ったのですが、しかし、疑問も感じました。歌ではうたうことができても、そういうことが現実に可能なのだろうかです。わたしは悲観主義なのかも知れませんが。 鏡のなかの自分の像をじっと見つめていると、鏡のなかの像が、誰か見知らぬ人に見えてくるという体験はありませんか? わたしは別に、人格に解離性傾向などありませんが、これは、どうして起こるのだろうか、と疑問を抱いたことがあります。誰か知人に聞くと、自分も同じ経験があるとか言っていました。 竹宮恵子の「Fly Me to the Moon」のなかに、鏡のなかのニナがこちらの世界に来て、こちらのニナが鏡のなかの世界に行くという話がありますが、わたしは別に、鏡のなかに別の世界があるとは考えていません。水面を鏡として、自分の相貌を見つめ、恋したナルキッソスは、水仙の花になりましたが、「鏡」というのは、ある魔術的意味を持っています。 鏡のなかにミラ-リングの「もう一人の私」を見る時、それは「楽しい未知の可能性」なのか、「不安と戦慄の未知の可能性」か、「両義的」なのです。道を歩くと、楽しい未知に出会うのか、禍々しい未知に出会うのか、両方の可能性があり、それを「楽しい未知」に切り替えることができるなら、それも、一つの実存のモードか、性格の才能か、ものごとの明るい面を見ようとする積極的態度なのか、現実に成立し得る態度であるのは事実です。 「かくれんぼ」については、「とおりゃんせ」と同じように、非常に恐ろしい意味がまたあるのです。そういう恐ろしい世界の次元を、仮に「魔」と呼べば、魔に対しては、「笑い」や「諧謔」が有効だという経験法則があるようです。あるいは、呪文が有効なのです。「甘いもの、プリン、チョコレ-トケ-キ、ミルク……」なども、唱えると呪文になります。明るく楽しい世界の「端」を引っ張ると、そういう世界が、こちらへ引き寄せられて来るという事実もあるのです。 「小さな口づけ」さんは、そういう意味では、「魔女術」を知っているのだとも言えます。わたしは「魔術」も「魔女術」もあまり縁がないのです。ジュリー・アンドリュースが主演した「サウンド・オヴ・ミュージック」のなかに、「My Favourite Things」という歌があります。これは、困った時など、お好みのものを思い浮かべ、並べていると、心が明るくなり、元気になるという歌で、気分の切り替えの技術の一つと言えるでしょう。 「一般に人々は、何らかの慰めで、人生をごまかしつつ、生き続けてゆく」とわたしの師は、昔、書きました。この言葉は、「しかし、そのようにして、人生を宥めつつ、生きて行くことができない者もいる」と続きます。師は、わたしに課題を出したのですが、どう解決すればよいのかです。 ネットで知り合ったある人は、医師だと言っていましたが、患者が死んだ時、ガブリエル・フォーレの「レクイエム」を聞いて、心の慰めを得たと述べていました。わたしが死んだ時には、この「レクイエム」を流してほしいとか、この曲のなかの、「In Paradisum」を聞きつつ、この世を去って行きたいとか考えていたこともありますが、それも「生きる情熱」のなかに入るのです。 存在は何故存在するのか。ハイデッガーの「存在と時間」を最後まで読まないと行けないとも思うのですし、それを読んでも、果たして何かが開けるかというと疑わしいでしょう。「白鳥の小川の傍らに佇んで、過ぎ去った昨日の模様を思い、静けさがわたしの心を満たす、白鳥の小川の傍らに佇んで……」 我が魂よ、我が翼よ、わたしは風のなか、空の無限の彼方に飛び去って行くだろう。 …… Nunc et in Hora Mortis Nostrae …… プロフェッサー・トモエがすべてを計画したとして、彼の娘はなぜ滅びねばならないのか。すべては幻なのか? 裏切り裏切られるこの地上にあって。 Domine, Miserere Me. (2002/0429/0421)
- ayacoayacoayaco
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長文&改行なしの哲学的なやりとりだけが淡々と進んでいるようなので 正直言ってあまりきちんと読めませんが、 あなたの問題は哲学で解決できるのでしょうか? だとすると、「人生に悩んでいる」というより「自分の哲学で行き詰まったので 参考意見をもらって議論したい」状態ですよね。
お礼
回答ありがとうございます。 >あなたの問題は哲学で解決できるのでしょうか? 「哲学」と言った時、貴方とわたしで意味が違っているのではないかと思います。一般の人の哲学概念はわたしにはよく分かりません。それぞれの思いこみで考えているからです。専門家はどういうことを考えているのか或る程度知っているつもりです。そして、わたしは、わたしの「哲学」の意味を持っています。それは基本的なことかも知れません。思索し、生きることが哲学の営みだと思います。 ここで「思索」と言えば、この世には「思索」以外のものが色々あるということになるでしょうが、わたしの使う「思索」はもっと意味が広いのです。「観念的に本を読み、部屋のなかで考えていたのでは分からなかったこと、知らなかったことが世のなかにあった」というのは、それは思索の経験が未熟なのです。 具体的な他者との関わりのなかにも思索はあり、未知の場所に立つ時にも思索はあるでしょう。哲学とは、生きていることを思索することで、「わたしは誰か」を尋ねることにもなります。智を愛するとは、智慧を友とすることで、智慧の友となれれば、それは幸いなことでしょう。 >だとすると、「人生に悩んでいる」というより「自分の哲学で行き詰まったので >参考意見をもらって議論したい」状態ですよね。 そうではないと、思って、レスを考えていたのですが、ふと、そのようにも表現でき、理解できるではないかと思い、なるほどと思いました。桜の花はもう散っていたと思いますが、桜の樹のならぶ道を歩きながら、「自分の哲学に行き詰まった」というのは、確かにそうも云えると感嘆しました。 ただ、わたしは誰かと「議論」したいのではありません。この質問のお礼を書くのに、随分と時間と思索と配慮が必要です。議論する場合、こういう「配慮」は必要ありません。わたしが議論をしているように見えるのでしょうか。 (2002/0426/0507)
私なりの回答です。 あなたがどのような人間であれ、いかに生きるかはあなたがいかに生きたいのかに深くかかわっているのだと思います。 人生の意味について私はこう思っています。私の人生は私にしか生きられない(私だから生きられる)。 この二つの問題についてもっともっと書きたいこともありますが、やはり人それぞれ自分なりの問いと背景、答えも違いますのでやめておきます。
お礼
回答ありがとうございます。仰っておられることは、失礼を敢えて申し上げれば、実は「自明の理」なのです。 そもそも「実存」という言葉のなかに、この「わたしの存在」をめぐる問題が象徴的に示されているのです。「自明の理」であって、そして「アポリア」である。 「人生の意味」の問題は、問いかける人の年齢により、問題意識により、色々な形の「意味」を持っています。「セパレーション感覚」という概念について語っておられる方がいて、お礼が難しくてまだ記していないのですが、失礼とは思いますが、ここでそれに少し触れれば、「セパレーション感覚」で問題が整理できるように見える問題の様式は、或る年代・或る人格パターンのものだとも云えるのです。 異なる年齢や状況の人には、別の問題の整理・視覚化が必要になります。そして「意味の問題」はアポリアであることが「自明の理」で、それでも「尋ねる存在である人」は問いをやめないのです。 人はアポリアの特異点の周りを、ぐるぐる回っているとも云えるのです。しかし、旋回によって、アポリアの「見え方」が違って来るという「真理」があるのです。 わたしは、ぐるぐる回っているあいだに、実存の状況が変化して行き、「自明の理」が見えなくなっていたのかも知れません。 とまれ、助言に感謝いたします。 (2002/0419/0304)
asterさん、自分のために回答することをお許しください。 >あまりに失意が多いとも思います。 自分に対する失意と言う意味合いでしたら、私も大いに感じているものです、他人に対する配慮の無さや、自分の馬鹿で無能な事を、あらためて再確認しています。 それでもこうして質問したり、回答したりすることは、他人に知って欲しい、他人を知りたい、他人との違いから自分を知りたい、まだ、生きることを諦めていない証拠だと思います。 私にとって他人は宇宙です、永遠に理解不可能だと思います、同時に自分の内面も小宇宙のように理解不可能と思っています。他人に自分のことを理解してもらうことはさらに不可能です。それでも、完全な理解を諦めたとしても、少しずつ知ったり、知られたりすることは可能だと考えます。 いつか解かる時が来ると信じて諦めないことではないでしょうか。 >生きていることにかつて、夢や野望や期待があったのですが、いまや時は過ぎ去り、わたしは生きてあることに希望や未来へのプロジェクションが持てません。 なくしてしまった物など、元々もっていなかったと考えれば気楽ですよ。
お礼
回答ありがとうございます。多くの方から回答をいただきましたが、そのなかの或るものは、一読させて戴いて驚きを感じたものがあります。少なくともこの回答は、これは、どう答えればよいのだろうか、と考えた回答でした。 >私にとって他人は宇宙です、永遠に理解不可能だと思います、同時に自分の内面も小宇宙のように理解不可能と思っています。 これは、真理だと思いますが、わたしの感じていることと、貴方の感じていることが、果たして同じことなのだろうか、という疑問が起こるのです。「共に太陽の光を浴び、語り合っている友が……」ではありませんが、インターネットの情報空間のなかで、こうして言葉で出会った人は、果たしてどのような人であるのだろうかと把握しようとすると、その把握の手の先から相手の姿が消えて行くと言いますか、「このような人なのか」と思うと同時に、「いや違うのだ」とか言うことになって、「永遠に理解不能」だともなるのです。 これと似た言葉は、別の人が記しているのを昔読んで、そう思ったことがあります。しかし、今、それとよく似て、遙かに先鋭な言葉を聞いてみると、あらためて、この「似たような意味の言葉」が、本当に似ているのか、そもそも理解し合えない存在のあいだで、「理解し合えないという了解」は、互いに通じるということがあるのか、という疑問が起こって来るのです。 言葉の遊びをしているというお叱りを受けるかも知れませんが、でも、わたくしにとっては、実は「他者は存在しなかった」のではないかと思うと、永遠の理解不能を宣言しつつ、何時か解る日が来るというのは、「他者の存在を信じている」からだと思うのです。 この回答の何に驚いたかと言うのは、「他者は永遠に理解不能」という宣言です。「わたし」は「そうではない」と、その時、驚いたのです。 ………… この回答を読ませて戴いてから、わたしと他者はどういう関係にあるのだろうか、と比喩的なイメージを考えてみました。それは、薄膜というか、フィルムの重なりのようなイメージです。アニメのセル画は、属しているフィルム平面が違っているものがあるのですが、重ねられていると、外見的に、同じ「空間=フィルム」の上にあるように見えます。 わたしと他者は、別の「フィルム=世界」の上に乗っているのではないかと言うことです。フィルムがどこかで交わっていない限り、わたしと他者とは、永遠に「出会わない」ことになります。他者の心に触れたと思った時、フィルムで、相手と触れて重なるのですが、その時、重なっているが「触れていない」ということを見いだすのです。 それは「独我論」ではないのか、という話になるかも知れませんが、そうではないのです。「他者は存在する」のですが、「わたしの存在する空間」にはいないということです。わたしだけしか存在しないのではなく、他者は別の世界に存在していて、わたしは共有しない空間にあるということです。 他者も、わたしと同じような存在状況にあるのか、あるいはわたしだけがそうなのか、または、或る種の人々は、わたしと似たような存在状況にあるのか、色々なモデルで考えましたが、解らないというのが目下の答えです。 バビロンの河のほとりに座して 我らは シオンを思ひ出でて 涙を流しぬ 世界と人々が、このようにすれ違うが故に、この世は、「異邦」であるのです。別にわたしは、太陽の光が眩しいので誰かを殺すというような話ではありません。また言葉の遊びをしているのでもありません。こういう話を記しましたのは、回答してくださった方々に対し、わたし自身もよく分からない、非常に奇妙な「存在状況の把握意識」があるということを記すのが、マナーだと思ったからです。 >いつか解かる時が来ると信じて諦めないことではないでしょうか。 人類の涙が造った永遠の湖で、何時か私たちは再現されるかもしれないですね。……あるいは、この「世界空間」のどこかで出会える日が来るのかも知れないです。 (2002/0423/0107-0231)
- mcqgogo
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#19の者です 回答のお礼を読みました 誤解されるのはその内容から言っても無理ないとは思いますが、貴方が言われている疑念は幸運なことにあてはまりません。匿名性の高いこういう場でのやり取りには、プライバシーに関わることは努めて気を遣うべきだと考えていますのでご安心ください。僕自身も貴方が書かれた内容を注意深く読み取るよう心掛けますので、asterさんにも同じことをお願いしたいと思います。 >元々、頭が悪く馬鹿だとは思っていたのですが、どういう訳か、自分自身の価値を過大評価していた若い時代がありました。いまや、自己の総合的な能力とか知性とかは、非常に低いものでしかないと実感しています。 先の問い掛けはこの文章を念頭に置いて行ったもので、それは人生の上でここに共通認識の基盤があると思ったからです。挙げた例は社会的地位に於いていささか極論でしたが、それは話を分かりやすくするためであり、学歴でも成績でも周囲の評価でも、一時は知性に対して社会的に評価を得たという事例なら何でも良かったのです。 もしこちらに臆断があるとしたら、社会的地位については全くの濡れ衣ですが、貴方の知性に対してだけはそうであったかも知れません。 それは、貴方が言っている「自己の総合的な能力とか知性の低さ」はIQ・EQと呼ばれるものや才能・自己実現能力などを勘案してみた時に、ということだったと推測しますが、僕は話のすすめ方としてこれらを分けたほうが判りやすいと考え、いわゆるIQ 的知性の高さについて述べたためです。 言わんとすることは理解していただけましたでしょうか? 先の問い掛けの続きになりますが、 簡潔に奢りと誇りの違いを表現すればそれは「自信のもつ普遍性の違い」とも言えるでしょう。誇りとは環境を選ばず、逆境にあればかえってその力が発揮される性質のものです。 そこでプラトンが描くところのソクラテスを思い出してください。彼はソクラテスの生き方に於いて「無知の知」だけを訴えたものではないことは明白です。毒を仰ぎ死んでいったソクラテスのもつ誇りはどうであったかを、何故プラトンはソクラテスを師と仰ぎ彼の意を継ぐ形で哲学の地平を拡げていったかを想像してみてください。彼はプラトンがいなければ、ただの異端の処刑者として埋もれていたかも知れません。(賢明な貴方のことですから、彼らの思想や社会背景をこれ以上僕が説明することの愚は控えます) そこで僕が思うのはプラトンの聡明さであり、歴史の陰に埋もれていった名も無きソクラテスの群像達であり、また今を生きる無数の多様なソクラテス達でもあります。これは単なる比喩ではなく自分なりの人物観でもあると考えています。 哲学は愚かしさを知ってそこに留まる学ではなく、愚かしさを知りその上でよりよき解を得るための学でもあるのです。貴方は必要以上に卑下することなく、誇りをもって多彩な知性を無駄にせず、これからの人生に役立てて欲しいと思った次第です。 願わくば、今のようなおおらかさとユーモアを道連れに (FFMANさんの簡潔にして示唆に富んだ解は僕も大賛成です)
お礼
回答ありがとうございます。お礼が遅くなって申し訳ありません。 幾度か読み返させて戴きましたが、わたくしに対する過分な御言葉であるように思えます。(勝手にそう思っている場合は、わたしの未熟さをお許しください)。 わたしには奢りもあり、また誇りもあります。我が人生を振り返れば、社会的に意味あることは、ほとんど何もしなかったという思いになります。このサイトでたくさんの回答を書きましたが、それが幾らかでも他者の役に立つなら、それがわずかな社会的に意味あることかも知れません(そのように思うこと自体が、奢りであるのかも知れないでしょうが)。 別に自慢するのではないのですが、わたしに本を書いて世に問うべきだ、デビューする価値があるので、是非デビューして欲しいと言った人は、一人や二人でないのですが、この二年ほど、そのように社会的に自己の評価を得るという試みも、放棄してしまったような状態なのです。わたしが哲学に行き詰まっているのだ、というようなことを述べられた方がおられて、幾日か考えていて、今日、そういうこともあるかも知れないと思ったのですが、行き詰まっているのは、何らかの著作を著し、出版し、世に問うことの不可能を感じたことでしょう。あまりに能力と経験と努力に欠けていると痛感したのです。 思えば、このような場所で、文章を書いているのではなく、読むべき本、学ぶべきことを学び、努力せねばならないのだとも思います。一年前には未だ読書していたのが、この一年、何の本も読まないとは、情けないことです。 わたしには、「おおらかさ」や「ユーモア」はないと思いますが、できうれば、世界や他者への恐怖や不安なく、「おおらかで」ありたいとも希います。また「ユーモア」は、真に自信のある者しか持てないものでしょう。わたしには持ち得ないものですが、これも、希望するに自己の奢りではないでしょう。 些か傲慢なことを記しました。不快に思われる方には、謹んでお詫び申し上げます。 (2002/0422/0422)
- ayacoayacoayaco
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うわっ。なんでこんなにたくさんの回答で盛り上がってるんでしょうね? わたしは、哲学といえば聞こえはいいですが、なんだか単なる ことば遊びに思えてしまいますが。 > いかにすれば「意味」があるのか、いかに残された時を > 生きればよいのか、参考意見を聞きたいのです。 参考意見といっても、自分の語りになってしまって恥ずかしいので やめときます。他人の人生のことを聞いてもしょうがないんじゃ ないですか? > 貴方は、いかに自己の人生に意味を感じられるのかです。 いつもじゃないですけど、たまに感じます。 でもそれで十分な気がします。 あまりに長期的な視点は疲れるので、2~3年を節目に目的を設定して クリアする、その繰り返しです。 > この世界は、わたしにとって故郷であると同時に、異邦であるのです これが孤独感の比喩的な表現だったんですね。 でもそれじゃよくわかりません。ごめんなさい。 「異邦である」とはどういう状態を指して言っているんですか? 具体的な話がないとわからないです。
お礼
回答ありがとうございます。 「ことば遊び」というのは、そう見えるということで、それはそれで良いのではないでしょうか。貴方にとって「ことば遊び」に見えても、わたしは少なくとも、切実であったのは事実です。また、このような質問に、「正解」などはないのではないでしょうか。質問者であるわたしが「感銘」を受けるような言葉や、考えがあれば、それで良いということではいけないでしょうか。 「生きていることの意味」がまったく感じられなくなれば、異常心理学の範疇に入ります。「意味」のレヴェルも様々です。何かささやかなことが楽しく思えた時、満たされた時、それは「人生のささやかな意味充足」と云えるでしょう。 >「異邦である」とはどういう状態を指して言っているんですか? No.25 の回答のお礼のなかで、イメージを書いたのですが、分かりにくいかも知れません。「こういうことで困っているのです」「こういうことで孤独なのです」と書くことができるかも知れませんが、そういうことの「背景」に、人生全体の経験の蓄積が前提としてあるので、「それは私も分かる」という時、それは、分かっているのだろうか、と思います。 「自明の理」という言葉を使う時、かなり考えました。しかし、「わたしがわたしであること、わたしの人生はわたしが生きること」これは自明の理に他ならないと思いました。わたしは、他の人と較べて、わたしの人生の意味が感じられないとか、空しいとは言っていないと思います。 外見的に成功している人でも、空しさのある人は空しいでしょうし、外見的に失敗しているような人でも、本人は、人生に満足している場合もあるでしょう。「人の心の深さは限りがない」というのが、わたしの私念(doksa)です。 (2002/0426/0426)
- shadoworks
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人生の目的が見つかってからでは手遅れです、 猫の手も借りたいほど時間と能力も足りません。 手伝ってもらえるように、今のうちに手伝って おきましょう。 手伝いに失敗しても他人の人生 だし(←こらこら)、やっといて損はないですよ。
お礼
回答ありがとうございます。なるほど、他者に恩義を尽くせば、他者の方でも、お礼を返してくれるということですね。 世界のどこの文化でも、一般的に通用する、生き方の真理です。これが通用しない社会は、どこかおかしいか、何か非常事態か、崩壊に直面している社会ですね。「友情を交換し合う」という意味で受け取らせて戴きました。人は互いに助け合わねばならない存在だということです。 (2002/0415/1644)
- _hiroya_
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あなたは真面目な方だな。俺らみたいなあほは、阪神が勝てばそれで元気になるんだがな。俺にはもうあまり言うことねぇな。ただな、道が無いのに、そっからはずれるもなにもねェンだよ。完璧かどうかはどうでもいい。なんもわかっちゃねぇ。 男を求める女は愛くるしいが、あれほどくだらない生き物はいないよ。 自然にとけていけるってのは、いいもんだ。 でもな、とけていくってのは、それとわかれてるからとけていくんだよ。 もうすでにとけているというのが、まだある。そいつはとけないのにとけてる。 対象はいらん。奉仕に対象はいら ん。自然もな、いらない。命もな、いらない。なにも、いらない。 ツバメを見たな。さっき。買い物から帰ってくるときにな。 世界を渡る渡り鳥。 おれらは、 世界から 世界を渡る 渡り鳥、か。 生きなくても いいんだよ。いっちまえばな。 なにもいらない。俺には俺も、いらない。 必要ない。 なにもなくて、いいんだよ。 実存の要請に、応える必要もない。 ま、あってもいいがな。それもなくていいのうちだ。 うおっ。暇になってきた。 人間は飢えている。 孤独は大事にしなきゃな。 きけよみんな。 命が一番だって思っているうちは、苦しい。
お礼
回答ありがとうございます。たいへん美しい回答です。 こういう考え方は知ってはいましたが、長いあいだ、忘れていたようにも思います。というか、半年前、あるいは一年前、あるいは少し前まで実感していたことです。この「実感」が失われていたので、無意味と空しさを感じるのだともいま思いました。 野に咲くひともとの花は、誰にも知られず育ち、花開き、しおれ、消えても、その美しさは、永遠の宇宙にあって記録され刻印されており、「意味」は、永遠において無限において、あるのだということを、しばし忘却していたように思います。 バビロンの川のほとりに座して 我らは シオンを思ひいでて 涙を流せり 我らは そのあたりの柳の枝に 我が琴をかけたり そは、我らを苦しむる者 我らに求め シオンのうた一つ歌へと言へばなり 我ら 異邦(とつくに)にありて いかで「主のうた」を歌はんや これは、悲しみと憎しみと呪いの詩ですが、書き出しは、このように悲痛に満ちて、美しいのです。異邦にありて、いかで我が「うた」を歌うのか。 我がリュラーよ、我が魂のリュラーの響きよ 星星と銀河を越えて、永遠の永遠の宇宙に榮光あれ わが生と死を、なんじの無限なる美において受け止めたまえ なんじの永遠の翼にあって、わたしの霊は永遠であろう Kai eipen : Megalynei hee psykhee mou ton Kyrion, Kai eegalliaasen to pneuma mou epi tooi theooi tooi sooteri mou. - Kata Loukan - 主にあって、貴方がたに恵みがありますように。 (2002/0415/2029)